Op.1-50 – After Cleaning
掃除の後、5時間目の世界史の授業が行われている。
理系選択をしている生徒は、『日本史』、『世界史』、『地理』、『倫理政経』の3つの中から1つを選択する。
光と明里は『世界史』を、沙耶は『地理』を選択している。
「光、無理して私に合わせんで良いとよ?」
これは去年、2年生になる直前に教科を選択する際、明里が光に放った一言である。光は選択理科において『物理』を選ぶことに時間は必要なかったが、社会選択に関してはかなり悩んでいた。
光は数学や理科に関しては学年でもトップレベルと無類の強さを誇るが、社会科目に関しては苦手意識が大きい。
暗記力を問われる科目は基本的に苦手で、それを補って余りある理系科目で成績は上位に位置するために、ある程度適当でも良かったのだが、改めて「選べ」と言われるとアレルギーにも近い拒否反応を示していた。
そうであるならば、4つの社会科目の中では比較的、暗記箇所が少なくその場で問題に対する分析力が問われる『地理』が最も無難で選択の余地はないと思われるものの、光の中で「社会は大嫌い」という思いが強過ぎるのと、1年生の時に『地歴公民』として一通り習った際の『地理』でも大して成績が変わらなかったことから他3科目と同様に苦手意識を持っていた。
一方で明里は歴史に興味を持っていて、日本の歴史、世界の歴史、どちらに対しても様々な知識を有していた。普段からそれらに関するテレビ番組やネットニュースをチェックし、また、小さい頃から関連した本を読んでおり、そこで得た情報を自分の知識として積極的に取り入れていた。
勿論、明里も基本的には理系科目が得意であるが、それでいながら歴史科目に強みがあるならば、理系選択者としてかなりの武器になる。そうしたことから、明里は『世界史』を選択することにした。
明里は光が『地理』を選択すると予想していたものの、『世界史』を選択したことに驚き、その理由は自分の選択に合わせたからだと思ったのである。
「いや、明里が世界史選ぶなんて知らんやったし」
確かに明里が『日本史』、『世界史』のどちらを選ぶかを知らなかったというのは一理あるが、親同士がほぼ毎日会っている中、そんなことはいくらでも知ることができる。
そう明里が光に対して疑いを持った瞬間、光から何とも彼女らしい、独特な理由が返ってきた。
「漫画の技名やら地名、結構覚えられるけん。どちらかと言うとカタカナの方が覚えやすいし、世界史にしようかなって思ったったい。日本史やと漢字難しそうやし」
光は周囲のお淑やかなイメージとは違って少年漫画をよく読んでいる。これには彼女の父・和真の影響もあるのだろうが、家族皆んなで漫画やアニメを観ており、習慣化している。
それらに登場するキャラクターたちが使う技名やオリジナルの地名をよく覚えていて明里とも内容について話や考察をしている。
光は特に日本的な漫画よりも (技名が漢字であるもの) カタカナで書かれたものの方が覚えられるらしく、それを根拠に『世界史』を選択したようだった。
「いやでもあんた、曲名とか全然覚えとらんやん」
そう、光は何回も弾いた曲や特に気に入った曲以外はその曲名を覚えていない。アーティスト名ですらもそうである。
本人曰く、「アーティスト名、名前ありきで曲を聴く・聴かないの判断はしたくない」と言っており、その考え方自体は見習うべき姿勢であるが、覚えられない・覚える気がないのもその原因の1つであると明里は感じている。
「何とかなるって」
光はそう言ってそのまま『世界史』を選択し、現在に至る。
「……」
明里は自分の席の目の前に座る幼馴染みの背中を見つめる。
選択理科と選択社会の授業は人数が少なくなるため、24・25R、26・27・28Rの合同授業となる。
世界史はそれぞれ12名ずつ計24名の生徒で構成され、授業は25Rの教室で行われる。席は自由であるが、前から詰めて座るように指示されており、6列各4人までしか埋まらない。
時間が経つにつれて生徒たちが座る位置は固定されてくる。
光は8列目の5番目の座席であるために移動しなければならず、いつも面倒くさそうに席を4列目の3番目の席に移っている。そしてその後ろにいつも明里が座っているのだ。
明里の目に移る光のその背中は明らかに授業に対する退屈を主張している。それと同時にいつ当てられるかという緊張感も醸し出している。
世界史の担当をしている
携帯電話に寛容である鶴見高校ではあるが、その使用は勿論、通知音が鳴ればその生徒を見つけ出して没収してしまう。また、居眠りを一切許さない主義で見つかればその場に立たされて説教がなされる。
大島は水泳部の顧問で身長は185cmと高く、ガタイが良い。既に40代であるものの、鍛えられた肉体は正に逆三角形の形をしている。スーツの上からでもその筋肉は見て取れて、より生徒に対する圧が助長されている。
それでも授業は時折、ユーモアに富んだジョークを用いながら進められるため、素直に憎めない性格をしている。
「はい、次のページ」
大島の言葉と共に生徒たちは『世界の歴史』と書かれたとんでもなく赤い分厚い本を捲る。
彼の授業はかなり独特で教科書を使用しない。その代わりに大島が自らの手がけた『世界の歴史』を用いて授業が進行する。
大島曰く、世界史の教科書は時々、学習するのに適切でない順に書かれていたり、前後の関連性が分かりにくいように作られていたりするために、それらを修正してオリジナルに作ったらしい。
『世界の歴史』は、その時代にあった様々な出来事をまとめており、重要用語を穴埋めにして編集されている。
「ウ……ウィーン原典版みたいでカッコ良いね……」
これはよく分からない理由で世界史を選択し、最初の授業で分厚い『世界の歴史』を配布された時に光が発した言葉で、その赤い本をピアノ教則本に例えて無理に気持ちを保っていたが、明らかに動揺していたのを明里は覚えている。
大島は授業までに予習してこの空欄を埋めて臨むように厳命し、授業中に生徒に当てていく。
資料集や教科書には載っていない、または見つけにくいような用語も散見され、生徒たちはネットを使うなどして四苦八苦している。
また、大島の中では「調べきっていて当然という用語」と「調べきれなくても仕方がない用語」が明確に存在し、前者の用語を答えられなければ"予習をして来なかった生徒"としてみなされる。
大島の厳しさとこの授業スタイルのせいか、常に世界史の授業ではどこか張り詰めた空気が常に流れており、それは光と明里にも例外なく当てはまる。
光も明里も授業中に居眠りすることはなく、予習を怠ることはないため、叱られることはまずない。また、今のところ調べてきた単語も間違えることは少なく、あったとしても「調べきれなくても仕方がない用語」であるため、注意されることはない。
しかし、2人とも成績が良いため(特に明里の世界史の成績は理系トップで文系トップの生徒とも遜色ない)、他の生徒が答えられない流れが少しでも続くと光と明里が指名されることが多くなる。
答えられない生徒が続き、大島の機嫌が悪くなってきたところで指された明里が答えたことでようやく授業が、進んだところだったのだ。
––––次当てられるのは自分
明里と光は交互に当てられることが多いため、光には緊張が走っているのだろう。それが背中越しに伝わってくる。
背中だけでこれだけの情報が読み取れる自分はまるでエスパーのようだと思い、大島が黒板の方を向いている間に明里はイタズラ心が働いてシャープペンの消しゴム部分で光の背中を突く。
「ひっ」
突然のことで光は少し声を上げてしまい、大島がそれに気付いて振り向く。この光の反応には明里も予想外で「しまった」という表情を浮かべる
「どうしたと?」
生徒たちの視線からその主が光だと気付いた大島は光に尋ねる。優等生であるというイメージがあるため、大島は光がふざけているとは微塵も思っておらず、少し心配そうな様子だ。
「えっと……あの、いきなり虫が目の前を通ったのでびっくりしちゃって」
「おー、そうか。どっかからか入ってきたんやろね」
大島はそう言いながらいない虫を探して教室中を見渡す。
––––キーン、コーン、カーン、コーン
このタイミングで授業終了の予鈴が鳴り響く。大島の授業はよく長引くが、ちょうど流れが切れたことで24Rの世界史連絡員に合図して号令をかけさせて授業を終える。
光は大島が退室するのを確認した後に勢いよく明里を振り向き、顔を赤らめながら右頰を少し膨らませて睨むのだった。
<用語解説>
・ウィーン原典版は、第一線の音楽学者と名演奏家の 共同作業から生まれた楽譜。オーストリア・ウィーンの出版社が刊行し、赤い表紙の「ウィーン原典版」が今やブランドを象徴する名前となった。他にはヘンレ版やパデレフスキ版などが有名である。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます