21 糸の世界

   九 


 公園を出て、ポツポツと間隔をあけて立つ街灯をたどるように、帰路につく。

 鞄を肩にかけ、楽器を両手で抱えて歩くが、少し歩く度に鞄がずり下がるので、その度に鞄と楽器を抱え直さなければならない。歩道を左へ右へよろけながら歩いていると、不意に、鞄がふわりと浮いた。


「わ、びっくりした」


 驚いて振り返ると、暗闇の中に真っ白な顔が浮かんでいる――クロだった。服が真っ黒なので、街灯の届かない暗闇に、体がすっかり溶け込んでしまっている。

 彼はいつも黒い服を着ている、しかもたいていパリッと糊のきいたスーツだ。そう毎日、スーツ、しかも黒色。違いと言えば、シングルスーツか、ダブルスーツか、スリーピーススーツかの違い。スリーピーススーツの時は、気分でベストだけの時もあるけど。あとはネクタイをしているかしていないか……それくらいの違い。いずれにせよ、彼の服が、スーツの枠から出ることはない。一度、スーツ以外の服を着せようとしたけれど、丁重に断られてしまった。ならばせめてと、灰白色のスーツを勧めてみたら、「正気か?」と心底軽蔑する目を向けられた。――センスを疑われるならともかく、白色を勧めただけで頭の正常さを疑われるなんてことあるだろうか? ないと思いたい。

 鞄をクロに渡すと、彼は空いているもう一方の手をこちらに差し出す。彼の意図を分かっていて、僕は悪戯心を沸かせて、差し出された手をぎゅっと握ってみた。ちょうど握手するような形になる。

「違う」――そう言いながらクロは嫌そうに顔を顰める。

「分かってる」

 予想した通りの反応に満足して、僕は笑いながら楽器をクロに手渡した。ようやく軽くなった体を思い切り伸ばすと、凝った肩が小気味よい音を立てる。


「……夢のままにしておけば良かったんじゃないか」

 何のことかと首を傾げると、クロはちょっと言い淀む。

「彼女のことだ。わざわざ妖精の誘拐だったことをばらさず、夢にしておいた方が穏便だったろうに」

「……盗み聞き」

「聞こえただけだ」

「そういうことにするよ。……夢のままにしておく――それが一番良かったことは分かってる、彼女にとっても僕達にとっても。彼女の日常を崩さずに済んだし、僕達の安全も守れた。だけど、それじゃあ根本となる問題が解決しなかった」


 クロはじっと僕の話を聞いている。


「今回の事件、横川さんの状況に原因があったんだと思う。疲弊した心身、誰にも相談できない孤独な環境――それらが、妖精の付け入る隙を与えたんだ。妖精は、彼女の拠り所のない寂しい気持ちに取り憑いた……それをどうにかしなければ、横川さんがまた同じような事件に巻き込まれるとも限らない。――彼女、多少霊的なものを呼びやすい体質みたいだし。孤独な弱った少女……なんて、悪い奴がいかにも好みの獲物だろ」

「女の子供は柔らかいしな」

 それは完全に「悪い奴」側の感想なのだが……。ともすれば変態じみた意見を無視し、僕は続ける。

「怖いのは妖ばかりじゃなく、悪い人間もそう。だから、とにかく彼女の状況をどうにかする必要があった。そのためには、今回の出来事を夢で終わらせる、なんてことは出来なかったんだ」

 隣から呆れたようなため息が漏れた。そういうことだろうと思った……とでも言いたげだ。

「知り合って日の浅い友人と、家族、一体どちらが大切なんだ」

「それくらいの優先順位はついてる、もちろん弟たちが一番だ」

「とてもそうとは思えない振る舞いだが」

「大丈夫。だって糸はちゃんと、今も手首にくっついたままだもの。だけどもしこの先、この糸が僕の足に絡みついて、僕たちを明確な意志でもって害おうとするなら、その時は……僕が片を付ける。せっかく苦労して掬った命だけど、仕方ない」

「……分かっているなら良い」


 糸のつく場所は、相手から向けられる想いによって異なる。

 嫌いな相手であれば、足を引っ張ろうとするかのように足首へ。殺意があれば、縊り殺そうとするかのように頸へ。親愛であれば、肩や腕をポンと叩くように上肢や肩に。

 横川さんの糸は、僕の手に結ばれていた。まるで「よろしく」と握手でもするように。あっさりしていて、ちょっと不器用。そんな彼女のスッキリしたところが、接していて気持ち良くて、僕は好ましかった。

 手首にくっついた糸を、そっと撫ぜる。出来れば、この糸を失いたくはないものだ。

 そう思いながら、目を細めたまま顔を上げる。視界は、金色の糸で埋まっていた。


 僕の世界は、糸に満ちている。

 視ないように……と意識しなければ四六時中視えてしまう。糸が視えるだけでも日常生活に支障があるのに、糸から感情も読み取ってしまう。その糸の持ち主が、相手に対してどう思っているのか、視ただけで分かってしまうのだ。――気が狂いそうになる。メリットもあるけれど、僕にとってはデメリットの方が大きい。

 この眼を持って生まれて、時おり思う――視えないことも一つの才能なのではないかと。もしかしたら大昔の人類は、皆糸が視えていたのかもしれない。だけど生きていくのに不便な機能だったから、徐々に視えなくなっていったのではないか。

 気付けば眼鏡がずり下がっていたので、フレームを指で押して元の位置へ戻す。最近フレームが歪んできたらしく、よくずり下がる。そろそろ買い替え時かもしれない。

 僕の眼鏡は、視力を矯正するばかりじゃない。糸を視るオン・オフを切り替える意味合いもあった。眼鏡がなくても制御できるが、あった方が制御しやすい。幼い頃からそういうオン・オフの訓練をしていたので、眼鏡をかけるという行為によってほとんど無意識的に眼を制御できるのだ。――ただし、自分の意思と関係なく突然裸眼になると、無意識に意識が追い付かず、突如として視界が糸だらけになってしまう。

 あの日もそうだった――バイト帰りの横川さんとぶつかって、眼鏡がずり下がった時のこと。糸だらけの視界の中、僕は、彼女から垂れる行き場のない糸に気が付いた。

 何度も結ぼうとしては、解いたのだろう、その糸の先端は、無残にもほつれていた。

 誰でもない誰かを探し、その度に落胆したのだろう。それが分かったので、くたびれたその糸を、どうにも放っておけなくなった。

 せめて、ほつれたそれを繕ってあげられたら良いな、と思った。糸の先に僕を選んで欲しいなんて大それた願いは抱いていなかったのだけれど――結果、そうなった。名誉なことだと思う。僕自身が、誰かの救いになれるなんて。

 だからこそ、彼女との糸を切るなんてことは出来ればしたくない。一度それをしてしまったら、僕達の間には二度と縁は結ばれない……それだけじゃなく、これまで僕達の間にあった出来事も、全て忘れられてしまう。

「……お前も案外大変だな」

 他人事のようにクロが言う。案外、は余計だ。

「全く、その通りで」

 長めの瞬きを一つ。するとあちらこちらに張り巡らされていた糸は、きれいさっぱり視えなくなった。

 ようやくクリアになった視界を、クロの隣で歩く。

 時折話を交わしながら、静かな帰路を辿っていった。


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