Op.1-29 – Tuning

「約束の時間無視して寝とったやろ」


 ベッドに仰向けになる光に馬乗り状態になった明里が、枕の両端に手をついてじっと光の顔を見つめたまま問い詰める。光は明里の顔を見た後に口元をもごもごさせながら気まずそうに視線を横に逸らして小さな声で呟く。


「ごめんなさい……」


 明里に対して甘えている光でもこれほどの失態は珍しく、大抵は起きてはいるもののぼーっとしているだったり、時間に少し遅れたりするといった程度である。

 それもあって明里は2種類のシンバルを光の耳元で大音量で思いっ切り鳴らすという制裁兼イタズラを敢行したのである。


 明里は光の素直な謝罪を聞いて、自分も頭にダメージを受けるという不運はあったものの概ね満足といった表情を浮かべ、光の頭を軽くはたく。

 尚も横を向いたまましおらしく反省している光の様子を見て、明里は両手で光の頰をムギュッと音がするくらいに挟み、無理やり正面を向かせる。


「んー! んー!」


 声を上手く出せずに騒いでいる光を見て明里はそのままの体勢で大笑いする。


「アハハ! 光、顔キモーい!」


 散々光の頰で遊んだ後にてを離すと光が文句を垂れる。


「酷い、酷い! キモいって言った!」


 明里は再び光の両頬をつまむと、今度は外側に引っ張りながら告げる。


「謝るときは人の顔をしっかり見て謝りましょうねっ!」


 明里はそう言うと手を離して光の顔が元に戻る。光は解放された両頬を手で触りながら「痛い〜」とぶつくさ言っている。

 

 少しして光が恐る恐る明里の顔を見る。明里はその行動が先日動画で視聴した、悪いことをして怒られている猫の様子が頭に浮かび、微かな笑みを浮かべる。

 それを見た光は少しホッと安堵の溜め息をついて改めて明里を真っ直ぐに見つめて謝罪する。


「ごめんなさい」


 それを聞いた明里はニッと笑い、光の頭を撫でながら「よくできました」と告げた後に光の身体から退けて動けるようにする。

 パッチリと目が覚めた光は目を閉じながら首を左右に振り、髪の毛をバサバサっと音を立てる。明里はいつものように光の頭についている寝ぐせを手ぐしで整えながら尋ねる。


「ちょっとビビッとったやろ?」


 悪戯っぽい笑みを明里は浮かべている。


「うん。今回は本気の怒りかと思った」


 その答えを聞いて明里は笑う。


「私、怒らんよ? 特に光にはね」

「ほら、ライン越えってあるやん?」

「そう思うなら寝らんどけば良いやん」

「いや、お布団の誘惑が……」


 バツの悪そうな顔をして光は答える。


「もっと甘やかして」


 光はニパァッとはじけるような笑顔を明里に向けながら懇願する。


「アホか」


 明里はそう一蹴してもう1度光の頭を軽く叩いた後にベッドから降りる。


「ほら早よ行こう。練習部屋にもうアコベもエレベも運び込んどるよ」


 ベッドの上で伸びをしている光に向けて明里が催促する。


「ほーい」


 ふわっとした調子で光は答えるとようやくベッドから離れて、机の上においてある明里と色違いのuPad proを持ち出し、エアコンを切って部屋の外へ出ようとする。


「ほら換気、換気」


 明里はそう言いながら窓を開け、外の空気を入れ込む。


「寒いやん」


 光が明里の行動に対して文句を言う。


「どうせ練習部屋行くやんか。定期的に空気入れ換えんと体調崩すよ?」

「でもその間ずっと開けとくとここ雪国になるよ?」


 光の返答に対して明里は「雪降っとらんめーも」と小さく呟いた後に説得を始める。


「練習の途中で閉めに行けば良いやんか」

「動くの面倒くさいじゃん」

「私が行ったげるけん」

「やったー!」


 こうなることを狙っていたのかは定かではないが、光は軽い足取りで練習部屋へと一直線に向かっていく。明里はそれを見ながら軽く溜め息をついて光の後に続く。


 部屋では光がリモコンで温度を調節し、ピアノの蓋を開いてピアノカバーを綺麗に折り畳んで小さな机の上に置いた。その間に明里はエレキベースをケースから取り出して『Render』のベースアンプをピアノの足下から持ってくる。

 

 ベースを弾かない光ではるが、このアンプは「何かの役に立つかも」と和真が同僚の医師から譲り受けたものだ。結果として重いベースアンプを明里が家から運ぶ必要がなくなり、2人は助かっている。


 エレキベースとベースアンプのボリュームを0にした後にベースケースに備え付けられているポケット部分からシールドを取り出して接続する。その後、アンプの電源を入れてアンプとベースのボリュームを徐々に上げながら音量を調節する。


「光、Aちょうだい」


 明里は音量を調節した後にチューナーの画面を見ながらベースのチューニングを行う。ピアノは容易にチューニングを変えられないため、ベーシストはピアノのチューニングに合わせて周波数の数値を調整する必要がある。

 そのために使われる音はA4で、ピアニストからその音を出してもらい、チューナーに表示される数値に沿って音を調節する。

 

 普通は数値を440に合わせるが、生ピアノは440よりも若干高い441や442でチューニングされていることが多い。よって他の音もそれに伴って若干高くなる。


 光はふざけて最低音であるA0を鳴らして明里の作業を止める。


「そういうのはいらんのよ」


 明里は笑いながら光に告げる。光も笑いながら「はいはい」と言って鍵盤の中央付近にあるA、すなわちA4を鳴らす。明里はその音を頼りにチューニングペグを回してエレキベースのA弦をチューニングする。


 エレキベースのチューニングを終えると今度はコントラバスを取り出す。


「生音でいいやろ?」

「もちろん」


 コントラバスもアンプに繋げることは多いが、部屋の大きさとピアノとのデュオであることからアンプに繋げずに生音で取り組むことを2人は決める。


 明里はチューナーとピアノのA4音を頼りにして同じようにチューニングし、2つのベースの音を整える。


「もう4時近いやんか」

「ごめんて」


 光の寝坊やその後のやり取り、楽器の調整もあって時刻はすでに16時前。2人は笑いながらこれから始める練習に向けて楽曲の相談を行う。


「大体3曲くらいよね。ワルツ・フォー・デビイやらん?」

「良いよ。やっぱウッベとピアノよね?」

「もちろん」


 明里はビル・エヴァンス作曲のワルツ・フォー・デビイは是非とも弾きたい曲として挙げていた。理由は光が最初に嵌ったジャズで、当時、楽器をしていなかった明里も同じくその美しい音楽の虜になった。


 いわば、2人の原点とも言えるこの曲で光と明里の手による化学反応を引き起こしたいと明里は考えていたのである。


「取り敢えず、弾こうよ」

「OK」


 光の提案に明里は賛同し、明里は家から持ってきたuPad proにリードシートを表示して譜面台に置き、コントラバスを構えた。


「スリーカウントで」


 既にピアノの前に座る光が明里に人差し指、中指、薬指の3本の指を立てて向けてカウントの指示を出す。明里はコクリと頷き、光の合図を待つ。


 光は両手を膝の上に置いて頭を下げるいつもの姿勢を取る。


––––静寂


 明里の中で一気に緊張感が高まる。


「ワン、ツー、スリー」


 光のカウントに合わせて2人はワルツ・フォー・デビイの演奏を開始した。



<用語解説>

・チューニング:音楽において、楽器の音の高さを合わせること。調律、調弦。


・ペグ:ギターやベースなどのチューニングを合わせるための部品で弦楽器には欠かせないパーツ。ベースの先に付いているネジのようなもの。


・アンプ:微細な電気信号を増幅する回路をもつ装置。ベースアンプはベースからの信号を増幅し、音質や音量を調整する機能や、増幅した信号を再生するスピーカー機能を備えたものである。他のもギターアンプやキーボードアンプなどがある。


・リードシート:曲のメロディ、コードと歌詞やフィール (テンポなど) という、ジャズ・ポピュラー音楽の基本的な部分のみを書きあらわした記譜法。



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