Op.1-31 – Choice
––––それそれ
奏でた音を通して光がそう告げたように明里は感じた。
音の変化に気付いた光がその白い歯を少しだけ見せて笑ったのを見て明里は自分の選択が間違っていなかったのだと安堵した。
光は気分を良くしたのか、同じメロディーの中に彩りを与えるために装飾音符や内声を加え、更に和音も微妙に変えて前半とは異なるハーモニーを与える。
そして原曲においてメロディーの変化する部分、すなわち27小節目へと突入する。そして続く29小節目までのアレンジ。その変化は11〜13小節目と比べてほんの僅かで、いくつかの音を半音上げるのみである。
| シ♭ | ラ | ソ ラ シ♭ | ド | → | シ♮ | ラ | ソ♯ ラ シ♮ | ド♯ |
たった4音 (B♭、G、B♭、C) が半音上がっただけで (B♮、G♯、B♮、C♯) その音の雰囲気と響きは急激に変化する。
この変化はBセクションへのビルの予告だと明里は解釈している。
「(光はどう演奏してくるんやろ……?)」
明里は光がこの美しい素材をどう料理するか単純に興味を持った。光の一挙手一投足が明里の中で支配する。
光の仕草は? 表情は? 指の動きは? ゆっくり動いてる? それとも……
明里はここで自分が光の音以外の反応にも気を配っている自分に気付く。これまでは光が選択した音色やその技巧、次に彼女は音楽にどんな魔法をかけるのかに着目し、その視点は音楽のみに向けられていた。
しかし、今は光の音楽以外の、ピアノの前での行動や表情を観察するようになっていた。これは『ワルツ・フォー・デビイ』のテーマ部分が至ってシンプルでベースは動かず正確にルート音を刻むことがベストであることを明里が知っていたことに起因する。
勿論、演奏者によってはベースをもっと動かす必要もあるのだろうが、光の様子や何度も聴いてきたビル・エヴァンス・トリオの演奏でのベーシスト、スコット・ラファロがその解答を提示している。
事故によって25歳と若くして亡くなった彼はその短い生涯でベース界に大きな衝撃を与え、その後のベーシストたちの演奏スタイル、常識を変えてしまったと言っても過言ではない。
スコットの特徴の1つとして、ベースとしての役割をきちんと果たしつつリード楽器のように印象的なフレーズを次々に編み出すことにある。それまでベースはリード楽器を支えることのみに徹し、ルート音とリズムを刻むことが主な役割であった。
しかし、スコットは彼のメロディーメイカー的なベースでその常識を覆し、リード楽器と対等な地位を築き上げた。
この三位一体の関係を構築したことでビル・エヴァンスの『ザ・ファースト・トリオ』はたった4枚の録音 (リバーサイド4部作と称される) でジャズ、ひいては音楽界に多大な影響を及ぼした。
そんなスコットが『ワルツ・フォー・デビイ』での演奏においてはシンプルにルート音を奏でることに徹している。それが明里にとっての模範解答であり、現在の光との演奏で確信に変わったのである。
|レ|(レ) – ド|レ|(レ) – ド|レ ド シ|ラ|ソ – ファ|
33小節目からは計16小節で構成される、Bセクションが開始される。この部分はいわば"サビ"となっていて、最も美しく、且つ盛り上がりを見せる箇所である。
「!」
|レ – シ♭ド|レ – シ♭ド|レ ミ ファ|ラ ミ♭ レ |ド – シ♭|ラ – レミ|ソ – ファ|
光は原曲のメロディーをアレンジし、トップノート (最高音) を強調する。その中でも最初の3小節で印象的なD音を特に粒立たせ、小指で持続させたまま内声として右手と左手でコードを響かせる。
33小節目にD音を鳴らした直後に使われた和音はコードにするとGm7(9)で【左手 (A–B♭) – 右手 (D–F–A) 】。
明里は石屋からベースだけでなく音楽理論 (特にジャズ理論) を少しずつ習っており、その中でピアノの和音では同じ構成音を重ねない方が良いといったようなことを聞いていたが、光はそのようなことは関係なく、テンション・ノートである9th (A音) を重複して使用している。
明里はまだ和音を一瞬にして聴き取るほどの耳を備えていないが、それでもいくつか聴こえてくる音と光の指を見てA音を重複させていることに気付く。
「(重ねてても全然綺麗やん……)」
34小節目に光が使用した和音はCm7(11)で【左手 (B♭) – 右手 (C–D–F) 】を押さえる。ここでは光は意識してか無意識してかm3rd (E♭)をオーミット (省略) し、11th (F) と重ならないようにしている。
ジャズ理論において9rd、11th、13thはそれぞれR、3rd、5thと対応しており、テンション・ノートを使用する際には対応する音をオーミットするように学習する。
しかし、これはあくまでも指針であり、関係なく重複させるジャズ・ミュージシャンたちは多い。
––––光も例外ではない。
35小節目では最大限に無駄を省いたAm7を奏でた後に光はメロディーパターンを変える。これまでの2小節は、D音の後に{B♭–C}と上行させて再びD音に接続させてきたが、{E–F}と上行させてこれまで登場させてこなかった36小節目のA音へと繋がれる。
A音に続くトップノートであり、メロディーラインであるE♭は同時に和音を形成する。コードはD♭9 (sus4)で【左手 (F♯–C) – 右手 (G–E♭) 】を押さえる。
普通susコードを使用する場合、4th (G) との重複を避けるために3rdの音 (F♯) をオーミットすることが通例となるが、光は同時にこの音を使用する。
「(何だか不思議な音……)」
明里はレッスンにおいて特徴的な、浮遊感に満ちたsusコードの独特な響きを既に覚えており、それに3rdを混ぜた時の気持ち悪さも覚えていた。
光が4つの音しか使っていないことと、ボトムノート (最低音) にF♯を使用していたことで彼女が4thと3rdの重複を平気な顔で使用していることに勘付いた。
レッスン内で重ねた時には心に引っかかる不協な音が不快に感じられたが光が使用する音にはそのようなものは一切感じられず、彼女の魔法がその不愉快な"何か"を取り除いたようにも感じられた。
これは光が持つ、音を美しく響かせるための天才的な、絶妙の力加減とその音の重ね方にある。音の重ね方によってはテンション・ノートとそれに対応したコード・トーンの重複やsusコードと3rdの重複といった注意が必要な音も美しく響く。
「(光はもう、どのヴォイシングが上手く機能するかを知っているんだ)」
明里は光のレッスン、特に瀧野とのレッスン内容をあまり知らない。折本とのレッスンもどのクラシック曲を弾いているのかを知っている程度。
瀧野とのレッスンで作っている曲を時々聴かせてもらうだけで理論的なものをどこまで習ったのか、など具体的なことを聞いていない。
しかし、光が奏でる一瞬の音の選択から非常に高度なレベルまで学んでいることが見て取れる。
明里はBセクションにおいても動かず、ルート音を奏でる。
––––動かないで
光の音がそう言っているようだった。明里は光の美しいヴォイシングを響かせるために必要最小限の音しか奏でない。
「!」
39小節目における {D–C–B♭} の下行において、光は再び明里の理解が追いつかない和音を連続させる。
光はトップノートを保ったまま和音で下行する。それぞれのヴォイシングは{【左手 (F–C) – 右手 (E♭–G–B♭–D) 】–【左手 (E♭–B♭) – 右手 (D–F–A–C) 】–【左手 (D♭–A♭) – 右手 (C–E♭–G–B♭) 】}を使用し、浮遊感のある音を響かせる。
原曲での39小節目はCm7を使われるが、光が使った音は明らかに1拍ずつコードが変わっている。しかし、明里の奏でたC音全てにその和音たちは機能している。
その後、40小節目のB♭△7に達し、光は概ね原曲通りのメロディーとコード進行でCセクションへと続ける。
そしてここからインプロヴィゼーションを迎えるのである。
<用語解説>
・Scott LaFaro (スコット・ラファロ):1936年 – 1961年 アメリカのジャズ・ベーシスト。20世紀のモダン・ジャズにおいて重要な役割を果たした一人。ビル・エヴァンス・トリオの一員としてよく知られている。交通事故死で25歳と短い一生であったものの彼の出現によってその後のベースの役割に大きな変化を生んだ。
・ビル・エヴァンス 「ザ・ファースト・トリオ」:黄金のトリオとも称され、ビル・エヴァンス(pf)、スコット・ラファロ(b)、ポール・モチアン(ds)によるピアノトリオ。
・リバーサイド4部作:ビルの黄金のトリオによる4アルバム。スタジオ盤2作 ("Portrait In Jazz"、"Explorations") とライヴ盤2作 ("Waltz For Debby"、"Sunday At The V.Vanguard") からなる。ライヴ盤を録音した10日後にスコットが亡くなったためにこのトリオによる演奏はこの4枚しか残っていない。
・和音の表記に関して:【】で括って表現する。両手を使ってヴォイシングする場合は左手()、右手()で表し、"–"で繋げる。また、左端の音を最低音として順に上に重ねる。
また、フレーズの塊を{}で囲むことで表現する。
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