26 自傷する蜘蛛
階段を上がり、廊下の突き当りの扉を開ける。照明の点いていない室内は真っ暗だ。廊下の照明が僕の人型をフローリングに焼き付けるが、部屋の奥を照らすには光量が足りない。焼き付いた人影の向こうではねっとりとした暗闇が淀んでいる。
「クロ、カーテン閉めてくれたんだな」
扉を閉めると、真っ暗闇が室内を満たす。ドアのすぐ横には照明のスイッチがあるが、どうにもそれを点ける気にはなれなかった。
暗闇の中で目を閉じたまま、記憶を頼りに卓上ランプのある方へ歩を進めた。手を彷徨わせながら暗闇を進むと、手に固い木の感触が触れる。その上をまさぐると、指先がランプの台座がぶつかった。台座のスイッチに触れると、パッと温かな電灯がともった。
ランプのすぐ横のベッドに腰かけ、ほの暗い室内をぐるりと見まわす。机、コピー機、ベッド、本棚――その隣には筝を入れた袋。
「……そういえば、練習してない」
誰に急かされたわけでもないが、不意に、焦燥がこみ上げる。僕はベッドから降りて、部屋の隅に追いやられた筝を袋から解放した。
音を調整し、祖母から譲り受けた象牙の義甲を指にはめる。
頭に譜が思い浮かぶまま、誰に聴かせるでもなく弦を爪弾く。
卓上の心許ない光源でも、譜面を読むわけではないので、手元が少し見えればそれで良い。――こんな演奏、祖母に聴かれたら、焼きが入るだろうな。
「……やっぱり、おばあ様のようには弾けないなぁ」
演奏を指の感覚に任せて、そっと目を閉じる。
思い出していた。生前の祖母のこと、そしてこの前黄泉の坂で聞いた声を。
――あの時、背後から聞こえた呼び声に従って振り返ったなら、そこに、あの人がいたのだろうか。
……想像した。振り向いた時、おそらく背後にいたであろう祖母の姿を。――しかし、僕の頭に思い浮かんだ祖母は、美しい姿をしていなかった。
黄泉へと続く、暗く、長い、坂の向こう――真っ暗な闇の中に、真っ白な顔だけが、ぽかんと浮かんでいる。皮膚はひび割れ、眼窩は落ちくぼんで。ぽっかりと穴のように開いた口で、ずっと呼ぶ――おおい、おおい、と。
どうして……こんな不気味な妄想をしてしまうのだろう。あの時聞こえた声が、あまりに単調で、機械のようだったからだろうか。それとも……それとも、よく似た光景を、僕が知っているからだろうか。
「――あ」
――暗い、暗い、冷たい部屋。
――鼻をつく、血や胃液や便の混じったひどい悪臭。生温かく、湿った空気。
――踏み出すたびに、足に纏わりつく、ぬるりとした感触。
ビィン
調子の外れた音に、意識が現実に引き戻される。
バクバクと、心臓がやけにうるさく脈打っている。背筋を、冷たい汗が落ちていった。
普段から「思い出さないように」と押さえつけている最悪な記憶。どうやら、しなくても良い妄想に触発され、意識の表層に浮上してきたらしい。何かわずかなきっかけがあると、好機とばかりに、僕を苦しめんと急に浮上してくる。それも、いつものことだった。きっとこの先、どれほど時間が経っても、五感に鮮やかに刻みつけられたまま、死ぬまで忘れられないのだろう。
「おぇ……」
ひどい吐き気に襲われる。
筝に嘔吐物をぶちまけては堪らない。咄嗟に距離をとり、机の脇に置いてあったゴミ箱に顔を突っ込む。幸い、中にゴミはない。今日が燃えるゴミの日だったことと、クロが忘れずにゴミ出しをしてくれていたことが幸いした。
胃の内容物と噴門との激戦は、結局、和解という形に決着した。
咽頭まで上がってきた胃液の臭いを腹に押し戻し、ゆっくりと深呼吸を数回。鼻から抜けるにおいが、正常な空気のそれになったことに安堵して、ぐったりとベッドに寄り掛かった。
――もう、四年になるのか。一族郎党、四十二人、クロに殺させてから。
記憶は、音から無くなっていくのだと聞いたことがある。においは最後に忘却するのだと。だが、未だ音すらはっきりと思い出せる。忘却の兆しは、一片もない。
憎んでいたわけではなかった。
嫌っていたわけではなかった。
ただ、そうするしかなかった。
出来ることなら、静かな幕引きを望んでいた。けれど、刹那的で暴力的な結末にしてしまった。
一度思い出すと……駄目だ、他に方法があったのではないかと、そんなことばかり考えてしまう。
「……それしか、なかったんだ。そうじゃなかったら、僕は何のために……」
ガチャンとドアが開いたのと、僕が盛大なため息を吐いたのはほとんど同時だった。
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