25 絡新婦の団欒
自宅に戻ると、家の中は静かだった。
クロに促され、父の寝室を訪れるとドアが開いていて、部屋の奥の介護ベッドには父が横たわっている。その横で二人の子供がそれぞれ丸椅子に座っていた。僕達が帰って来たことに気付いた二人が、後ろめたそうな表情でこちらを振り返る。
「おかえり
父が儚く微笑んだ。
「うん、ただいま。皆、ご飯はもう食べたの?」
父に促されたはるが、視線をそらしたまま頷いた。
「……うん」
「そう。……どうして喧嘩になったのかな、はる」
はるは、唇をきゅっと結んで、眉間に皺を寄せている。
これは時間がかかりそうだ、と思い、ドアの近くにあった車椅子に腰かける。
ちら、と彼女がクロに視線をやった。その視線の意図を察して、クロに退席するよう伝えると、彼は特に気分を害した様子なくドアを出て行った。むしろその足取りは軽いくらいだ。しばらくして、遠くから洗い物をする音が聞こえてきた。
クロがしっかり遠くへ行ったことを確認すると、はるがようやく口を開いた。
「……お兄ちゃん、最近、あたしの知らないお友達と遊んでばっかりで」
「うん」
「俺が誰と遊ぼうとお前に関係ないだろ」
「ツヅキ……」
いつもは二人の喧嘩の仲裁をなあなあで済ませるが、今回は、普段の小競り合いとは少し毛色が違う。叩いたりすることはあっても、兄を階段の天井に吊るすなんてことは、これまで一度だってなかったのだから。
「はるも学校のお友達と遊ぶだろう? ツヅキにだってお友達がいるんだよ。はるだって『学校の友達と遊ぶな』って言われたら、悲しい気持ちになるよね」
「でも、それでも駄目だもん……」
何を言っても「駄目」だと駄々をこねるはるに、隣に座るツヅキが腹立たしそうに足先を動かしている。気の短い兄の堪忍袋の緒はそろそろ限界だ。――まだ抑えてくれ頼む……と視線でツヅキに念を送るが、伝わってはいないようだ。
一つ疑問があった。はたして、はるはここまで自分勝手だっただろうか? 我儘なところはあるが、ここまで幼稚な性格ではなかったはず。むしろ、同年代の子供たちより大人びているくらいだ。
「はる。どうして駄目なのか、教えてくれるかな。ツヅキも、理由が分からないまま『駄目だ』って禁止されたら困ってしまうよ。もっと違う理由があるんでしょう」
「……」
はるは黙り込む。するとツヅキの表情が、さらに険しくなっていく。
そんな中、見かねて助け舟を出したのは父だった。
「ちょっと前に私に教えてくれたよね、はる。お兄ちゃんが心配なんだろ。はるはお兄ちゃんが大好きだものね」
父はようやく上がる腕で、はるの頭を撫でる――と言っても麻痺して浮かせることで精いっぱいのそれは、撫でると言うより押しつけると言った方が正しいが。まんざらでもないのか、はるは、大人しく撫でられたままでいる。
兄が心配だから、自分の知らない場所で遊ぶことを禁じた……一応の理由はあったらしい。そこから、兄を階段に吊り下げる事件に発展したのは、流石に過激だが。
はるの動機におおよその見当がついた僕とは対照的に、ツヅキは、訝しげに眉を寄せるだけだった。
「俺が心配って、なんだそれ? お前の方がそそっかしいだろ。人のことを心配する前に、自分の心配をしろ」
はるは頬をぷっくりと膨らませ、今にも怒りが頂点に達しそうだ。ここで乱闘になると、病床の父の迷惑になるので、「落ち着いてね」とはるに深呼吸を促す。
「はる。君のお兄ちゃんはかなりの鈍感らしい。言葉にしないと分からないみたいだよ」
「……うん」
はるは、ぐいっと袖で目元を拭い、ツヅキをギロリと睨み上げる。はっきりした顔立ちなだけあり、睨みつけるとかなりの迫力がある。
「な、なんだよ」
「お兄ちゃんは弱い」
「あ?」
「あたしに力で負けるくらい弱い」
ぴくりとツヅキが眉を跳ねさせる。
――言い方……!
急に不安になってきた。雲行きが怪しい。
間に入ろうと身を乗り出したところで、父が首を横に振った。このまま見守っておけ、ということらしい。
まあ、何かあれば最終兵器――クロを呼べば良い。そう結論付けて、僕と父は、兄妹喧嘩の行く末を見守ることにする。
「仕方ないだろ。お前は大御名の女なんだから、俺が弱いんじゃなくてお前が怪力すぎンだよ」
「だから心配なの。あたしは強いからお兄ちゃんを守れるけど、お兄ちゃんは弱いから、お兄ちゃん自身を守れない」
ツヅキは、はく、と吸った息を肺に閉じ込めたまま、言葉を失う。
「
ちら、とはるが一瞬僕を見た。その視線は明らかに、僕を非難していた。
かつてはるは、ツヅキを喪いかけた。
その原因は、ほとんどが僕にある。というのも、僕が、ツヅキを殺そうとしたのだ。ツヅキはあと一歩で死ぬところだったし、その喪失の予感は今なおはるにとって大きな傷である。二度と繰り返したくないトラウマであることはもちろん、それに繋がる不安要素すらも憂鬱の種なのだ。
殺害未遂事件を境に、彼女は、兄に引っ付くようになった。そういえば、はるがツヅキと大きく衝突する時はたいて、そういった「兄への心配」が理由だった。
ツヅキの方は、妹の気持ちに気付いているのかいないのか、彼女の不器用な献身を鬱陶しがっているようだが。
――今回ばかりは気付けただろうか?
ツヅキに期待を込めた視線を向けると。
「馬っ鹿じゃねぇの?」
心底呆れた、と白目を剝きそうなくらい天井を見上げて、うんざりと言い放ったのだった。
「バカって!」
「そりゃあお前、馬鹿だろ。何で俺がお前に守られなきゃならないんだ。兄ちゃんはそんなモン、全くもって、これっぽちも望んでないし、これからも一生望まねぇよ。それなのに、そんなの押し付けられたらさ、ただの押し売りだろ」
はるが言い淀む。返す言葉が見つからず、悔しそうに歯噛みする。
「兄ちゃんは兄ちゃんでやってくから、良いんだよそんなの。お前はお前のことだけ考えてろ。頭悪いんだから」
「……はぁ!?」
「この間、お前の机の引き出しからひっどい点数のテストがはみ出てたぞ」
「う、うるさいなあ! あたしのテストのことは良いでしょ! お兄ちゃんこそ、弱いじゃん!」
「弱いよわい言うなよ」
「だってそうだもん。押し売りだとかなんとか言って、はぐらかそうとしてるでしょ!」
「ちっ。そこをどうにかしないと、引かないつもりだな? ……じゃあこうしよう。俺は部活に入る」
「部活?」
「そう。柔道とか剣道とか。それで自分の身を守れるようになる。それで良いだろ」
「強くなるまでは? どうするの」
「知らん。それまで待ってろ。というかなぁ、普通に暮らしてりゃ危ないことなんてそう無いよ。男だし。女のお前の方が危ないだろ」
「……やっぱり心配。お兄ちゃんがちゃんと強くなるまで、あたしが付いててあげる」
「いらないって。そんなことしたら、お前のこと嫌いになるからな。二度と遊ばないから」
やだ! とはるが駄々をこねる。それを、ツヅキはうんざりしたように見下ろした。
流石に、このあたりで良いだろう。
「はる、そこまでにしなさい。ツヅキは妥協した、なら今度ははるが妥協しないと。相手の気持ちを無視して、自分の考えだけを通そうとするのは、ただの我儘だ」
「……」
「分かったね?」
「……」
「はる」
「うん……」
しぶしぶ、はるが頷く。
「それじゃあ家族会議はこれで終わり。はるは、早々にお部屋を片付けるのと、昨日紙ごみの奥に隠し込んだテストを発掘して僕に提出すること」
「うそっ、バレてる、なんで!?」
「優秀なハウスキーパーがいるからね」
「クロォ!」
「責任転嫁はいけないな。何故、わざわざテストを、秘密裏に処理する必要があったのか……そこが問題だよね?」
「あ、あたし、部屋を片付けてくるから……っ」
はるが逃げるように部屋を後にする。
嵐のように去っていた妹を見送り、華やかさを失った室内に、安堵の沈黙が降りた。父は軽く息を吐きながらベッドに深く体を沈め、ツヅキは心底疲れたように肩を落とす。
「……お騒がせしました。本来は、俺たち兄妹で解決すべきことだった。
「私のことは気にしなくて良いよ、具合の良い日なんて無いのだし。私のことより、君たちのことが心配だ。家族の行き違い――特に時間で解決しないものは、拗れる前にどうにかしなくてはいけない」
「父さん、もう休む?」
「……そうだね。少しだけ、疲れてしまった」
そう言いながら、父は固く目を閉じた。心なしか顔色も良くない。子供二人の喧嘩を仲裁するために、体力を使い切ったようだ。
父の周囲のものを手早く片づけ、ツヅキを伴って部屋を出る。電気を消した、ほの暗い室内の向こうから、「おやすみ」と微かな声が聞こえた。
部屋を出た僕達は、何となしに、父の部屋の前で立ち止まっていた。
「……累、ありがとな」
「僕は何もしてないさ。解決したのはツヅキだ。やっぱり君は兄なんだね」
「はい?」
「いや……ね。年功序列で僕が長男になったわけだけど、兄弟としての接し方というのが、いまいちわからなくてね」
「まあ……普通はいきなり兄になるなんてことないからな」
「ツヅキはどうやって『兄』になったの?」
「どうって……。母さんのお腹が大きくなっていくのと一緒に、少しずつ、妹ができるんだっていう心づもりが出来ていって……。いよいよ妹が産まれたけど、やっぱりまだ『兄』にはなれなくて……でも妹と一緒に育っていくうちに、どう接していくかを肌で学習していって。いつの間にかこういう形になってた。だけど今も、『上手な兄』にはなりきれていないと思うから――さっきも喧嘩しちゃったし、今も兄として成長中、なのかな?」
「そうか。ツヅキが十数年かけて学んだものを、僕がたった四、五年で習得できるわけもないか。難しいな家族って」
「そうだな」
「……これも、僕の解釈する『兄』という役割からの質問なんだけど」
「いちいち小難しいな。余所余所しい、普通に訊けよ」
「最近、何か悩んでいることがあるんじゃないか? 例えば、そう、友人関係とか」
「……占い師でもやったらどうだ」
「食うに困ったらそうするよ」
言いながら、僕はツヅキの左腕のあたりに視線をやる。
釣られて彼も同じ場所に視線をやり、そうして、責めるような目を僕に寄越した。
「……家族の糸を勝手に視るな」
「視えてしまうんだもの。兄としては、弟を心配すべきだと思ったんだけど」
「そりゃ兄心というより好奇心ってやつじゃないのか? 眼が良すぎるのも考えものだな。……まあ良いか、俺もどうしようか迷っていたところだし」
ツヅキは一呼吸置いた。
「俺のクラスメイトに妙な糸が視えるんだよ。首に何重にも絡みついていて……殺意ではなさそうなんだけど、『どういう糸』なのか、いまいち分からないんだ。良くない糸だっていうのは確かなんだけどさ。そいつ、いつも疲れ切ってる様子だし。でも何に悩んでるのかは教えてくれないし。放っておいても大丈夫なのか、なかなか判断しづらい」
「女の子?」
「何を期待してるんだ、男友達だよ。良い奴だし、俺に出来ることがあるならしてやりたい」
「そう。……僕が糸を視てみようか?」
糸を視る目は、僕の方がツヅキより強い。それを言うと彼は嫌な顔をするので、言わないでおくけれど。しかし、ツヅキは静かに首を横に振った。
「……もうちょっとだけ様子見てみる。それでも俺の手に負えなかったら、その時は言う」
「もっと兄に甘えてくれても良いんだよ」
「遠慮しとくよ。俺もまだ、弟っていう立場に不慣れなもんでね」
じゃあ、と言ってツヅキはリビングへ消えていった。「まだ食うのか」とクロの驚いた声が聞こえてきたので、食後のデザートでもねだりに行ったのだろう。
――部屋に戻ろう、なんだか今日は疲れた。
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