Op.1-34 – Hard Worker
光と明里は学年主任・小池の呼び止めを終え、そのまま25Rへと向かう。2人の背後からは階段の踊り場で引き続き中野を説教する小池の怒鳴り声が聞こえてくる。
「中野の奴、何考えとーと!? 巻き込んできたせいで私まで注意されたやん? 意味分からんやん」
明里は中野が光に声をかけたことで小池から「学級委員として注意しろ」といった具合に、一瞬ではあったものの自分にまでその矛先が向けられたことに対して不満をぶちまける。
「アハハ、中野くんっていっつも明里に声かけとるよね」
「は?」
「え?」
明里は光の言葉に驚き、素で返してしまう。しかし、光の様子を見るに明里がなぜ驚いているのか分かっていない様子で明里は「はぁ……」と溜め息をついて光に告げる。
「いや、中野は最初、あんたに『おはよう』って声かけたやん」
光は明里の言葉を聞いてもピンときておらず、首を傾げてさっきの小池と中野とのやり取りを思い返す。
「あれ? そうだっけ? 丈一郎おじいちゃんに『英語のワーク持ってっとって』って言われたのは覚えとるけど」
「いやいやいやいや」
光と話していると時々自分の方が間違っているのではないかと錯覚してしまう。
どう思い返しても中野は光を見つけて「あ、結城さん、おはよう!」と元気よく挨拶していたし、それに当の本人である光だって「え……、あ、おはよう」と困りながらも返事をしていたではないか。いやそれとも自分の記憶違いか?
「中野が最初に光に気付いて『おはよう』って言ったやん? それで小池先生のヘイトが一瞬こっちに向いたったい」
「え? そうだっけ?」
「あんたちゃんと中野に『おはよう』って返しとったよ?」
「ん〜? そっか」
何だか光は頑固な子供をあやすかのような調子で話を終わらせにかかる。
いやいやいや、おかしいのはお前やろ……。私の方がさっき起こったこときっちり説明できとーよ? 逆に何で光はついさっきあったことすら覚えとらんと!?
「明里どうしたと?」
キョトンとした表情で明里の顔を覗き込む光の無邪気な様子は更に明里を動揺させる。
あれ? もしかして私の方が間違っとる? 中野って私に「おはよう」って話しかけた? こんだけ光の中で腑に落ちてないとなるとやっぱり私の方が間違っとる?
明里の中で徐々に自分に対する疑惑が色濃くなっていく。それほどまでに光の表情は自信に満ちている。一応、言葉の上では「ん〜? そっか」と明里が正しいということにはしているのだが、これ以上は話が拗れそうで面倒くさいから話を断ち切ったと言った方が正しい。
立場的には自分の方がこの台詞に相応しいように思うが、いつの間にか逆の立場となっているし、光の方が大人感が出ていて明里の中で敗北感と疲労感が湧き上がる。
「時々、あんたと喋っとると何が何だか分からんくなって頭痛くなってくる……」
「大丈夫?」
純粋に心配そうな調子で聞いてくる目の前の幼馴染みにふっと軽く息を吐いた後にさっきの小池の言葉が鳴り響く。
––––広瀬! お前も学級委員として
無理だ。
光のお
しかも、小池の口調からして中野に限らず、クラス全体に気を配れということなのだろうが、そんなの
そもそも光の中でここまで中野のことが眼中にないとなると、もはや中野のことが不憫となってきて明里はいたたまれない気持ちになってしまう。
「うん、大丈夫」
「なら良かった」
明里が心配ない旨を伝えると光は安心したような笑みを浮かべて教室へと歩を進め、教室後方の引き戸を開けてそのまま教室の中へと入っていく。
光と明里の25Rは理系クラスで42名の生徒が在籍している。座席は廊下側から1列目……と数えて8列目まであり、1列に5名の生徒が着席する。(7列目と8列目は6名の生徒が着席する)
光と明里が割り振られている座席はそれぞれ8列目の5番目、3列目の2番目で、教室後方から入室すると光はそのまま直進し、明里は2列目を過ぎたところで曲がって自分の座席へと向かう。
クラスでは定期的に席替えがあり、学級委員長の佐々木と副委員長の明里が作ったくじを使って行われる。
それなりの頻度がある中で光は運が良く、基本的に窓際で後ろめの席を引くことが多い。対する明里は一番前の席になったり、中央付近の座席になったりとバラバラだ。
今の座席は先日、期末考査後に最後の席替えが行われて決まったものであるため、残りの25R生活はこの座席のまま過ごすことになる。
「光ちゃん、おはよっ」
「今村さんおはよう」
光が学校机のサイドにあるフックにリュックを掛け、足元に学生鞄を置いて座ろうとしている時、後ろの座席の女子生徒・
今村は153cmと小柄で目がクリクリとした可愛らしい印象の生徒だ。彼女もクラスの枠を越えて学年で人気な生徒の1人で、密かに好意を寄せる男子生徒は少なくない。
25Rはいわゆる『可愛いと人気な女子生徒』が数名いて他クラスの男子生徒がよく「不平等だぞ」と騒ぎ、中野のようなお調子者の生徒たちは「出直してこい、時代の敗北者ども」などと人気漫画の台詞をもじって煽るなど騒がしいやり取りが時々起こっている。
そうした『可愛い女子』の中には光と明里も含まれており、特に光は本人の関知しないところでそうした話題の中心にいることが多い。
明里はユーモアのある言葉を発したり、少しふざけてみたり、時には強い言葉を投げてみたりとコミュニケーションを取ることが上手く、また学級委員など人が敬遠するような役割を率先してこなすことから周囲からの信頼は厚い。
しかし、その親しみやすさから『黙ってれば可愛い』といったレッテルを貼られることが多く、友達感覚で見られることの方が多い。
一方で光は基本的に学校内では (両親や明里を始めとした親しい友人たちからの言いつけもあって) 大人しくしており、『お淑やかな美人さん』として見られている。
2人のことをよく知る者たちは寧ろ明里の方が面倒見が良く接しやすいのに対して、光は一癖も二癖もある自由人で、扱いが難しいという本質を見抜けていないことに内心笑っているのである。
「光ちゃん、何の本読むと?」
今村は光に『朝読書』に何の本を読むのかを尋ねる。
鶴見高校は8時30分から10分間の『朝読書』の時間が設けられている。ここでは生徒たちが持参した本 (漫画は禁止されている) を読む時間として定められていて、読書の本来の楽しみを感じ、探究心や思考力、想像力や感性などを育むことを目的としている。
「これ読むよ」
光は丁度鞄から取り出した本、『HONOKA』を取り出す。
「この女の人誰?」
「山内穂乃果さんっていうジャズピアニスト。この人が書いたエッセイ、最近出たけん読もうかなって」
「そうなんだ! 光ちゃんその人のこと好きなん?」
「バリ好きっちゃん」
そんな他愛のない会話が2人の中で繰り広げられる。
クラスでは最後の席替えで結城光・今村沙耶が縦に並ぶラインを拝めることができてラッキーだと感じる者たちは男女問わず多く、そうしたクラスメイトたちは2人が会話している様子を見て「尊い」といった言葉で表現する。
「(沙耶を困らせるなよ〜)」
2人が会話を交わしている様子を遠目に眺めながら明里は少し微笑む。今村と親しい間柄である明里は、彼女が「光と仲良くなりたい」と思っており、席替えで近くになったことを喜んでいたのをよく知っている。
それゆえに、踊り場を過ぎた後の光と明里のやり取りのように、会話が噛み合わないことや天然で今村を困らせる、または幻滅させることがないように明里は切に願うのであった。
小池にしぼられた中野が面倒くさそうな表情を浮かべながら担任の宇都菜穂子と共に入室する。
「はーい、朝読書の時間よ〜。皆んな座り〜」
宇都の若く快活な言葉がクラス全体を包み、生徒はそれに従って席に着く。
ほどなくして『朝読書』の時間が開始された。
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