27 蜘蛛と犬
「……シャツのアイロンがけが終わったので持ってきたのだが、出直した方が良かったか?」
真っ黒な男が、ドアの前で真っ黒な影法師になっていた。
「うたた寝してただけ」
「もっとましな顔色をしてから言え。またいつもの発作か」
「病気じゃないよ」
「PTSDは立派に診断がつく病気だ。だが、なぁ……たかが三十人ちょっと殺めたくらいで、何をそこまで落ち込むことがある。警察に捕まるのが怖いのか? ならさっさと逃げてしまえば良い」
「三十人じゃない、四十二人」
僕はハァ、と重い空気を吐く。なのに身体は全然軽くならなかった。
「……捕まるとか捕まらないとか、そういう問題じゃないんだよ。クロは大昔の人だから分からないかもしれないけど、殺人は重罪なんだ。僕は現代人だから、現代の律法が染みついているんだよ」
「まるで俺が蛮族だとでも言いたげな物言いだな」
どうせ笑っているんだろう、とじろりと睨むが、意外なことに、クロはみじんも笑っちゃいなかった。
「まつろわぬ者のお前が、どうして社会規範なんてものを気にする必要がある。おかしな奴」
「おかしいのはクロの方だ。人を殺しておいて、どうして平気なんだよ。気持ち悪さとか、罪悪感とか、取り返しのつかないことをした焦りとか、そういうの感じないの?」
そこまで言って、はた、と気付く。
「……もしかして、本当はクロも辛かったりする?」
だとしたら、僕は彼に無神経なことを言ってしまったことになる。彼を傷つけてしまったかもしれない――
「いや何とも思わないな」
――と思ったのに、ただの杞憂であった。
クロの表情は一つ変わらない。彼にとって殺害という行為は、東から日が昇り西に沈むことくらい、まったく当たり前の行為であるらしい。
「やっぱり野蛮だ」
僕がふいと顔を背けると、「お前な」と呆れた声が返ってくる。
「俺がこれまでどれだけ殺してきたと思っている。ヨークシャーにいた数百年、土の下ですやすや寝てるお気楽者たちのために、悪霊やら魔女やら悪魔やらを数えきれないほど食い殺してきた。今さら蜘蛛をちょっとばかし殺したとして、一体、俺の体のどこを痛めろと言うんだ?」
「……いつも『紳士が云々』って言うくせに、紳士なんて嘘っぱちだ」
そうぼやくと、クロはにやりと口の端を持ち上げた。
「
「僕を悪の道に引き摺り込もうとしないでくれる? クロ、いつから悪魔に転向したの」
「何を仰るのか、Miload。貴方様はとっくに悪の道に進んでいらっしゃるってのに」
「少しでも僕を主人と思う心があるなら、善い道を進めるよう支えてほしいものだよ」
主人を誑かす忠臣など、あってたまるものか。
「そりゃあ無理な話だ。俺の性根は、おそらく、この体が生きていた時から腐りきってる。だから墓地の先立ちなんぞさせられたんだろ――覚えてないけどな」
クロとそんな話をしているうちに、少しだけ心が軽くなっていた。
――いけない、いけない。
自分より段違いの悪人が平然と悪徳を説くので、つい基準がぶれそうになるけれど、それは間違いだ。勘違いしてはいけない。僕と彼とでは、「生物としての役割」が違う。
彼はごく自然なことのように殺害を行う。
例えば僕が殺害を頼めば、彼は、まるで食卓のドレッシングでも取るかのように「どうぞ」と願いを叶えるだろう。
それは別に、彼が行き過ぎたサディストだから――というわけでは決してない。彼に課せられた役割が「そう」であるからだ。
彼の性質は「生命に死をもたらす」ことだ。それは病や災害に似ている。死ぬべき者に死を与える、死という概念そのもの。
死を纏うその死神の名を「黒妖犬」という。
黒妖犬。ブラックドッグとも言うそれは、妖精犬の一種で、イギリス各地にその伝承が残されている。
黒妖犬には、二つの側面があると言われている。それは「死」と「守護」。
例えばマン島のピール城に住み着いた「黒妖犬モーザドゥーグ」は死の先触れとして人の前に姿を現し、人々に死をもたらした。対して、ピール港に現れた「名もなき黒妖犬」は嵐を予兆し、船乗りの命を難破から守った。
時に命を助け、時にそれを奪う様は、まさに自然そのものと言える。
黒妖犬の一種であるチャーチグリムも、やはり二つの側面を持つ。
「墓守犬」とも言う彼らは教会墓地に住まい、悪魔や魔女から死者たちを守る。しかし、彼らは死の先触れとしての性質も失ってはいない。
教会の弔鐘を鳴らして人の死の予兆を告げたり、埋葬の際に姿を現して死者の魂の行先が天国か地獄かを知らせる。
「死」と「守護」。二つの役割は、決して、分かれているわけではない。死の黒妖犬と、守護の黒妖犬がいるわけではなく、黒妖犬という存在が、二つの役割を持っているのだ。
余談だが、クロの故郷には「墓地に最初に埋められた者が先立ちとなり、後に埋葬される者たちを守り続けなければならない」という迷信があったそうだ。その義務を人に負わせないために、新しく墓地を作る時にはまず黒犬を埋める風習があった。それがきっと、墓守犬の原型なのだろう。
けれどクロは、元は、人だと言う。
おそらく彼は、墓地に最初に埋められた人間だったのだろう。本来、黒犬が埋められるべきところを、最初に埋められてしまった人間。
クロ曰く「俺はよっぽどあくどい人間だったんだろう。そんな伝承があるのに、わざわざ最初に埋められるほどには。俺自身、昔のことすぎて、覚えちゃいないんだが」と。
クロがどういう経緯で発生したのかは知れないが、彼の存在意義ははっきりしている。「守ること」と「殺すこと」。明確なので、分かりやすい。
――いいな。
羨ましい、と思う。
だって「僕たち」には、存在意義なんてない。
「……僕とクロじゃ、存在意義が違う。僕には存在意義がない」
本心を、不貞腐れて言うと、クロが大きなため息を吐いた。
彼は、軽い足音を立てて僕の眼前までやってくると、すとんとしゃがみ込み、押さえつけるように僕の頭に手を置く。髪をぐしゃぐしゃとかき混ぜるそれは、血が凍っているのではないかと疑うほどに冷たい。
「決められた存在意義なんか、本当に欲しいか? そんなの、死んでるのと同じだよ。……なあ、累。無理に善い道に進もうとするから、犯してしまった悪に―――決して消せないそれに苦しむことになるんだ。――そんなのやめてしまえ。どうせお前は善の道なんて進めやしない。だって、お前は、とうの昔に社会から爪弾きにされてるんだから」
絶望の面持ちで見上げると、紅い視線とぶつかった。
二つ並んだ灯は、ぼんやりと暗闇に浮いている。それは馬鹿にするでも、呆れるでもない、無機質な温度をしていた。
「奪った命は戻らないし、許しを請うても死者にはおろか神にも届かない。言ったはずだ、死者に心を砕くなと。案の定、お前は死に取り憑かれている。どう生きるかじゃなく、どう死ぬかを考えている」
「……」
「累、お前はヒトの社会の異物だ。本来とうに滅びているはずだった生物だ。……だが『はいそうですか』とアポトーシスの犠牲になる必要はない。生きるため、という理由の前には、どんな理屈も通用しない。生きるためなら、例え他者を蹴落としたって、それは仕方のないことなんだ。だから累、異物のお前は、生きるためなら他を食い潰したって良いんだ」
恐ろしい死の怪物が、決して正しくはない生を説いている。それは滑稽なはずなのに、彼の目が真剣だったので、僕は笑うことができなかった。淡々としているが、冷たくはない、そんな不思議な目。まるで……。
「……だけどそんな生き方、格好悪い」
「紳士らしさを忘れなければ、生き汚さなんて誰にも見えないさ」
ここぞとばかりに紳士を持ち出すクロに、僕はつい笑ってしまった。可笑しい。
「あはは……はあ、何だか疲れた」
「ああ、もう寝ろ。シャツはクローゼットに入れておく」
クロがシャツを仕舞う間に、のろのろとパジャマに着替えて、布団に潜り込む。
脱ぎ散らかした服は、クロが小声で愚痴を言いながら回収した。
「スタンドの電気はどうする」
シャツのボタンにほつれがないか確認しながらクロは言う。
けれど僕は、その問いに答えなかった。
「……ねえクロ、
拾い上げたシャツのゴミをぱっぱと払う手が、ぴたりと止まる。
戦後まもない時代、日本にクロを連れてきたのは、高祖父である大御名統であった。聞いた話によると、戦前に、統がイギリス外遊している時にクロと出会ったのだと言う。
「いきなりなんだ」
「ちょっと気になっただけ」
「……お前とそっくりだったよ。良い意味でも悪い意味でも」
「例えば?」
「人使いが荒いところと、図々しいところ」
「そりゃあそっくりだ。じゃあ……僕もクロの友達?」
クロはプスッと小さく噴き出した。
「それはないだろ」
「笑わなくたって良いだろ。……もしも、というか絶対僕が先に死ぬと思うんだけど、そうしたらクロはどうするの」
「そうだな……多分その時には績も死んでいるだろうし、お前達の墓でも守るかね。それに飽きたら、故郷に帰るよ」
「そう。クロが守ってくれるなら安心だ。……ああ、なんだかちょっと眠たくなってきた」
「そのまま寝ろ。明日も学校だろ」
「うん。……おやすみ」
「おやすみ」
卓上ランプがパチンと消され、クロの姿が扉の向こうに消えていく。
遠ざかる足音に耳を澄ませ、それが階下に下がるのを聞き届けてから、僕は布団の中で深く息を吐いた。先ほどまで僕を苛んでいた妄想は、いつの間にかいなくなっている。血の臭いも、肉の感触も、今はない。代わりに、清潔なシーツの感触と、柔らかくも強引な眠気に包まれている。
睡魔のせいで鈍くなる思考の中、ふと、先ほどのクロの言葉が頭に響いた。
――「生きるためなら他を食い潰したって良い」。
それは「生きろ」と言い換えられるんじゃないか。
生きることも死ぬことも、自分で選んでいるつもりだった。だが実は、そうではなかった。現に今、僕は彼に生かされている。無理矢理に、彼の言葉で生かされている。
どうやって死ぬか、じゃなくて、どうやって生きるか。僕に、そんな思考が本当に許されるのだろうか。けれど、もし許されるなら……
考えても、すぐには浮かばなかった。
まず、弟たちを無事に成人させる。
それから……はるに花嫁衣裳を着せてやりたい。綺麗な子だからきっと映えるはず。
それから、それから……。
――いや、それは僕自身のやりたいことじゃない。
「彼らの両親」が願っていただろうことを、僕が、勝手に拝借しているだけだ。
本来、彼らの父母が行うはずだったそれを、父母を奪った僕が、肩代わりしようというのだ。罪が消えるわけでもないのに。とどのつまり、僕の独り善がり。僕が、僕の勝手な罪悪感で、僕の中に勝手に空けた穴を、勝手に何かで埋め合わせしようとしているだけ。
本当に罪が消えるとしたら、それは、彼ら兄妹が僕に殺意を向けた時だ。その時僕は、ようやく自らの荷を解き、彼らに罪を擦り付けることができる。
――けど、それは嫌だなぁ。
せめて、二人には胸を張れる人生を送って欲しい。まっさらなまま、ぴんと背筋を張って、堂々と。僕みたいに背を曲げて、足元ばっかり見つめる人生なんて、まっぴらだ。
僕がどう生きるかは、弟たちを見送ってからのことになりそうだった。
ぐいぐいと、意識を引き込む睡魔に、無意識的な抵抗をしながら、考えた。
「ツヅキ、はる……二人を大人にした後、僕は、どうしよう」
答えは、まだまだ見つかりそうになかった。
ジョロウグモの少年「妖精の誘う木」 櫻井 紀之 @manokiku
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