20 絡新婦の少年

「これが妹さん?」

「そう、ユキノ。もう半年かな」

「お母さん、怖い人なの?」

「……うん。癇癪もちだしヒステリーだし、私には怒ってばっかり。私のことなんて嫌いなんだよ」

「怒ることと、嫌悪は、必ずしも同義じゃないよ」

 それまでスマートフォンを覗き込んでいた大御名の目が、真剣な様子で、私に向けられる。

「お母さんは君にとても怒っているけど、嫌っているわけじゃない」

 唐突な物言いに困惑したのも束の間、ふつふつと、腹の底から怒りがこみ上げてくるのを感じた。

 ――一体、大御名が、私の何を知っているのか、と。

 私たちの何を知っているのだ。私が相談した内容や、今見せてやったメールの内容しか、知らないではないか。――勝手なことを言わないでよ。

「何それ」

 自分でも驚くほど、被虐的な声が出た。

「大御名くんも、何? 他の奴らみたいに、母親と仲良くしろとか言ってくるわけ? 何なの、皆して。私たちのことを知りもしないくせに。大御名くんは今まではそういうこと言ってこなかったから、味方だって信じてたのに。結局アンタも、他の人たちみたいに良い子ちゃん気どりするわけ? 幻滅した」

 眉間に皺を寄せ、仇を見るような面持ちで睨みつける。

 だけど大御名は、特段表情を変えるでもなく、穏やかなまま言い放つのだった。

「本当のことだよ」

「ふざけないで。適当なこと言ってるだけでしょ」

 私の中には「裏切られた」ことへの怒りが渦巻いていた。誰より信頼していた相手からの手酷い裏切りに、目の前が真っ赤になる。

「横川さん」

「もういい」

「横川さん、本当なんだ」

「話しかけないで。もう知らない、アンタなんか。信じた私が馬鹿だったのよ」

「視えるんだ」

 何を言っているんだ、ともう一度キッと睨みつけようとした時のこと。

 え……?

 ぼんやりと、薄闇の中、大御名の目が浮かび上がって見えた。街灯の加減のせいかと思ったが、どうにも違う。まるで、眼が、光ってるような。――そういえば、さっきも……。

 大御名の不思議な目は、私の肩のあたりをじっと見つめていた。もちろん、そこには何もない。

「必死に君を引き留めようとしている。君が悪い方向に行かないように、必死に引き戻そうとしている。必死だから怒ってしまうし、強く言ってしまう。……僕たちはまだ未熟で、なのに多感で、社会を知らずに感情で動いてしまうから、どうしてもそれが理解できないけれど」

 彼は一体、何を視ているのだろう? 彼が落とす視線の先に、何があるのだろう。

 いくら彼の視線をたどっても、私には、何があるのか見えやしない。

「何を言って……何が分かるっていうの」

「人が人を想う時、それは糸の形になる。人はそれをたくさん結んで生きていく。君にもたくさんの糸が繋がっている。良いもの、良くないもの、どっちつかずのもの……それらを縁と呼ぶのだろう。それが僕に視えるものだ」

 私の眼前で大御名が、空気を一掴み、摘まみ上げた。

 もちろん私には何も見えない。彼がただ空気をつまんでいるだけに見える。

 そこにあるのだろうか、彼の言う縁というやつが。まだ、信じることはできないけど。でももしそれが本当なら、彼が今掬い上げている糸は、一体、誰のものだろう。誰から誰に向けられた糸なのだろう。

「糸はぼそぼそしていて、所々こんがらがっている。不器用な人なのかな。少なくとも、素直な人じゃないみたい。けどしっかり君に繋がっている。今も必死に、君を引き留めようとしている」

「……いつも?」

「そういつも。例えば図書室で遅くまでおしゃべりをしている時。暗くなってくると、糸がぐいぐいと君を引っ張ろうとするんだ。糸だから、言葉を発したりはしないけど。そうだなぁ、喋るとしたらこんな感じかな。『遅くまで何をしてるの、早く帰っておいで!』って感じかな」

 彼はおどけた調子で、会ったこともない他人の母親の真似をする。

「全然似てないよ」

「そっか。それは残念」

 彼が笑う。

 その拍子に、気が付いた。

 ぼんやりと光っていると思った目は、どうやら、それ自体は光っていない。――線だ。無数の金色の線が、彼の瞳に映り込んでいる。

 もしかすると、その目に映り込んでいるものが、彼の見ている景色なのだろうか。光を縒り合わせたような糸が、たくさん、張り巡らされている光景。……まるで、蜘蛛の巣のように、糸だらけの世界。

 ようやく、彼の言葉を信じる気になった。縁の糸は、本当にあるのかもしれない。本当に、義母から私に伸びる糸があるのかもしれない。

 ――彼の言葉が本当なら、なんだかまるで、ちゃんと、想われているようではないか。

「どうかした?」

 ぼんやりしていると、それに気づいた大御名が首を傾げる。

「ううん、なんでもない。大御名くんの目、綺麗だなって」

「初めて言われた」

「……やっぱりさ、大御名くんって妖精じゃない?」

 彼は笑いながら首を横に振る。

「そんなに僕、妖精みたい?」

「うん。大御名くんといると、なんだか心が和らぐの。だから、妖精なのかな、って」

「違うよ」

「そうだよね。あはは、よく考えたら変だね、妖精妖精、って。普通ならおとぎ話でしかないのに。真面目に妖精を怖がる私も、それを当たり前のように受け止める大御名くんも。私達、どっちも変すぎ。現実だっていうのは分かったけど、やっぱり、訳が分からない」

「理解できなくて良いんだよきっと。分かってしまったら、一線を踏み越えてしまう。それを越えないように生きるのが、一番利口なんだと思うな」

 では大御名はすでに、一線を超えているのだろうか? そう問いかけたくもあったが、一線を越えるなと言われたばかりだ。一線を踏み越える覚悟が出来たら、その時に聞いてみよう。――そんな時が来るかは知らないけれど。

 ただ一つ、最後に聞いておきたいことがあった。

「ねえ大御名くん、私は本当に嫌われてない?」

「どうして?」

「だって私、あの家の異物だもの。あの家で、私だけが仲間外れ」

「……怖い?」

「もちろん。もし私が見当違いの愛情を求めたりして、それで『何を言ってるんだ』って突き放されでもしたら、私は、本当に孤独になっちゃう。本当に大丈夫かな。継子でも、良いのかなぁ」

 これまで、義母と面と向かって向き合うことを避けてきた。それは、向き合うことを失敗した時のリスクが、あまりにも大きかったから。

 私の父は、情けないことにとても不甲斐ない人だ。こうして実子である私が、家を飛び出しても、何一つ言ってこないのだから。

 なので家の実権は、義母が握っていると言って過言ではない。もしその権力者に、拒絶でもされたら? 私はまだ子供だ、親の手を借りないと生きていけない。それなのに、突き放されでもしたら……一体、誰を頼って生きていけば良いのか。

 祖父母の家へ本格的に転がり込むことも考えたが、彼らもそれぞれに病気を抱えている。年金暮らしでそれでも足りなくて、貯金を切り崩しながら生活している。子供を一人抱えて生活するには、体力的にも経済的にも、余裕なんて無い。

 それならいっそ、義母と向かい合わず、このまま曖昧なままで過ごしていようと思っていた。……いつかは限界が来ると、分かっていたけれど。

「実子と養子なら、どうしても愛情の偏りがあるだろう。血の繋がりというのは、本能レベルの……そう、呪いのようなものだから」

「やっぱり」

「――だけど、本心では偏っていても、『偏らないように』と努めることは出来る。本心は変えられないものだけど。だからこそ、偏らせまいと感情をコントロールするその心意気こそが重要なんじゃないかな……って僕は思うんだ」

「……」

 私だって、義母に対して、実母にするような甘え方はできない。だけど、それは向こうも同じなんだ。義母だって、私をユキノのように愛せない。

 実の親子のように接することができないなら、他の接し方をするしかない。では、義理の親子のような接し方とは……それは一体、どういうものだろう。

「お母さんが実子をあからさまに贔屓するなら、君は戦わなければならない。けれど、まだ妹さんは手のかかる時期だ。だから、今は仕方がないんだと思う」

「……うん」

「君が継子で良いのか、と思っているのと同様に、彼女もきっと、継母で良いのか、と思っているんじゃないかな。それから……」

 ちょっと迷ってから、彼は言った。

「君たち、たぶん、けっこう性格が似てるよ。糸を結ぶのが下手なところとか」

 そう言って、大御名は自分の腕の辺りに視線を遣った。もしかして、私から彼に伸びる糸は、そこにあるのだろうか。自分の糸を見られるのは、何というか、ちょっと恥ずかしい。

 ――でも、そっか。そうだったんだ。

 赤ちゃんである妹と、中学生である私。どちらに手が掛かるかなんて、一目瞭然だ。目が離せない赤ん坊を相手していれば、中学生の子供に目を配る余裕もないだろう。

 ああ、なんだ。――ふっと、心が軽くなった。

 私があの人との距離を掴めなかったように、あの人も分からなかったんだ。私に突然お母さんができたように、あの人も、大きな子供ができたのだから。本来は母と子、一緒に年を重ねていくはずが、私たちは違うのだ。

 お互いに、慣れないことをしているから、こんなにも苦しいのだ。苦しいままに放っておいているから、苦しさがなくならないのだ。

 一度、ちゃんと向き合わないといけない。

 分かっていて、苦しくて、嫌で、先送りにしていたものだ。時間が経てばたつほど、向き合いづらくなっていくのに。ほら、すでに、もうこんなに向き合いづらくなっている。

 思い返せば、あの人の言うことは、さほど間違っていなかった。

 遅く帰るのは危ないだとか、授業に遅れないよう勉強しろだとか、部屋は綺麗に片づけろだとか。……言葉は厳しいけれど、内容は全部、当たり前のことだった。全部、私の将来を考えてのことだった。当たり前のことを、当たり前に出来るように、私を怒っていたんだ。

 言い方がきつくて印象が悪かったし、畳み掛けるように説教をしてくる悪癖のせいで、つい私も腹を立ててしまった――が、これに関しては義母に非があるので、改めてもらうよう抗議が必要だ。でも私も、自分の非は、ちゃんと認めなければならない。互いにそういうところを直していけたら、きっと、互いにもう少しだけ、生きやすくなるかもしれない。

「……できるかな、私」

「僕には分からないけど、雨降って地固まると言うよ。それに、雨の後は、草木が伸びるものだ」

 彼が、ふと私の肩のあたりの空気を摘み上げて、私に差し出した。私が手のひらを差し出すと、そこに、一つまみのそれを乗せる。

 手のひらの重みは変わらない。何かが乗っている感覚もない。もちろん、何も見えない。

 本当にそこにあるのか、私には分からない。

 けれど大御名の目に反射した、無数の糸の中に、きっとそれも混じっているのだろう。彼の目の中にその一本を探そうとしたけれど、私には、結局見つけられなかった。

 だが、彼がしっかりとそれを見ていてくれるなら、それで良い。私は彼を信じている。

 不意に、ブルブルと手の中の携帯が、無音で震えだした。

「お母さんから?」

「……うん」

「そう。じゃあ僕はもう帰るね。弟たちがお腹を空かせているだろうから」

「またね」

「うん、また明日」

 彼は大きな袋を背負って、よろよろと頼りない足取りで公園を出ていく。その後ろ姿は、まるで袋が一人でに歩いているかのようだった。……なんであんなでっかい袋、背負ってるんだろう?

 袋の妖怪が小さくなっていくのを見送って、私は、ふうっと息を吐いて、電話に出た。

「もしもし。……大丈夫、ちょっと寝てたの。分かってる、今日はちゃんと帰るよ。うん、一ヶ月ぶりだね。あはは、ケーキは切らないで待ってて。ユキノと一緒に切りたい」

 電話を切って、カバンをひっつかみ、急いで公園を後にする。

 体は、羽のように軽かった。


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