Op.1-35 – Few years ago
25R担任の宇都菜穂子が小池にしぼられて面倒くさそうな表情を浮かべる中野を連れて入室する。
「はーい、朝読書の時間よ〜。皆んな座り〜」
宇都は手を叩きながら生徒たちの注目を集め、席に着くように促す。
クラスの中ではいくつかのグループが形成され、生徒たちは朝読書の時間まで特定の生徒の周りでたむろし、前日にあったバラエティー番組やアニメ、スポーツ番組やSNSで話題のインフルエンサー、MeTuberなど様々な話題で盛り上がる。3月になっても寒さが続く中で、教室内は生徒たちの騒がしさで熱気がこもっていた。
人当たりが良く、信頼も厚い明里の周りにも数人の女子生徒が集まっており、明里はその中でも楽しそうに会話している。一方で光は基本的に自分の席から動くことはせず、話しかけられた時には無難に会話を交わし、そうでない時にはuPhoneをいじったり音楽を聴いていたりする。
鶴見高校では携帯の持ち込みを5年前から許可し、その使用も生徒たち個人の判断に委ねられている。これは県下随一の進学校である鶴見高校に通う生徒ならば、その程度のことは自己判断できて当たり前だという教育方針からきている。
教師たちも授業中に通知が鳴る程度であれば注意するに留める。但し、使用していることが確認されれば教師によっては注意では済まさず、没収といった罰則がその生徒に与えられる。
光が1人携帯をいじっていたり、外の景色を眺めながら大人しくしていたりする普段のその姿は (朝は特にやる気がなく頭が稼働していないというのが実情なのだが)、 光に対する印象をよりミステリアスし、周囲からの興味を引く要因となっている。
25Rのアイドル的存在の今村沙耶も光に惹かれている生徒の中の1人である。
同じ中学校出身だが、光と同じクラスになったのは高校2年生になった今年が初めて。しかし、英語教科連絡員ということで光から板書を割り振られる以外には明里が間に入って話すことが多く、十分に会話を交わしたことが無かった。
今回の席替えで初めて近くの席になり、沙耶は光と親しくなろうと積極的に話しかけるようにしている。
沙耶は光と明里が仲良く会話したり、登下校したりしているのをよく見ており、光も明里も心から笑っている様子が彼女にはとても眩しく見えて、その中に混ざりたいという思いがあった。
沙耶は明里から光の取り扱い説明的なものを聞いているのだが、実は光が自由奔放な性格であることを何となく知っている。
そしてこのことは沙耶が光と親しくなりたいという理由にも繋がる。
彼女の兄・
沙耶は兄のピアノの発表会を毎回家族で観に行っており、その度に光の演奏を目の当たりにしていた。
光は兄よりも歳下でありながら、折本やハヤマ音楽教室のピアノ発表会、HOC予選ではトリを任されたり、即興演奏をしてみせたりと小学校高学年の頃にはその期待を一身に受け、いわゆる『神童』と言われるに相応しい演奏を披露していた。
ここでの即興演奏とはハヤマ音楽教室が独自に行うもので、講師によって選ばれた生徒が演奏する。
発表会前、観客に五線紙が書かれた小さなメモが配られ、そこにモチーフを記入、会場にある箱の中に入れる。
全員の演奏が終わった後に司会の講師がその箱を持ってきて、ステージに呼ばれた代表の生徒にメモを引かせる。そこで引いたメモに書かれたモチーフを元に代表の生徒が即興で演奏する、というパフォーマンスだ。
折本は何よりも生徒の創造性を育むことを重視しており、この即興演奏を彼女の生徒のみで行われる発表会でも実施している。
折本は毎年2〜3名ほど選んで即興演奏を任せるのだが、安定して高いレベルの即興を見せる (場合によっては、それまで入念に準備を重ねてきた予定曲よりもレベルの高い演奏をする) 光を必ず選出し、他の生徒たちに刺激を与える役割を小学校の時から担わせてきた。
そんな光の初めての即興演奏を沙耶は小学5年生の時に目にする。
「光ちゃんはまだ見つからないの!?」
「本当、プログラムのちょっと前まではいたんですけど……。今はどこにも見当たらないんです!」
折本の生徒によるピアノ発表会が終盤に差し掛かってきた時、福岡県民交流センター小ホールの外にあるロビーで受付の女性数名が慌ただしく誰かを探している。
沙耶は兄の演奏が終わり、それまで長いこと順番を待たされていたこともあって、母親である
「光ちゃんって折本先生が言ってた子かいな?」
隣の母が小さく呟く。発表会のある3日前にあったレッスンで裕一郎と智花は折本から光の話を聞いていた。
ちょくちょくピアノがとんでもなく上手い女の子がいるという噂を聞いており、その噂の子が今回からはプログラムを終盤に持ってきて且つ、即興演奏者にも選んだので見てみると良いと言われ、2人は密かに楽しみにしていたのである。
光のプログラムは裕一郎の2つ前。光はその順番が回る直前に姿をくらまし、舞、明里、祐美、ハヤマ関係者や警備員が血眼になって探している。
仕方ないので光のプログラムを一旦飛ばしているのだが、この時、最後の演奏者に順番が回る直前となっていた。
「(光ちゃんどこ行っちゃったの……)」
折本は講師である都合上、会場を離れられず光はどこに行ってしまったのか、もしかして何か事件に巻き込まれたのではないかと落ち着かない様子で生徒たちの演奏を見守る。
#####
「大丈夫かしら。先生の話やと沙耶と同い年って話やったけど」
周りの様子を見て智花は心配そうにその様子を眺めている。智花は沙耶の手をギュッと握りしめており、娘と同じ年齢の小さい子が行方不明となっていることに心を痛めている様子だ。
「光、おった!」
その時、向こうから明里の声が聞こえてくる。そちらに目をやると明里、祐美と共に舞に手を引かれて目を腫らしている小さな女の子がやって来る。
結城光である。
知らせを聞いた折本も会場の扉から出てきて「光ちゃん! どこおったと!?」と言いながら駆け寄る。
光は交流センターの4階・5階にある図書館に行ってPCスペースで1人閉じこもっていたらしい。
福岡県民交流センターは県民の自主的な活動を促進し,交流の場を提供するための生涯学習、国際交流、男女共同参画、介護の実習・普及、共生・協働の5つの機能からなる複合施設で、大小ホールや図書館なども併設されている。
「お父さんすぐ戻るって言っとったのに来とらん!」
光は涙声で舞に訴えかけている。
いつも病院勤務で忙しい脳神経内科医の和真も月末の土曜日ならば発表会を見に来れる。それを聞いて光は今日の発表会を心待ちにしていたのだが、和真が担当している入院患者の様子がおかしいということで急遽病院へと向かってしまったのである。
その際、「すぐに戻ってくる」と言っていたのにも関わらず、光の順番が近くになっても現れないために光はボイコット。1人でその場を離れたというのが事の真相である。
1人でどこかへ行ってしまったという事実はあるにせよ、理由が理由であるために舞は強く言えず、ポケットの中で携帯を握りしめて和真の連絡を今か今かと待っている。
光は「ピアノを弾きたくない」と駄々をこね、折本も無理をさせない方が良いと判断し、光を演奏させない決断を下す。
一部始終を少し離れたソファーに座って眺めていた沙耶と智花はいたたまれない気持ちになってその場を離れ、会場の中へと戻る。
「結構、困ったちゃんなんやね。まぁ可愛いもんやけど」
智花が笑いながらも光の演奏を聞けないことに少し残念そうな表情を浮かべているのを沙耶は鮮明に覚えている。
––––しかしその後、姿を現した光が即興演奏を披露し、会場を飲み込むのである。
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