Op.1-30 – Rebel
「取り敢えず弾こうよ」
「OK」
光は『ワルツ・フォー・デビイ』をとにかく2人で合わせてみようと提案し、明里もそれに賛成する。明里は自宅から持ってきたuPad proを取り出し、『ワルツ・フォー・デビイ』のリードシートを表示して譜面台の上に置く。
「スリーカウントで」
明里の準備が整ったのを確認した光は人差し指、中指、薬指の3本の指を立てて明里に向け、カウントを指示する。既にピアノの前に座り、鍵盤を見たままにするその仕草を見て明里はわざわざ声を出して光の集中を切らすことを避けるために黙ってコクリと頷く。
明里の方を全く見ていない光ではあるが、明里の頷きを、その徐々に研ぎ澄まされていく五感で感じ取ったのか、はたまた幼馴染み同士の阿吽の呼吸で理解したのかは定かではないものの、演奏前のルーティーン、両手を膝の上に置いて目を瞑ったまま下を向く姿勢に変わる。
先ほどまで行っていた2人の賑やかなやり取りが嘘のように練習部屋が一気に静寂に包み込まれる。
明里はいつ合図がくるのかと注意深く光を見つめ、緊張感が最高潮に達していく。
「(ただの練習なんに……)」
そう、今彼女たちが始めようとしているのは練習、しかも取り敢えず合わせてみようといった程度の演奏である。しかし、光が醸し出す佇まいは本番さながらの空気で、それを一瞬にして作り出してしまう光の切り替えの早さに対する驚きと本番ではどうなるのだろうかという期待と不安が明里の中を支配する。
「ワン、ツー……」
光のカウントが始まると明里は右手に視線をやり、1音目に集中する。
––––スリー
光の「スリー」という掛け声の直後、ジャズピアニストの巨匠であるビル・エヴァンス作曲による『ワルツ・フォー・デビイ』の演奏が開始される。
––––| ド | ファ | シ♭ | ミ | ラ |––––
タイトル通りの3拍子の楽曲であるこの曲のメロディーは非常にシンプル、且つ美しい。
ビルはクラシックピアノにおいても"ヴィルトゥオーゾ"と呼ばれるほどの腕前の持ち主で、ヨーロッパとクラシックの伝統を重要視した彼はジャズにこれらの要素を持ち込んで融合させ、音楽の歴史を変えた人物である。
そしてこれを美しいメロディーたらしめるはそれを構成する和音である。ビルの演奏では右手で単音のメロディーを奏で、それを左手で伴奏してその美しさを強調する。
一方で光は右手3音、左手3音の計6音で構成される和音を付点2分音符で3拍伸ばして演奏する。明里もそれに合わせてルート音を1音ずつ響かせるのみで無駄な動きを加えない。
この曲はオンコード (スラッシュコード、分数コード) を巧みに利用してその響きに彩りを与える。オンコードとはあるコードの構成音や『テンション』 (非和声音のうち、和音の響きに緊張感を与え、且つ和音進行を阻害しない音をテンション・ノートという) をルート (最低音) にしたコードである。
例えばこの『ワルツ・フォー・デビイ』はkey=Fで1小節目はF△7/A (またはF△7 on A) と表記される。
F△7の構成音はF (R)、A (M3)、C (P5)、E (M7)、テンションはG (9th)、D (13th) となる。そして1小節目では"A"をルート音にするように指示している。(転回形として解釈して良い)
そこに光独特の響きが加えられ、真っ白なキャンバスに1つの色が塗られる。光が音の絵の具を混ぜて創り出した新たな彩り。小節が進むことでキャンバスに染み込ませる色が増えていく。
光は徐々に内声を加えていき、新たな発想を提示する。
「(音が変わった……?)」
明里はこれまで光がピアノソロでこの曲を演奏しているのを何度も聴いている。明らかに光の内声の音色がこれまでと違う。恐らく使っている音自体は微妙に違うだけでほぼ同じ。
しかし、その内声はこれまで聴いたことのないような美しい響きを内包したまま、まるで氷が水に浮かぶようにその姿を露わにする。
そして時間が経つにつれて氷が水に溶けて一体化するように、光が奏でた内声は曲全体に染み渡っていく。
光がこの変化を自覚しているのかは定かでない。しかし、これは最近、折本とのレッスンで始めた『平均律クラヴィーア曲集』の影響が大きい。
折本は第1番前奏曲のようにメロディーを綺麗に響かせる技術を身に付かせ、3声、4声と複数のメロディーを複雑に構成させるバッハのフーガを経験させてそれぞれの内声に耳を傾かせる意識改革を促した。
予想を越えて夢中になった光は昨日のレッスン後に折本から課されている『第2番ハ短調 フーガ』の3声全てを独立して1度自分で譜面に書き直し、1つ1つのメロディーを弾いて練習、その後1つずつ全ての組み合わせを試してメロディーを響かせる練習に取り組んでいた。
その練習を夜遅くまで消音ピアノやLogical pro Xを使った自動演奏での練習をしていたために今朝の眠気は酷く、約束の時間を過ぎても眠りについてしまった。
それを知っていた光の両親は娘の睡眠不足を心配し、無理して起こすことを
つまり光は先日のFブルースセッションと同じく、難しい音の構成で明里に驚きを与えたのではなく、アーティキュレーションや強弱によって音楽に生命を吹き込んだ。
明里は引き続き敢えて動き回るようなことをしない。自分が動き過ぎることで光が描く音の絵の具に濁りを与えてはならない。自然とダブルフィンガーで弦を
この力とは大きな音を奏でるために力を込めているわけではない。1音1音を大事にしようと思うことでほど良い緊張が走っている。
『ワルツ・フォー・デビイ』のAセクションは32小節で構成され、更に16小節ずつに分けられる。それぞれの16小説を照らし合わせると最後の6小節のメロディーが変わるだけでそれまでの10小節は全く同じメロディーとなっている。
しかし、ここでビルのハーモニーセンスの真骨頂が浮き彫りとなる。5小節目からは全く違う和音へとリハーモナイズされる。5〜8小節目はオンコードのルート音が別の音に、9〜10小節目は完全にコードが変化する。
Aセクションの前半が終わり、17小節目から後半が開始する。17小節目のコードは1小節目と同じくF△7/A。しかし、明里は1回目に鳴らしたAではなくFを奏でてコードをF△7に変える。
明里は講師である石屋からはまずコードをゆっくりでも良いから正確に読んで演奏できるように練習するよう言われている。故にリードシートに書かれたF△7/AをF△7に変えることはこの指導に背いていることになる。
F△7/AとF△7の構成音は結局は同じで、ルート音がFであるか、Aであるかの違いのみである。響きに変化はあれど、それが不協な音にはならないだろう、そう確信した明里はコードを微妙に変えたのである。
––––初めての反抗
この程度のことは反抗とは言わないのかもしれない。しかし、これだけでも明里にとっては大きな、大きな抵抗なのである。
この変化を引き起こしたのはやはり目の前でピアノを弾く、自分よりも少し身長の低い幼馴染みの存在である。
彼女の小節やコード、常識に囚われない自由な演奏、いや、普段の彼女の生活全てが明里に影響を与えた。
––––それそれ
奏でた音を通して光がそう告げたように明里は感じた。
音の変化に気付いた光がその白い歯を少しだけ見せて笑ったのを見て明里は自分の選択が間違っていなかったのだと安堵した。
AからFの音へと変化させた、たった1音、されど1音の違い。それが音楽全体に大きな影響を与えることを明里は身を
<用語解説>
・ヴィルトゥオーゾ:音楽演奏において格別な技巧や能力によって名人、達人の域に達した人物を指すイタリア語。
・分数コード (オンコード、スラッシュコード) :〇/〇」や「〇on〇」のように表記されるコードのこと。簡潔に言えば『ベース音のみを他の音に差し替える』こと。
<例>
Cコードの構成音は「ド、ミ、ソ」、ベース (ルート) 音は「ド」
C/EまたはC on Eとした場合、「『C』が『E』の上にある」ことを意味し、構成音は「ド、ミ、ソ」、ベース (ルート) 音は「ミ」となる。
まとめると左側(分数表記でいう分子側)がコード、右側(分母側)がベース音を示す。
<分数コードの種類>
1. 転回形の分数コード
「転回形」として解釈できる分数コードで、これは既に紹介した「C on E」のようなコードを指すものである。
2. 転回形にならない分数コード
分数コードには「転回形にならないもの」も存在する。
・「G on C」を例にとる。
この構成音は「G (ソ、シ、レ)」+ベース音「C (ド)」
C (ド) の音は本来のコードG (ソ、シ、レ) に含まれない。これは「GonC」が転回形の分数コードではないことを示し、「G on C」と「G」はそれぞれ異なる響きを生む。
また、このさらなる応用として複合和音 (ポリコード) が存在し、文字通り和音のうえにさらに和音を重ねる技法である。スラッシュコードと区別するために、斜めのスラッシュではなく横棒で区切って上下にコードネームを記す。本小節では○|○というように○/○と区別する。
・コード表記に関して:『F△7』はFメジャー7thのことで本小説ではFM7の表記ではなく、F△7を採用する。また、Fマイナー7thは『Fm7』として表記する。
・音程に関して:今後、小説が進むにつれて光や明かりの"レッスン"または"授業"として詳しく説明するが、ここでは構成音 (3和音) に関して簡単に説明する。
・メジャーコード:ルート (R) 音と3度はM3 (メジャー3rd、長3度)、3度と5度はm3 (マイナー3rd、短3度)、R音と5度はP5 (パーフェクト5th、完全5度)
・マイナーコード:R音と3度はm3 (マイナー3rd、短3度)、3度と5度はM3 (メジャー3rd、長3度)、R音と5度はP5 (パーフェクト5th、完全5度)
・リハーモナイズ :既にメロディーについているコードを新たに付け替えること。ミュージシャンの間では『リハモ』と略されて使われる。
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