Op.1-32 – Debby

 『ワルツ・フォー・デビイ』の"サビ"とも言える、16小節で構成されたBセクションが終わりを迎える。

 この僅か16小節の中で明里は光の使う音の彩りに何度も驚きを与えられた。1つ1つの音の選択とその音色は作曲者であるビル・エヴァンスに対する尊敬を含みながらも光自身の独特な色味を加え、この曲の新たな可能性を提示しているかのようだった。


 |【左手 (F–B♭) – 右手 (D–G–C) 】 – 【左手 (G – C) – 右手 (E–A–D) 】 – 【左手 (A♭– D♭) – 右手 (F–B♭–E♭) 】|


「(また、4th的な響き……? susコード?)」


 Bセクション最後の小節である48小節目のC7のコードにおいて光はトップノートの{C–D–E} に沿って和音を構築し、1拍ずつ上行する。 光の奏でたその和音群はどこかぼやけたような、神秘的な印象を与える。

 

 明里には音を4度で重ねる4thコード (4度堆積) に聴こえ、結果的にそれは正解である。明里が少し違和感を持ったのは、光が4度堆積の中に3度を混ぜることで響きに味付けを行ったためで、それが明里に少し不思議な感覚を覚えさせたのである。


「(ここからこの曲の最後のセクション……)」


 光のBセクション最後のブリッジから『ワルツ・フォー・デビイ』最後のセクションであるCセクションへと辿り着く。


 Cセクションは32小節で構成され、その後、インプロヴィゼーション、またはコーダへと繋がっていく。最初の10小節はAセクションの前半と同じメロディー、同じコードを使用する。その後に続く11小節目から変化が加えられて演奏が展開されていく。


 光はその後の変化との対比を示すためか、Aセクション前半と全く同じコードを付与したメロディーを演奏する。


 これまで何度か光と明里は一緒に合わせてきた。その時は大概、光はテクニカルな演奏を見せることが多かったが、先日のFブルースセッションでその様相に変化が生じてきている。明里にはこの変化の理由として2つの可能性を考慮している。


 1つは、単純に光の気分。光は昔からレッスン内容から影響されることが多く、最近ではバッハに取り組み始めたと聞いている。

 明里はクラシック音楽に関して造詣は深くないものの、バッハは多声部を複雑に組み合わせながらもそれぞれの声部を美しく響かせることが特徴的であるということは知っている。


 光がバッハが嫌いだということは知っていたが、(入り口がロックミュージシャンの動画ではあったものの) それを受け入れることができるほどに精神的に成長したという点も大きいのかもしれない。


 そしてもう1つの理由として考えられるのはこれまでの"遊び"とのモチベーションの違いである。

 今までの明里との合わせは言わば技術の出し合い。対して現在、取り組んでいる合わせは文化祭とはいえ舞台が用意され、その上に立って人前で演奏する。このステージで観衆に向けて演奏することは光にとっては何にも変えられない至高の瞬間。

 

 ここからくるモチベーションが光にテクニック重視の演奏から、より高い音楽性を求めた演奏へと切り替えているように明里は感じている。


 Cセクションへと突入し、戻ってきたテーマ。特にBセクションで光が見せた色彩豊かなハーモニーは明里に多くの風景を見せた。


 『ワルツ・フォー・デビイ』はビルの2歳年上の兄・ハリーの長女、デビイに向けて書かれたワルツである。ビルはこの姪を可愛がり、暇を見つけては会いに行っていたらしい。

 また、この曲はのちに、ビルからの信頼があつかった作詞家のジーン・リースによって歌詞がつけられ、少女の成長に感じる一抹の淋しさを歌ったその詞は、叔父であるビルの心情を見事に代弁している。


 ジーンによる歌詞では初め、デビイの可愛らしい世界を表現する。その世界の住人は人形やピエロや王子様、大きな紫色の熊たちが住むと歌い、心配事からくるしかめっ面とも無縁で幼い無邪気なデビイを表現する。 


 その後に続く、光が奏でていた複雑なハーモニーを伴うアレンジは、まるでデビイの成長を表現しているようだった。

 

––––そしてCセクションからの歌詞は大人になっていくデビイに思いを馳せる。


 光が選択した、冒頭と全く同じコードで奏でたCセクションの導入はまるでビルがデビイの幼い頃を思い返しているかのよう。光の美しい旋律からは、デビイの成長への喜びと彼女が遠くへ行ってしまう心淋しさを同時に表現しているようだ。


 そしてメロディーとコードが徐々に変化していく59小節目から光はクレシェンドし、コーダへ向けて盛り上がりを見せていく。


*****


One day all too soon

She'll grow up and she'll leave her dolls

And her prince and her silly old bear


When she goes they will cry

As they whisper "good-bye"

They will miss her I fear

but then so will I


いつの日かあっという間に

彼女は成長して大人になるのだろう

そうしたら彼女は人形や

王子様、ぼろぼろにくたびれた熊とも別れるのだろう


そうなったら人形たち、皆んなは泣くのだろうね

「さよなら」と囁きながら

皆んな彼女がいなくなって寂しがるだろうね

そして皆んなを心配する僕もきっと同じなんだ


(Waltz for Debby (一部抜粋) / Lyrics by Gene Lees / Music by Bill Evans / arr. by Joe Johnson / 歌詞和訳 : セラム )


*****


 光の左手はこれまで基本的にはコードを押さえ、時折アルペジオを見せる程度であったが、61小節目からは左手のアルペジオを惜しげもなく散りばめ、それまで溜めてきた感情を一気に放出するかのようにその音色が輝きを増す。


 その音の連なりはクラシックの印象派のような音使いを融合させ、最早ジャズという音楽の枠組みを超えて、ビルのデビイに対する溢れる思いを表現する。

 それに呼応するかのように明里のはじく弦も色彩豊かな響きを編み出し、尚もシンプルに刻むベースラインはあらゆる表情を垣間見せる。


「(あ……インプロ、何拍子でやるか決めとらん……)」


 明里が光との共演ワルツに身を委ねている間に湧き上がった疑問。ビルの録音ではブリッジにおいて4拍子に変更され、そのままフィナーレまで演奏される。しかし、ピアニストによっては3拍子のまま演奏するピアニストも多く、演奏前に相談して決めることが通例となっている。


––––感じろ


 明里は光を注意深く観察し、C音を弾き続けるペダルポイントを用いて光の様子を探りながらそれまでの演奏で彼女がどこへ向かいたいのかを予測する。


「(3拍子……!)」

 

 光はブリッジで4拍子に変更することをせず、そのまま3拍子をキープする。


「!?」


 しかし、光はそのままインプロヴィゼーションへ突入することをせずに、明里に合図を送り、エンディングのコードを鳴らす。

 4つのコードを演奏した後に最後のF9を響かせ、右手と左手によるコンビネーションで技巧的に上行、その後簡単な和音を鳴らして曲を終止させた。


「え、何でめたと?」


 インプロヴィゼーションを演奏せずに、曲を終わらせて指を揉んでいる光に向けて明里が尋ねる。


「気分が乗らなかったっちゃん。それに今のが曲のピークだって思ったけん」


 光はさも当たり前といった調子で返答する。


「でも今の合わせでこの曲のアレンジが決まった気がするけん、改めて編曲して譜面渡すよ」


「(なるほど)」 


 明里は光が曲の簡単な指針であるリードシートで演奏することをあまり好まず、きっちりとアレンジして譜面にして演奏することを好むと知っていた。

 光は明里との演奏で明里に合ったアレンジを今の演奏の中で模索していたのだろう。そのことを察した明里は「分かった」と答えて納得する。


「それと曲は2曲で良いかもしれん。『エントランス』と『ワルツ・フォー・デビー』。この感じだとアレンジ長くなりそうやし、それに……」


 光は明里の方を見つめた後に言葉を続ける。


「『エントランス』でソロ取りたいっちゃろ? 明里が耳コピしよるの知っとるよ」

「え、何で?」

「やっぱり。勘で言っただけ」


「(こいつ……)」


 非常にテクニカルな楽曲で、ほぼ1コードで進行するこの『エントランス』はほぼアレンジをしない。但し、その中での即興は非常に体力を消耗し、また、原曲にベースソロの無いことから (MeTubeでハリーがソロをとっている動画が1つだけある)、クリエイティブ能力を要求され、明里はより体力を削られることが予想される。


 それを見越した光はパフォーマンスが落ちないラインを考え、2曲のみにすることを提案した。この冷静な分析力と判断力に明里は心底感心する。


「OK」


 明里は納得して承諾し、2人はそのまま話し合いを合間に入れながら練習を続けた。



<用語解説>

・ブリッジ:セクションとセクションを繋ぐための箇所。


・4thコード (4度堆積):和音を4度間隔で重ねたヴォイシング。従来の調性音楽から少しはみ出して、フォーカスのぼやけたようなサウンドを編み出す。


・Jean Lees (ジーン・リース):1928年 カナダ出身。米国に移住し、ダウンビート誌の編集者を経て独立。音楽評論家および作詞家として活躍した。作家として2冊の小説、歌手として4枚のアルバムも出している。作詞家としてはジョビンの「Corcovado (Quiet Nights of Quiet Stars)」とビル・エヴァンスの「Waltz for Debby」がよく知られている。


・ペダルポイント:コードが変化していく中で特定の音を鳴らし続ける手法。


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