極東見聞録
九詰文登/クランチ
prologue
旅の始まり
僕の旅は、生憎どの人が経験した旅よりも色濃く、鮮烈で、劇的で、喜劇的で、奇妙で、不可思議で、そして最高の物語だ。それは全てにおいて僕に出会ってくれたヒトの言葉を話す動物たちのおかげだ。
そんな不思議で面白い友達を、旅先の生活と共に紹介していこうと思う。
日々、絶望だった。自分の背中に寄りかかって来る禿げ頭のおっさんも、ぎちぎちだというのに頑なにゲームを辞めようとしないキモヲタも。朝一番に自分を迎え入れるのがこれほどまでに不快で不愉快な満員電車であるのか、と。
そんな絶望を乗り越えた先にあるのは、アットホームな職場であり、どれをどのように詰られるかわからないから、変に背筋を伸ばし、常に背中に緊張の糸が張り詰めている空間。ちらほらとそこに辿り着く同僚たちの顔には笑顔が浮かんでいるのは狂気の沙汰だと思ってしまう自分にさらなる絶望を覚える。
大学時代、特異な趣味を持ち、体育会で主将を務め、文化会でも会計職を務めた僕にとって普通と同調圧力という言葉は遥か遠くの存在であった。こんな特殊な肩書に囲まれた僕は社会人になっても、どうにかなるだろうと根拠のない自信に溢れていた。その環境がただ世間体を気にして、仕方なく入社する思い入れの全くない会社だとしても。
――甘え――
石の上にも三年。なんて罪深い諺なのだろうと、小学生時代初めて覚えた諺を十年後に呪うことになるなんて誰が思っただろう。
他の者たちも大学四年という自堕落な日々を過ごした者たちなら、この苦しみを抱えているのだろうが、これほどまでの胸焼けを皆抱えているのだろうか。これから少なくとも三年、この地獄のような普通の日々が続くのかと考えると反吐すらも出ない。生憎中二病が抜けきっていない僕にとって、日本において最強とも言える普通という肩書は鉄球付きの虜囚鎖より堅く重い物だった。
日本人はある程度のことまで精神論で何とかなると信じていた自分だからこそ、扉の開いた電車に乗ることの出来ない自分の弱さに絶望した。そんな自分を見て、呆れた顔する両親が述べる多くの文言は、この絶望を一番身にしみてわかっている私の耳に痛いほどに響いた。
――ああ、いっそこのまま首に縄をかけてしまえば、何も考えなくて済む――
学校帰り、腹が減っている時に嗅ぐカレーの香り。まさにそんな日常に溶け込んだ誘惑のように僕の中に死の誘惑が生まれた瞬間だった。それを思った瞬間、慰めてくれない母の罵詈雑言も、背中を押してくれない父の冷徹な眼差しも、心の底から許すことができた。死んだらこの苦しみから解放されるのだから。
――違う――
今、自分は何を考えていた? 自ら死を望んでいた?
そんなくだらないことを考えていた頭を一度、自分の鉄拳で芯まで冷やした後に、僕の背中に投げかけられる剣よりも鋭い言葉を無視し、僕は一番愛用していた鞄にある程度の道具と、三日分の衣類と財布、通帳を押し込み、スマホもウォークマンも無しに家を飛び出した。この家では心が死ぬ。二十と余年、僕をここまで育ててくれた恩は忘れない。だがそれと同時に、ここにいればその恩は二十年余りで絶えることになる。だから僕は一度この家を捨てる覚悟をした。
【それが
もののけ姫のシシ神を想起させる体躯と角を備えた白い牡鹿は重く、でも聞きやすい声でそう告げた。
「え、いやまあそんな感じですかね」
苦笑いをしながら頭をかく青年、怜に対し、牡鹿は何かを諭すような表情で、言葉を続けた。
【つまらないな。わざわざ初対面の者に不幸話をして何が楽しい。違うだろ。お前がここに来たのは人生に絶望したからじゃない。ここに来る理由があったからだ】
「そんな運命論みたいな」
【運命論の話をしているわけじゃない。歩いていると言うのにわざわざ後ろを振り向くようなことを言うなと言っている】
牡鹿の説教に少し嫌気の差した怜はそれでも何か反論しようとはせず、まっさらな心で牡鹿の言葉を受け入れてみることにした。
「アスファルトとか巨大ビルとか、クラブとか居酒屋とか。そんなものより僕は森とか河とか海に惹かれた。自然の中で何か見つけられるかと思って、かつて霊峰と謳われたこの山を目指したんです。でもその理由は近かったからなんですけど」
その言葉に牡鹿は嬉しそうな表情で鼻を鳴らした。
【確かめてみよう。ついてこい】
その一言を最後に牡鹿は話すのを辞め、山の奥へと歩いていく。怜の歩が遅れるとゆっくりと後ろを振り返り、怜が追い付くのを待った。恐らくどこかへ案内しようとしているのだろう。それに気付いた怜は一度屈み、靴の紐を硬く結び直し、白い牡鹿の後を追った。
これは僕が行く先々で出会った人語を介す動物たちとの生活とその別れを描いた日本を舞台にした旅行記。
名前は恐らく世界で一番有名な旅行記を描いたマルコ=ポーロにちなんで、極東見聞録。
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