中ノ国の姫

睦月 はる

第1話

伝説によれば中ノなかのくには、神の治める天ノあまのくにと、死者が治める尸ノかばねのくにが争い、双方の血と悲鳴が混ざり合って出来たと言う。


 故に中ノ国の人々は、産まれた時から死ぬ時まで、幸福を求める様になった。






 「見ろ、あれで男を知らない生娘だってよ。御簾越しでも色香が丸分かりだ」

 「実は通ってる男の一人二人いるんじゃないか?たっぷりたねを仕込まれてさ、それが滋養になってるんだ」


 檜扇を持つ手に力が入る。顔の前に広げた扇の位置を高く持ち上げた。


 「ご覧になって、あんな外から丸見えの所に堂々と。仮にも皇女ひめみこがみっともない」

 「春をひさいでいるのね。あら間違えた。春だから廂にまで出てきたのかしら」

 「暖かくなると、浮かれた有象無象が多くなって困るわ」


 外から不躾に孫廂まごびさしの中を覗く男達の視線と、廂の奥からこそこそと、でもはっきりと聞こえる様に囁く女房達の声。それを分かっていながら、今上帝の姫宮━━━霧宮きりのみやはそこから動こうとはせず、何も言葉も発せず、ただ外を向いて静かに座っていた。


 それが、宮家の捨て石である自分の役目なのだから。







 今上帝は長らく、世継ぎたる御子に恵まれなかった。

 七殿五舎に住まう女御更衣の誰が日嗣の御子を授かるのか、内裏後宮の皆々が噂に花を咲かせていたが、占いの結果、

 「新しく妃を迎えよ。さすれば御子を授かる」

 それを受けて当代一の美姫が帝に入内し、霧壺きりつぼの舎殿を与えられ、霧壺更衣きりつぼのこういと呼ばれる様になった。


 霧壺更衣は多くの女御更衣の嫉妬と、帝の寵愛を一身に浴びて、すぐさま懐妊した。

 誰もが男宮である事を確信し、霧壺更衣は我が世の春と謳歌する。


 しかし生まれたのは、姫御子だった。


 帝をはじめ、あらゆる人々が落胆し、次代の帝の母や外戚を狙う者は安堵した。

 その時期には他の妃も懐妊しており、霧壺更衣は瞬く間に役立たずの烙印を押され、帝の寵愛はすっかり消え失せた。


 霧壺更衣は失った栄華に落胆し、産まれた女宮のせいだと我が子を愛する事は無かった。


 他の妃が男宮を次々と産むと、占い師の言っていた事は、霧壺更衣が世継ぎを産むのでなく、霧壺更衣が入内する事が切欠で、他の妃が世継ぎを産むと言うものだったと、多くの人が認識した。


 中ノ国は、帝が頂きにいるものの、反乱分子が全くいない訳では無い。

 地方に息を潜める夷狄討伐の為、腕に覚えがある武人が集められた。


 その中の一人が、あろう事か夷狄討伐が成った際には、美姫で有名な霧壺更衣の降嫁を願ったのだ。


 既に無い者と扱われてきたとは言え、帝の妃を妻に望むとは、これだから品も常識も無い武人はと、公達は嗤ったが、武人は見事夷狄を討伐してしまった。


 役立たずの妃一人で褒美が済めば安いものはない。他の姫御子や宮に食指が伸びる前に、さっさと降嫁させてしまえ。


 はっきりそうは口にしなくてもお荷物を追い払えると喜び、帝への不敬と言う点に目を瞑り、朝廷は霧壺更衣を武人へ褒賞として差し出した。

 姫宮は、一応皇族の血を引く為、後宮に残された。


当の霧壺更衣本人は、身の置き場のない後宮より、自分一人を大切にすると言う武人の方がましと、半ば捨て鉢な気持ちで嫁いで行ったが、武人が霧壺更衣を想う気持ちは本物だった様で、二人は比翼連理の夫婦となり、多くの子宝にも恵まれる。


 朝廷は味を占めた。

 夷狄はまだ残っている。最大派閥の九摩疽くまそだ。霧壺更衣の成功例を見て、自分も高貴な姫を娶れるかもしれないと、粗野な武人が舌なめずりして、刃を研いでいる。

 それを利用して九摩疽を討伐させる。


 褒賞は霧壺更衣が残した、期待外れの姫宮だ。

 姿形は母親そっくりで、絶世の美女と言って差し支えない。そのうえ帝の血を引いているとなれば、淫慾と野心に飢えた野蛮人には十分過ぎる。


 霧壺更衣の姫宮———霧宮は欲に目が眩んだ武人達の目を眩ませ続ける為、美貌に磨きをかけ、本来なら至高の宝物として宮の奥深くで守られている筈でありながら、日があるうちは御簾を下した廂で打出うちいでの様に過ごす。


 全ては、本物の高貴な姫君を守る為。


 霧宮は、捨て石なのだから。







 「その成果がやっとでたわね。九摩疽の領地近くに本陣がある武将が、討伐に名乗りをあげたそうよ。年内討伐を掲げているみたいだから、来年はここの花を見られないわね…」


 霧宮は、ことりと筆を置いた。


 壺庭に植えられた、青々と茂る桐の葉を見やる。花が咲くのはもうしばらく先だ。



 見世物になる時間も終わり、夜。

 遊女あそびめの様な皇女に仕えていては、自分までそう思われると、霧宮専属の女房はいない。昔、霧壺更衣に屈辱を味わった妃の嫌がらせも含まれているだろう。




 蔑みと色欲に狂った視線を浴びる日々で己を慰める手段は、小説を書いて人物に鬱屈を言わせ、してみたい事、見てみたい景色を見させる事。そんな寂しくて惨めな毎日だ。


 その小説が、ある日嫌々世話をしに来た女房の目に留まり、盗まれ、女房の作品として発表され、瞬く間に人々の心を掴むことになろうとは。皮肉を通り越してとんだお笑いだ。


 女房は稀代の女流作家として、一介の女房から典侍ないしのすけにまで出世して、中宮ちゅうぐうのお気に入りとなった。

 しかし典侍に、人々の心を打つ様な小説など書ける筈も無く。続きを私の所から盗もうとしてあっさり私に見つかって、平身低頭涙がらに出来心だったと謝罪して、それでいて赦して欲しい、中宮様も続きを待っているし、このまま自分の作品として世に出し続けたいと、傲慢にも言いつのったのだ。


 頭が足りないにも程がある。


 捨て石皇女の物であろうと、皇女の私物を盗めば玉体に傷を付けたとして、死罪を言い渡されてもおかしくない。

 所詮霧宮だから、綺麗なだけの石くれだからと馬鹿にしているのか。それとも正直に謝って泣けば許してもらえると、本気で思っている愚か者か。


 不二原大臣ふじわらのおとどの縁者らしいが、不二原家もこんな女を宮使えさせるなんて、何を考えている。


 (ああ、捨て石の世話をさせる捨て石なのね…)


 みっともなく、鼻水を流しながら這い蹲って謝り続ける女を見下ろして、怒りがすっと引いて虚無感が溢れる。まだ皇女の矜持が残っていたのかと、馬鹿馬鹿しくなった。


 「ねえ。どうせ私の暇潰しで書いた小説だもの、私が書いたって言ったら、誰にも読まれずに紙屑になるだけより、お前の作品として世に出た方が、それも浮かばれるでしょう。続きを書いてあげるから、お前は道具一式を用意しなさい。書いたものも、きちんと受け取りに来なさい」


そう言ってやれば、今度は満面の笑みで感謝を述べる。現金な女だ。それで罪が消えた訳でもないのに。


 そうして女房は女流作家、不二原典侍ふじわらのないしのすけとして出世して、私は慰みの彩りを手に入れた。不二原典侍が資料にと寄越した絵巻物が、思いのほか素晴らしかった。腐っても大臣の縁者という事なのだろう。


 過去の出来事を振り返りながら、文机の上の紙束を整える。書き上げた小説だ。


 「これで、こうしたやり取りも最後になるのかしらね…夜眞斗やまと


 振り返ると、厳めしい顔をした青年の姿がある。不二原典侍が寄越した仲介役だ。


 評判が悪い皇女の下に通って、せっかく得た立場を悪くしたくない。万が一皇女が執筆者と知られたらおしまいだと、不二原家の雑色ぞうしき、夜眞斗を差し出した。


 父親が不二原大臣の亡くなった異母兄弟で、しかし母親が端女はしためだった為、任官もさせてもらえずにいいように使われていた。その結果、出世していい気になった不二原典侍に、捨て石皇女に生贄に出されたのだ。


 生まれた立場は弱くても、腐らずに真面目に働いて来た好青年は、不二原典侍の急な出世と、へこへこしていた姿から居丈高な態度をとる様になり、最初から何かあると疑っていたそうだ。


 知り合ったその日に、霧宮が小説の本当の作者だと知り、他の皇女の身代わりになっていると理解してくれれば、本人でもないのに数々の無礼を直ぐに謝罪してくれた。


 雑色の夜眞斗には心がないと思ったのか。

 小説だけ受け取って、何も不審にも思わないと。

 その憤りが不二原典侍もとい不二原家への反骨精神となり、霧宮への親近感となったのだ。


 身分もあるので、友人、とは呼べないが、夜眞斗が女であったら自分の女房にできるのに…と思う位には信を置いている。


 「宮様…いいんですか。あなたは結局、朝廷と不二原の意のままに利用され、何も非が無いのにある事ない事を言われ…。その小説の中に真実を描いて忍ばせましょうよ。典侍は頭が足りないので、きっと気付きません。書き写すのだって誤字脱字ばかりで、俺に毎回添削させるんですよ。俺がばれない様に製本して、そして宮様が清い方である事を…」


 「いいのよ。皇女となれば政略結婚なんて当たり前だし、これで籠の鳥から抜け出せて清々するわ。お前も、闇夜に紛れて皇女のものに通うなんて、危ない橋を渡る必要がなくなって良かったわね」


 宮中とは言え、恋人に通う者や、主人に文を届ける者などと、出入りする者は多い。警護の者もいちいちそんな者は呼び止めたりしない。

 でもあの霧壺の姫宮は例外だ。滝口の武士がわざわざ派遣され、その時まで傷物にならぬよう目を光らせている。

 それでも警備の目を掻い潜り、夜眞斗は夜な夜な霧宮のもとへ忍んで来る。


 危険な目に合ってはいないかと心配しているが、当の本人はあっけらかんとして、自分は人の目を掻い潜る事が得意なのだ、それぞれの癖を覚えてしまえば案外容易いのだと、安心していいのやら悪いのやらな事を言うのだ。


 「俺が、そんなの、いつ気にしました?」


 霧宮が話をはぐらかそうとしていると、察した夜眞斗は眉間にしわを寄せ、ずいっと霧宮に身を寄せた。

 几帳は邪魔だと出会って早々に取り払われ、ふたりを遮る物は最初からない。


 「あなたは、このまま降嫁していいのかって聞いてるんです。母君の様に、全て丸く収まる何て考えてませんよね?あいつには、既に配下の一族から妻を何人も迎えているって知ってますよね。北の方でもない、妾として降嫁するんですよ?…俺は嫌ですよ」


 「夜眞斗…」


 距離を取ろうにも背後には文机、前には夜眞斗。熱が籠った瞳からも、伸ばされた腕のしがらみからも逃げ出せなかった


「自惚れでなければ、俺は宮様に惚れられてると思ってるんですがね。俺の誠意は、今この時まで、髪の一筋だって触れなかった行動で示せたと思っていたのは、気のせいですか?」


 惚れた女が顔も隠さず、たった一人、御簾も几帳も介さずに会う事が、どんな苦行よりも過酷だという事を、霧宮の肩口に顔を埋めて語る。


 「夜眞斗…私だって…。あなただけだったのよ、私をちゃんと皇女として接してくれて、穿った目で見なかったのは。…あなたに破瓜を破られたら、私の利用価値も無くなって、蟄居できるかと思ったの」


内親王宣下もされていない霧宮には、独立する手段が無い。

食封じきふもなければ諸王とも婚姻を結べない。二重にお荷物の皇女を朝廷は宮城から追い出して、適当に屋敷を与えて、自然に朽ち果てるのを待つだろうと。


 夜眞斗との、一度限りの逢瀬を胸に抱いて。


 降嫁も斃死、霧宮にとっては同じ事だ。

 夜眞斗ともう会えないのなら。


 「俺を、皇女を辱めた悪人にするつもりだったんですか。悪いお姫様ですね」


 「そんな…つもりじゃ…」


 「分かってますよ。あなたをそこまで追い詰めた、何もかもが憎いです。何もできない自分も」


 霧宮の涙が浮かぶ眦を指でそっと拭い、乱れた茵の上でふたりは見つめ合う。


 烏の濡れ羽根色の髪を撫で、夜眞斗は優しく微笑んだ。


 「あなたの為なら悪い男になるのも、悪くはない」






 「夜眞斗遅いわよ。宮様から小説は受け取ってきたわね?書き写すから寄越しなさいよ。終わった頃に、文使いを装ってまた来るのよ、恋人に何て間違わられたら、私に懸想している殿方達に申し訳ないからねえ。見てよこれ、今日だけでこんなに恋文がきたのよ!今をときめく私にみんな夢中なのよ!」


 夜更けだと言うのに、女の喧しい声が響き渡る。

 特別に与えられた、宮女一人には広い曹司ぞうし。その主は、要領が悪い挙句察しも気遣いも出来ない、血筋だけご立派な不二原の娘だ。年頃になっても縁談が纏まらず、宮使いをさせて箔を付けさせようとしたら、女房仲間に捨て石皇女の世話を押し付けられ、実家の者を落胆させた。

しかも恥知らずにも窃盗まで働いて、盗んだ小説を自分の物だと発表し、典侍の地位を得られ、持て囃される事を、さも同然だと自慢する。何もかも足りない女、不二原典侍。


 夜眞斗は霧宮から受け取った小説を、頼んでも無いのに恋文の束を見せつけ、自慢話を悦に入って始めた不二原典侍に無理やり押し付ける。

口を動かしていないで手を動かせ。お前の筆が遅いうえに誤字脱字が多いから、俺が訂正するのに時間がかかり、それで続きを楽しみにしている、中宮様をお待たせしているんだろ。それを霧宮様のせいにして、自分は名声を欲しいままにしている


かばねの餓鬼よりずっと醜い。


 「ちょっと、用が済んだらさっさと帰ってよ。本当に恋人と間違えられるでしょ!大臣様が私にぴったりの婿殿を選りすぐってくれてるのよ。あんたみたいな小者が通ってると思われる何て、恥ずかしいじゃない!」


 豪華で立派な女房装束姿だが、この女には一切似合っていなかった。内側から滲み出る卑しさが、台無しにしているのだろう。


 不二原大臣は不二原典侍の所業に気付きながら、この流行を利用して不二原家の名声を高めようとしている。霧宮の名誉を蔑ろにして。


 「皇子みことの結婚だって夢じゃないわ!」


小説を高く掲げて、不二原典侍が恍惚とした表情で言う。


 夜眞斗は、はっとそれを嘲笑った。


 「馬鹿じゃないか。お前みたいな頭の足りない女が、皇子様と結婚なんて出来るわけないだろ」


 不二原典侍が低い夜眞斗の声に竦み上がった。最近は称賛ばかりされて、非難される事が無かったので驚いたのだろう。少し前まで、愚図だの鈍間だの、罵倒されて見苦しく泣いていたと言うのに。


 「なっ何よ。私は女流作家不二原典侍なのよ!中宮様だって私を凄く褒めて下さるのよ!」


 「お前は褒められてなんかいねえよ。それもわかない木偶の坊が。まあそれもこれで最後だけどな」


 また鼻で笑ってやれば、不二原典侍は訝し気に眉根を寄せる。


 「はあ?何で」


 「お前、宮様の降嫁の話知らないのかよ」


 「知ってるわよ。もう妻が何人もいる、野蛮な男の妾になるのよね?これで夷狄もいなくなるし、お荷物皇女も片付くし、万々歳よね」


 「自分で言ってて分かってないとは、本当に頭が足らないな。宮様は後宮を出て行くんだぞ、どうやって小説を受け取るつもりだ?」


 夜眞斗が聞くと、そこで初めて思いやったのか、不二原典侍ははっと腕の中の小説をみて、目を泳がせる。


 「そっそれは…。あっあんたが降嫁した屋敷に忍び込んで、こっそり受け取ってくればいいだけじゃない!今までみたいにさ!」


 動揺しながらも、自分の言葉で自分を納得させるように不二原典侍が喚く。


 「それはここが勝手知ったる内裏だからできるんだ。お相手は、夷狄討伐に名乗りを上げる様な武人だぞ?その屋敷の警備に穴なんてあるわけないだろ。仮に忍び込めても、宮様は人妻になったんだ、夫か女房が常に側に居る。どうやって小説を受け取るんだ?そもそも執筆すら出来る訳が無い。文でもやりとりするか?全く接点のないお前と宮様が、何の不審がられず、間違っても文を読まれずに、文を交わせると?」


 悪意たっぷりにつらつらと言ってやれば、不二原典侍は混乱して、せっかく受け取った小説を床にバラバラに落として、耳を両手で塞いだ。


 「いっぺんに難しい事を言わないでよ!何よ何よ!霧宮が、小説を書かなかったら私はどうなるのよ⁈せっかく典侍になれたのに!私を馬鹿にして来たやつらを見返せたのに!」


 きいきいと喚き立てる。これでは本当に人が来る。

 怖い話は、都合の悪い話は聞かないと、塞がれた手を無理やり離し、その耳元で言う。


 「全部お終いだよ。お前に小説を書ける才能何てありゃしないんだからな。中宮様からの寵愛は無くなって、お前の存在は忘れ去られ、また馬鹿にされて後ろ指をさされるんだ」


 「やだ!やだぁ!」


 不二原典侍は身を捩って夜眞斗の手から逃れようとするが、固く握られた男の手を、非力な女が振りほどく事は困難だ。

 次第に涙と鼻水を垂れ流し始め、話してと懇願をする。


 足元に散らばる霧宮が書いた小説を気にしながら、夜眞斗は不敵に笑みを浮かべ、不二原典侍に囁いた。


 「俺の言うとおりにしろ。そうすれば、お前は今まで通り、中宮様のお気に入りのままだ」


 「ほんとう?」

 「本当だ」


 えぐえぐと嗚咽しながら、不二原典侍はぜったいだよと夜眞斗に縋りついて念押しする。

自分の衣に移った、霧宮の残り香が消えてしまう。


 夜眞斗は粗雑に不二原典侍を引き剥がし、床に押し倒すと、冷たく見降ろして指示を出し始めた。






 「九摩疽討伐軍に、自分を入れろだと…?」


 不二原大臣は、内密に対面した夜眞斗の言葉を疑った。

 大切な話だと、一族の命運にかかわると、切羽詰まった汚い手跡で書かれた不二原典侍の文には、とにかく夜眞斗と会ってくれと書かれていた。

 仕方なく不二原家の寝殿の、人払いもしたうえで、塗籠の中で対峙する。


 亡き異母弟が、端女はしために産ませた子供。


 弟が死んでからは世話をする義理など無いと、捨て置ければよかったのだが、この端女がどうやら、兵部卿宮ひょうぶきょうのみや家の血を引いているらしく、何か使い道があるやもと、手元に置き続けていた。


 案外使い勝手がいい男だったので、なにかと重宝したが、まさかこんなしっぺ返しがくるとは想像していなかった。


 「朝廷からも兵を派遣させるだろ。そこに紛れ込ませてもらえば勝手にする。あんたは他に何もしなくていい」


 大臣ならできるだろうと、たかが雑色のくせに厚顔だ。


 「お前何を企んでいる…。霧宮に色で落とされたか?討伐軍にふたりで紛れて逃亡しようと、唆されたのか?」


 不二原大臣は警戒心を露わにして詰問するが、夜眞斗は気にした風もなく、不二原大臣を小馬鹿に笑う。


 「お前らは、揃いも揃って稚拙な頭しか持ち合わせていない様だな。逃げてどうする。俺も宮様も咎められる事など何ひとつしていないのに。お前達と違って」


 くっと、不二原大臣の喉が鳴った。

 典侍の罪を知っていながら隠蔽し、それに便乗している事をさしている。


 「その一門のお前が、同族である我らに楯突いて只で済むと思っているのか?」


 「親父が死んで、お袋も病に罹って、お前らに見捨てられて死んで。その時に同族の情なんて捨てたよ。それでもここに居座ったのは、じじ様が望んだからだよ」


 じじ様…。兵部卿宮か…。


 母親が本当に宮家の血筋か定かで無かったが、この口振りだと面識まであるようだ。その宮が不二原家に孫がいる事を望んだと?

 不二原の動向を探らせる為か。死んだ娘の縁と繋がっていたいからか。何が目的だ。


 瞳が目まぐるしく動いて思考を巡らせる。


 その様子を夜眞斗は相変わらず小馬鹿に眺めていた。


 妙な方向に考えを巡らせている様だが、事をもっと単純に考えられないのか。


 愛しい姫宮と共にいたくて、功績をたてて降嫁を願おうとしていると、どうして思えないのか。


 まあ、雑色が武人に混じって夷狄討伐なんて、無謀を通り越して想像すらできないだろう。死体を行軍させるようなものだ。


 「おい、ごちゃごちゃ考え込んでないで、するのかしないのかどうなんだ。断るのなら、お前らが宮様になさった所業を世間に暴露するだけだが」


 「そのような事をすればお前だって…!」


 「だから?俺とお前らが破滅するからなんだ?目的を達成できなければ、俺は死んだも同然だ。だったら因縁あるお前らを道連れにしてやるよ。でも、協力するのなら、典侍にこれからも小説を提供してやるし、今まで通りお前は『稀代の女流作家の後見人』でいられる。いい事ずくめだろ?」


 警鐘が鳴りやまないのに、この男の言葉に是と頷く以外選択肢が無い。


 (そうだ、討伐軍に入れてしまえばいい。たとえ討伐が失敗しても、それは采配を間違えた武人共のせいだし、相手はあの九摩疽だ。西方の最大勢力の。朝廷の誰もが甚大な被害を想定している。だから今まで官軍を送らなかった訳だ。私が何もしなくても、勝手に始末されてくれる。兵部卿宮に何故参戦させたかと批難される事はあっても、責任までは追及されまい)


 にやりと不二原大臣は嗤った。

 所詮雑色。世の中を舐めてかかっているのだ。


 「そこまで言うのなら、官軍の荷物運びにでも混ぜてやろう。それくらいなら文句は言われまい。国を思う志が高い若者が、微力ながら従軍するとな」


 話は終わりだとばかりに、不二原大臣は袖を振って夜眞斗を追いやる仕草をする。心の奥底に消えない、不安を誤魔化すように。


 その時、夜眞斗の顔が燭台の火に怪しく照らされた。


 密室なので最低限の明かりしか持ち込まなかっただが、その顔を見た瞬間、悪い火の気に当てられた時の様に、くらりと眩暈がした。


 なんだあの表情は。


 不安も恐怖の無い、凪いだあの表情は。


 不二原大臣は、只の雑色に過ぎない男に畏怖を感じて、転がる様に塗籠から出て行った。






※※※※※※※






神の治める天ノ国と、死者が治める尸ノ国が争い、双方の血と悲鳴が混ざり合って出来た中ノ国。その血の地から生まれた人々には、絶望しか用意されていなかったのだ。

産まれた時から死ぬ時まで、苦しみ続けろと。

我々の代わりに。






 「なあ?そう思わないか?」


 と言っても聞いていないか。


 所々に焚き木が燃えている。

 その周りには横たわる男達。

 九摩疽討伐に名乗りを上げた武人と、その側近だ。


 不二原大臣の名前で酒を差し入れて、そこに毒を仕込んだ。疑う事もせず武人共は酒を浴びるように飲んで、あっさりとこと切れた。


 小荷駄こにだを任された夜眞斗には、造作も無い事だった。


 「どっ、どう致しましょう…」


 追従してきた雑兵がガタガタと震えている。

 朝敵討伐の大将が、敵地に到達する前に死んでしまった。不意をつかれたでもなく、姑息な罠にはまった訳でもなく、突然死んでしまった。何も成さず。

 それは帝の命に背いたも同然であり、討伐軍全体にも及ぶ。


 「大将殿方は、謎の病でお亡くなりになった。西の地は神々の亡骸が最初に堕ちた土地と聞く。夷狄討伐の闘気と、この地に残る血の気が、大将殿達には毒だったのだろう。何せ神殺しの残穢だ、人などひとたまりもない。我々は運よく助かったのだろうな」


 ひいと、雑兵は腰を抜かして惨状から目を背けた。

 こんな適当な話で竦み上がるとは、それでも兵士の端くれかと寸の間思ったが、都合のいい事この上ないのには変わらない。官軍がどうであろうと、夜眞斗には関係無いのだ。


 「主上がお望みの九摩疽討伐、大将殿が惜しくも亡くなってしまったが、遂行する以外に選択ない」


 「しかし、一体誰が指揮を…」


 にやりと緩みそうな頬に手を当てて、夜眞斗はあくまでも真剣に、深刻に語る。


 「俺が不二原大臣の縁者であるのは知っているだろう?それだけではない。俺の亡き母上は兵部卿宮の姫であった。複雑な事情で関係が公にされる事は無かった。俺は自分が朝臣不二原家と、皇孫である事に誇りを持っている。みなが許すと言うのなら、俺が大将殿の遺志を引き継ごう」


おおと、雑兵が唸った。


 御大層な言葉を並べれば、雲上人の姿も想像できない者には、天啓の様に聞こえるだろう。


 「貴方は、いや、貴方様は宮様であらせましたか…!」


 「みなに知らせよ。大将は露払いで身罷った。この先は皇孫の夜眞斗が朝敵を打ち滅ぼすと」


 風で焚き木が煽られて、炎が火柱となって燃え上がる。それに照らされた夜眞斗は、さぞ神々しく映った事だろう。

 雑兵は深々と叩頭すると、熱に浮かされた様に他の兵の下へ駆け出して行った。


 「上手い事いったな。大将…名前を何て言ったかな。覚えていないな」


 雑兵の姿が消えて、自分と死体だけになると夜眞斗やれやれと肩を竦める。


 所詮人は肩書と身分でどうにでもなってしまう。それは自分が良く分かっている。


 夜眞斗がはじめから不二原家の御曹司だったら、兵部卿宮の王子だったら。

 堂々と霧宮に結婚を申し込めたのに。


 (お前の母親は、お前の伯父と双子だったのだ。双子の男女は、禁断の愛を貫き、天ノ国から尸ノ国へ堕とされた夫婦神の化身とされている。わしには、御霊還しで我が子を屠る事は出来んかった…。娘を密かに雑色夫婦に託し、息子は手元に残した。そんな命の選別をしたからだろうな。妻も息子も、救ったはずの娘までも病で亡くし、結局尸ノ国へ還り、わしは一人孤独に苛まれながら朽ち果てる。こんなものは、お前への贖罪にもならないが、わしが死んだ後は、宮家の荘園も名も、そなたに譲る。我が唯一の孫に)


 それまでは悟られないように、今までの生活を続けている様にと。


母の今際の際に聞かされた、出生の秘密を問い質しに乗り込んだ兵部卿宮邸。そこで老いた祖父に打ち明けられた。


 枯れ枝の様な手足、覇気のない表情、やっとしたためたと言う、夜眞斗へ当てた文と権利書の束。枕元に並べられた、妻子の位牌。


 旦那様は母君の死を知るや、貴方様へ全てを譲る準備をなさっていたのです。と啼きながら、主人を支える女房の声。


 遺恨が無いと言えば嘘になるが、母は最期まで祖父を恨んでいなかった。

 そして今、目の前で自分がした事の業に苦しんで、一人で死のうとしている祖父がいる。


 仕舞にしようと思った。


 そうすれば、母の魂も自分の心も救われると思った。少なくとも、この件では心の荷が降りる。


 「結果、役に立ったのだから、じじ様には感謝しないとな」


 名前すら覚える気が無かった、武人の死体を見下ろす。


 「この国ではな、成り立ちからそもそも、誰かが犠牲にならなければ、その他の幸福が成らないようになっているんだ。だから、お前らがここで死んだのも無駄死にではないさ。霧宮様の為に死んで、不相応にも霧宮様の降嫁を望んだ報いを受けろ」


 ばちっと炎が弾けた。


 九摩疽が陣を置く方角を見やる。


 もう足元に転がる死体の事など、眼中にはなかった。






 数日後の未明。


 九摩疽の陣で頭目が討ち取られた。 


 朝廷軍の大将が謎の病で死んだ。どうやら祟りらしいと情報が入り、戦わずして勝ったと宴を開き、九摩疽は悠々閑々としていた。


 近隣の村々から攫った女共に酌をさせ、柔らかい肌を堪能し、新帝を名乗るのも時間の問題だと有頂天だった。


 だが、それは断末魔に霧散する。


 女の中でひと際美しく、気品があった女を侍らせていた頭目が、血塗れになって倒れていたのだ。


 皆が唖然と動けない中、頭目の頸を無感動に切り落とす美しい女。

 返り血が牡丹の花の様に女の衣きぬを染る。異様で悍ましい光景なのに、目が離せなかった。


 女が、お前達の頭は俺が討ち取ったと言い、そこで初めて女が、女に化けた男だと知る。


 切り落とされた頸が地面に転がって、女達が悲鳴を上げて逃げ惑った。


 我に返った者から太刀を取るが、酒が回って思う様に動けなかった。毒が混じっていたとは、最後まで気付く者はいなかった。


 男は次々と九摩疽達を殺し、ある程度死体が転がる頃、篝火の中に何か放り込んだ。

 もうもうと煙が立ち込めて、それを目印にして官軍が押し入って、生き残った九摩疽も捕らえられた。


 勝鬨が上る中、乱れた女髪と血塗れの小袖姿の男を讃える声が響く。


 夜眞斗宮やまとのみや様万歳と。






 神無月。今上帝皇女霧宮の降嫁が行われた。


 神々の残穢に触れ、志半ばで亡くなった総大将に代わり、九摩疽の討伐を成した兵部卿宮の孫息子。といっても、近々孫息子は祖父宮から宮家を相続し、兵部卿宮夜眞斗となる。


 不二原大臣の異母弟と、兵部卿宮の妾の娘が両親であったが、出生時の占いで「この御子はゆくゆく大義を成す方。それまで秘して養育された方が宜しい」とされ、今まで公にその存在はされていなかった。


 その占いは見事的中し、帝は恩賞として皇女で最も美しい、霧宮の降嫁を願った兵部卿宮夜眞斗の願を叶えた。






 ねえ、夜眞斗の言う通りにしたんだから、これからも小説を書いてくれるのよね⁈私はこれからも、典侍でいられるのよね⁈中宮様の一番のお気に入りでいられるのよね⁈いやよ、また惨めな立場に戻るの何て。あなたの書いた小説がそうさせたんだから、責任もって私を支えなさいよね!


 あの卑しい男をどうやって誑かし、どう操っているかは解りかねますが、私はあの男の様にはいきませんぞ。宮家の威光を盾に、今は思い通りに事を運び、鼻高々なのでしょう。底辺で生きて来た者が、宮家の当主など務まる訳がありますまい。悪手を取りましたな姫宮。貴女の描いた絵巻物は、悲劇で終わる事でしょうな。


 降嫁の寿ぎにと、不二原典侍と不二原大臣が挨拶にやって来た。その実は、身に覚えのない事に対しての恨み言と、身の保身だった。


 何を言われているか、訳が分からなかった。

 言葉を繋ぎ合わせて状況を理解して、霧宮は震えた。


 あの夜。


 夜眞斗は霧宮へ送られた献上品の中から、幾つかの薬を所望した。


 より美しくなる様に、より男を魅了できる様にと、希少な物から効果が怪しい物まで様々な品の中で、霧宮さえも把握できない中から、夜眞斗は幾つか薬を選んだ。


 霧宮には、この薬には手を付けない様に言い含めて、二人の気持ちを確かめ合った後、夜眞斗は暫しの別れを告げ、姿を消した。


 九摩疽討伐軍が出陣し、いつまで宮中で過ごせるのかと想いを馳せている中、討伐軍の大将━━━霧宮の降嫁を願った武人が亡くなったと知らせが届き、朝廷が混乱する最中、更に、夜眞斗が討伐軍の大将になった事、一人で九摩疽の頭目を討ち取った事が、怒涛の勢いで届けられた。


 霧宮の耳に届いた頃には、既に凱旋の岐路につき、夜眞斗大将万歳が都どころか、国中に木霊していた。

 今まで存在すら知られていなかった無名の御曹司が、国を脅かしていた朝敵を瞬く間に倒した。まるで神話の世界だと、人々はこの奇跡に酔いしれ沸いた。


 言い伝えによると、天ノ国と尸ノ国の争いを仲裁した、中ノ国に最初に産まれた人間が皇祖だとされている。それが、朝敵を討ち、国に安寧を齎した英雄を無視できるか。


 帝は、民のこの異常な程の盛り上がりを無視できなかった。反対の━━━特に不二原大臣からの声が上がったが、帝は望まれるまま霧宮の降嫁を許可した。もともとそのつもりで育てていた皇女だ。惜しくもないし、いま使わないでどうすると。


 目の前に突然置かれた花嫁衣装と共に、霧宮は経緯と、自分と夜眞斗の結婚を知ったのだった。






 花嫁行列がゆく。


 英雄と、皇女の晴れの日に相応しい、後世まで語られる華々しい花嫁行列だ。


 飾りたてられた牛車には、霧宮が乗っている。車を引く牛も、牛飼い童も、追従する誰もかもが華やかな装いで、神無月の寂しくなってきた都の風景に、そこにだけ春がやって来たようだった。


 おそろしい、おそろしい…。


 私を手に入れる為、夜眞斗は一体何をしたのか。


摩訶不思議な事が起きている。夜眞斗にとって都合がいい、良すぎる程に整えられた、摩訶不思議な事が。


 私は暗に罪を唆し、加担したのではないか。


 これから夜眞斗は、虚実を貫く為にまた罪を重ねるのではないか。


 自分もまたそれに関わり、罪穢れに塗れるのではないか。


 牛車が止まった。兵部卿宮邸へ着いたのだ。


 前簾まえだれがさらさらと上がり、光が車内を照らす。


 古の様式に則った物具もののぐ装束。結い上げられた髪に輝く宝髻ほうけいほ、領巾ひれは天女が纏うそれと違いなく、唐衣には皇女のお印、表着うわぎには番の鴛鴦おしどりの吉祥文様、五衣いつつぎぬ櫨紅葉はじもみじかさね、表着の葡萄、黒味のある蘇芳から蘇芳・淡紅・黄へと移ろう。その隙間から見える紅の長袴、広がる裙帯くゆたい。顔を隠す衵扇あこめおうぎには蝶鳥が舞い遊ぶ。最高の逸品。

 全ては、霧宮の美しさを引き立てる脇役。


 前簾が上がった目の前には、いままで見た事も無い、立派な青色袍あおいろほう姿の夜眞斗がいた。直衣のうし姿すら見た事が無いのに、同じ鴛鴦が施されたその姿は、垂纓冠すいえいかんまで被るとまるで別人だった。いやそうなのだろう。もう不二原家の雑色夜眞斗はいないのだ。


 「お迎えに参りましたよ、我が妹背いもせ


 にこりと、夜眞斗は微笑んで手を差し伸べた。屈託なく、なんの罪穢れも無い笑顔。


 体の震えが止まらない━━━悦びの。


 私がこの人を、穢れの坩堝るつぼに居ながらも、それを、罪とも思わずに笑える人に変えてしまった。

 私を愛し、私の為なら自らの手を汚す事も厭わず、喜んで血に染まる男に、私がしてしまった。


えも言われぬ背徳感。

ぞくぞくと、背筋を走る快感。


あの誠実な若者を私が、捨て石だと、遊女だと、嘲笑われていた私が変えてしまった。


 そして、その男に愛されて縛られる事に歓喜して震える私もまた、罪穢れに塗れ堕ちる所まで落ちて行く。それがまた嬉しい。


「ええ、我が背。ずっと待っていたわ」


 霧宮は夜眞斗の手を取って、その胸に飛び込んだ。

 抱きしめ合って、互いの匂いと体温を感じる。


 ふたりで堕ちて行く所まで堕ちて行こう。

 ふたりでいる為に犠牲が必要ならば、いくらでも屍を重ねて、その頂に常世を築くのだ。


その犠牲が、我が身や心だとしても。







 この国は、この国の人間は、そういうふうにできている。


 生まれた時から死ぬ時まで、誰かの犠牲を代償にしなければ、幸せになれないと。

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中ノ国の姫 睦月 はる @Mutuki2018

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