Op.1-36 – My memory

「結構、困ったちゃんなんやね。まぁ可愛いもんやけど」


 母・智花は笑いながら私の手を引き、そのまま会場の中へと私を連れていった。同い年の子が人前で泣きじゃくる様子を見て、私は気まずさからくる居心地の悪さを感じていたので、母がここで会場に戻る判断を下したのはありがたかったことを覚えている。


「裕一郎くんとお母さんにもぜひ見てもらいたいわ、光ちゃんの演奏。まだ小学5年生だけど凄いのよ。参考になると思う。それに沙耶ちゃんと同い年だし、発表会の後にお友達になれるかもよ?」


 これは発表会のある3日前、兄・裕一郎のピアノ講師である折本が私たち家族に告げた言葉だ。

 これまでその女の子は発表会の序盤にプログラムされ、後半に順番が回ってくる兄は遅れて会場入りするため、その子の演奏を見たことがなかった。

 しかし、その年からはその子を後半に回し、更にあろうことか兄を始め、数人のとんでもなくピアノが上手なお兄さん・お姉さんが披露する即興演奏の代表者にも選んだそうだ。


 それにしても私の4歳上の兄が私と同じ小学5年生の演奏を参考にするなんて有り得るのだろうか? 


 その話を母の隣で聞いていた当時の私が抱いた正直な感想だ。


 私は幼稚園の頃に兄の影響でピアノを習い始めたものの、自分には合わないと思ったのと、兄との埋まらない差に失望して幼児科の段階で辞めてしまった。

 

 この経験があったため当時はある意味で達観していた。この4歳差は予想以上に大きく、いくら上手いと言っても所詮は小学校5年生の話だと心のどこかでその子の音楽を下にみていた。


––––お兄ちゃんの方が上手いに決まってる


 私はそう確信していたので正直その光という子にあまり興味が無かった。


 そもそもピアノに良い思い出のない私はこの兄の発表会に行くことにも気乗りしていなかったと記憶している。兄や兄以上の年齢の人たちの演奏を見ると、全く上手くなる気配のない自分の日々が思い出されて精神衛生上よろしくなかったのだ。


 更に、発表会を見ることにモチベーションが無かったことに加え、ロビーでギャーギャー泣いているその子を私は見てしまった。

 小学校高学年にもなって公衆の面前で泣きじゃくり、多くの人に迷惑をかけ、挙げ句の果てに「ピアノを弾きたくない」と駄々をこねているその様子に私は恥ずかしさとともに幻滅し、その子と話そうという気すらなくなってしまったのだ。


 恐らくそれは母も同じだっただろう。


 いくら上手いと言っても所詮は私と同じ小学生。プログラム後半にぞろぞろと現れる"ピアノの猛者たち"の足元には遠く及ばない。それが現実なのだ。


 私は大人しく母に連れられて父の隣の席に戻り、1人の若い女性が場を繋いでいる様子を眺めた。


「今村くんはどんなことに気を付けてさっきの演奏を披露してくれたのかな?」


 光の騒動があって、一旦会場を抜けている折本に代わり、それまで演奏者とプログラム、演奏に向けての一言を読み上げる役割を担当していたその女性は、急遽壇上に上がり、兄を含めた、即興演奏に選ばれている3人にインタビューをして時間稼ぎをしているようだった。


「こんなん今まであったっけ?」

 

 父・達也たつやは母に小さな声で尋ねた。それに対して母もひそひそ声で「実はね……」と今しがた目撃したことを父に告げていた。


「あぁ〜、なるほどね」


 父は言葉少なにそれだけを言ったが、苦笑いしながらマイクを持つ女性と代表の3人を見つめるその眼差しには、騒動の発端となった女の子への呆れと、特にマイクを持って必死に場を保たせる女性を不憫に思う感情が内包していた。


 全員にインタビューを終えた後、戻っていた折本がステージに上り、笑顔で今日の発表会の総括を述べた。


「今日は皆んなとっても素晴らしい演奏をありがとう! とっても上手だったよ。いっぱい練習頑張ったもんね!」


 そんな感じのことを折本が生徒たちに向かって述べると私よりも小さな男の子や女の子が「頑張ったよ!」などと返事をしており、保護者や壇上の折本、場を繋いでいた女性、代表者の3人は優しく笑ってその様子を眺めていた。


「さぁ! それじゃあ最後にここにいる3人のお兄さん、お姉さんに即興演奏をしてもらいます。すごくカッコ良い演奏が聴けるから皆んなも楽しみにするんだよ」


 そう言うと折本は即興演奏の概要を説明し、モチーフの入った箱をスタッフに持って来させた。


「先生が引きまーす!」


 折本はそう言うと箱の中に手を入れ、何度かかき混ぜた後に直角四つ折り (二つ折りの後、垂直に二つ折りする折り方) にされた紙を取り出す。


「えっと……あっ! 沙耶ちゃん! 裕一郎くんの妹ちゃんです。どこにいるかな?」


 即興演奏のモチーフに私が適当に書いた2小節が取り出されてしまい、あろうことかその場に立たされ、赤面したのを覚えている。

 兄と同じグループレッスンに属するお姉さんからの「沙耶ちゃんだ!」「可愛い!」「こっち見てー!」と言った声も更に私の中にある羞恥を助長した。


「さ、じゃあ、沙耶ちゃんが書いてくれたモチーフ、先生が弾いてみようかな」


 しばらく生徒たちのやり取りを眺めていた折本はそう言って私のモチーフが書かれた紙を譜面台に乗せて弾き始める。


 |シ♭ シ♭ ソ –|シ♭ シ♭ ファ– |


 4拍子の簡単なモチーフが流れた。最後の2分音符の音が違うだけであとは同じ旋律。

 会場に入った私は何も考えずに適当に書き殴ったので変な音じゃないか心配だったが、折本の弾き方もあって何だか綺麗に響いたように感じられた。


「素敵なモチーフを沙耶ちゃんが出してくれました。じゃあ、そうだなぁ……。お兄ちゃん、裕一郎くんに最初に即興演奏を披露してもらおうかな!」


 壇上には中学3年生の兄と高校2年生の2人のお姉さん。その中で1番歳下である兄が1番最初の即興演奏者に選ばれた。


 丁度私のモチーフを引いたことに加えてあとの2人は当時の折本の生徒の中で最も上手いと言われていたので、2人の後に兄にやらせて萎縮させるよりも先に即興をさせて肩の荷を下ろさせようという折本の親心もあったのだろうと当時の私でも何となく察することができた。


 兄が即興演奏の代表者に指名されたのはこの時が2回目。前回の緊張を経験していたからか固い印象は見られず、すぐにピアノの前に座ったことを記憶している。


 兄は1度私のモチーフを単体で弾く。これは即興前の決まりで、出されたモチーフを1度弾くことで私を始めとして会場にいる聴衆にその旋律を覚えてもらう (思い出させる) ことを目的としていた。

 また、折本から「即興演奏の間、モチーフが使われていることに皆んなが気付くよう最初は分かりやすくそれが浮かび上がるようにしなさい」と指示されたと兄は家で練習している時に言っていた。


 兄は私のモチーフから即興演奏を始める。


 音数少なくスタートし、それによって私が書いたモチーフが分かりやすく聴こえてきた。何度もそのモチーフが耳に入るため何だかちょっぴり恥ずかしい思いが沸き起こったものの、やはり兄は上手だ。段々と良い曲になっていく。

 

 兄はそのまま無難に即興演奏をこなし、即席で出されたにも関わらず、1つの曲として完成させてしまった。


 その後、残りの2人のお姉さんが次々と即興演奏を披露した。兄の演奏は確かに上手かった。しかし、2人の演奏は明らかにレベルが違った。

 

 兄は折本の言いつけを意識するあまり、私のモチーフがあまりにも独立し過ぎていた。しかし、2人の演奏は共に曲の中にモチーフをしっかりと溶け込ませ、美しいハーモニーと共にさらなる上のステージへと曲を昇華させてしまった。


 演奏が終わると会場は割れんばかりの拍手が沸き起こり、その素晴らしさをその場の全員が讃えた。


 これだけのものを聴かされると、さっき外で泣いていた女の子も壇上に上がることがなくなってラッキーだったのではないかとまで思えてきた。あまりのレベルの違いにまた異なる意味で泣き始めるような気がしたからだ。


「はい、3人とも素敵な演奏ありがとうございました! 皆さんもう1度大きな拍手を……」


 折本が言葉を言い終わらないうちに会場前方の扉が開き、そこに小さな女の子が入ってきた。


「あら光ちゃん……」

「弾く」


 折本の言葉を遮り、その子は真っ直ぐにピアノの元へと向かっていった。


 何事かと会場が若干ざわつく中、折本が1人笑みを浮かべていたのを私は鮮明に覚えている。そしてそれはこれから何かとんでもないことが今から起こるのだと私の勘が訴えかけていた。


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