第一部 原生林に眠る神への御扉

白銀の牡鹿 1

 早朝。出社に向けて走っていく上り線に対し、山へ向かう乗客のほとんどいない下り線に一人乗っている青年の名前を怜と言った。私立大学を四年で卒業し、新卒で入った会社を辞め、行く当てもなく着替えと、趣味のキャンプで使っていたいくつかの道具を入れた登山用鞄を傍らにまさに死んだ魚の目をしながら、緑が増えていく窓の外の景色を眺めていた。

 電車と言うのは生まれてこの方交通の手段でしかなく、電車に対して好意を抱いていなかったことも相まって、電車自体が目的になることはなかった。しかし今怜は目的がないが故に、電車に揺られること自体がある種目的の様にすり替わり、線路が電車を打つ衝撃に身を委ねながら、心の奥底から沸々と湧いてくる暗い感情を誤魔化し、ただひたすらに移ろいゆく景色を楽しむことにしていた。

「次は終点、武蔵五日市駅ぃ。武蔵五日市駅ぃ」

 ああもう終点に来てしまったのかと、身体に馴染み始めていた電車の揺れを惜しみつつ、その重い鞄を背負い直し、電車の外へと出た。一歩一歩進むごとに、ずしんずしんと酷い重さを主張する鞄は、痛烈に肩口へとそのベルトを食い込ませる。生憎しっかりとした登山をしたことがない彼にとって、巨大なリュックサックはまるで今まで感じていた重しをそのまま再現したかのように、本来は軽いはずの足取りのリズムをかき乱す。

 もう新しい環境に対して期待は抱かなくなっていた。

「次に来るバスは……十四時か」

 ふと、今何時であったか気になり、ポケットに入れている筈のスマートフォンを取り出そうとしたところで、自分が「携帯――するべき――電話」を敢えて家に置いてきたことを思い出す。

 二十と余年。一人っ子であったが故に過過過保護とも言える環境で育ってきた彼が家出なんてことをすることは一度とてなかった。両親の愛は多少なりとも疑問があっても、素直に受け取る努力はしたし、行き過ぎた叱咤も愛の延長線であると言い聞かせてきた。

 大人の家出なんて本当にくだらない。中学生や高校生時代にしたものならまだしも、二十二歳にもなって家が嫌になって出てきたことを独立ではなく家出と称していることにすら反吐が出た。

 もっと向き合って話すことだって出来ただろうに、怜は全てからの逃避を選び、今花粉が鼻をくすぐる街、武蔵五日市駅へと辿り着いた。

「あと二時間……」

 駅前のバスロータリーの中心に聳え立つ時計を見て、今の時刻が十一時半であることを知った怜は自らの前に立ち塞がった膨大な時間を前に、絶望の声を漏らした。それと同時に怜の腹はぐぅと飯を食わせろと主張する。

 駅の改札の目の前にコンビニがあったことを思い出した彼は今一度足に喝を入れ、そのコンビニへ入店する。

 年齢層が高い気がした。レジに立つ従業員も、商品を選ぶ客も、心なしか自分の祖父母と同年代くらいの装いで、まるで自分が違う国に迷い込んだかのような錯覚を覚える。同じ東京だというのに、これほどまでに景色が変わるものなのかと、日本の少子高齢化の現状をひしひしと感じながらも、腹は減るものでそんな社会問題を気にする間もなく、普段から食べている梅と赤飯と納豆巻の三つのおにぎりを購入し、店を出た。

 腹が減っているから食事のペースが速くなるのはもう性としか言いようがなく、時間があと二時間もあることを考えればもう少しゆっくり食事を摂っても良かったかもしれないと、ゴミだけになったコンビニのビニール袋を見て、後悔する。

「何してんだ」

 ふわぁと食後のあくびを出した怜は、冷静に物事を考える時間を得たことで、漠然と自らの現状を鑑みた。このまま家に帰って、両親に文句を言われ、上司に無断欠勤を叱られて、またあの日常に戻ってしまおうかと思い立った自分に腹が立つ。自分で決めたことすらまともに遂行することの出来ないメンタルで、何かを成し遂げることが出来るのか、それどころか何をしたいのかすらもわからない自分へ呆れ、溜息をつく。

 考えつくのは自らを貶めるものばかりなので、怜は考えるのを辞めた。


 ふと、気が付くとバス停にはバスが停車しており、怜は慌ててそれに飛び乗った。怜にとってバスと言うと停留所ごとに多くの人間が乗ってきて、どんどんと不愉快な空間になっていくストレスの権化のようなものであったのだが、ここら一帯のバスはそんなこともないらしい。飛び乗ってからすぐ発車したというのに、バスに乗っている人間は怜一人で、まるで怪談の世界に迷い込んでしまったかのような錯覚を起こす。と、言っても運転手の血色は良いし、道々を人々が歩いているので、あの世ではないのだろう。

 目的地であるバス停の名前は憶えていたが、それが最初の停留所からどのくらいの距離で着くかもわからないから、ゆっくり眠ることも出来ないので、のんびりと流れていく外の景色を眺めることにした。

 行きの電車では都会から田舎という文明の変化を楽しんでいたが、このバスは文明から怜を引き裂くかのように、文明から自然への変化をまざまざと感じさせる。

「うぅ」

 外を眺めていたのにも関わらず、そんな声を漏らした怜は自分が乗り物酔いに弱いことを忘れており、バスという形状の乗り物が峠道を走り始めたことに絶望を覚えた。この苦しみがあと何時間続くのだろう。スマートフォンがあれば音楽なり、なんなりでこの気分の悪さを紛らわせたのだが、生憎文明との繋がりは捨ててきてしまった。だからこの腹部にある不快感を噛み締めながら、怜は青々と茂る新緑で何とか気を紛らわせようとした。

「……ぁ。つ……は……ぁ。お降りの方は――」

 そんな声を聴いた怜ははっと目を覚まし、辺りをきょろきょろと見回す。気持ち悪くなり過ぎたが故に、一瞬目を瞑ったが最後、眠ってしまっていたらしい。しかし生来電車やバスで眠りこけても、なんの因果か自分が降りる駅の直前で目を覚ますことが出来た。それは自分の最寄り駅でも、目的の駅でも一緒で、今回も怜が目的としていた停留所の前で怜の身体は見えない力に覚醒を促される。

「あ、降ります!」

 拍子にそんな言葉を言ったものの、視界の中に降車ボタンを見つけた怜は恥ずかしそうに、座り直し、そのボタンを押した。

「次、停車します」

 そんな車内アナウンスから数分もしないうちにバスは停留所に停車した。ずしりと重い鞄を背負い直した怜はバスから降り、運転手に一礼した後、バスが道の先にあるカーブを曲がるまで見送った。

 これで本当に文明との隔絶だ。今まで曇っていた空がだんだんと晴れていき、怜が目的としていた霊峰は雲の切れ間からその姿を現す。

 土地としては東京でありながら、辺りの自然からはまるで東京とは思えない東京唯一の村――秘境檜原村に聳えるその岩山の名前は――神戸岩かのといわ




 極東見聞録第一章、原生林に眠る神への御扉――白銀の牡鹿。

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