19 日常へ

   八


 ゆらゆらと、微睡みの泥の中を揺蕩っている。

 こんなにも心地よく眠れたのは、いつ振りだろう。

 実は前から――変な夢を見るようになるずっと前から、私はあんまり眠れていなかった。

 眠りは浅いし、嫌な夢を見ることはざらだった。原因は分かってる。寝る前はいつも、家族のことで、イライラして、思い悩みながら眠りについていたからだ。家族のことだけじゃない、私は、私を取り巻くすべてに腹を立てていた。

 もっと眠っていたい……。

 深みへ落ちていこうとする私だったが、不意に、トントンと肩を揺すられる感覚に、意識が浮上した。

「横川さん」

 優しい声が私を呼んだ。

 応えるように、私の意識は、覚醒の水面へとぐいぐい引き上げられていく。

 ぱち

 重い瞼を持ち上げると、そこには心配そうにこちらを覗き込む少年の姿があった。

 見覚えのある顔が、街灯をうけて、薄ぼんやりと照らされている。

「……大御名くん?」

「おはよう」

 困惑しながらも、反射的におはようと返す。周囲は明らかに薄暗いので、絶対にその挨拶が適切な時間帯ではないだろうな、と思いながら。

「気持ちよさそうに寝ていたから、目が覚めるまで待っていようと思ったんだけど。流石にそろそろ帰らないとまずいかな、と思って起こしちゃった」

 帰る?

 私は自分を取り巻く状況を整理しようと、あたりを見渡す。薄暗いが、すぐ側に設置された街灯のお陰で、なんとか周囲を目視できた。

 どうやら私が横になっているのは、ベンチのようだ。ペンキが剥げた、粗末なベンチ。

 頭の下には、黒い布が枕代わりに敷いてある。どうやら彼の学ランらしい。上着の持ち主は、私の頭上、ベンチの端っこで、体を縮こまらせてちょこんと座っていた。

 たった一つ置かれたベンチ。少し離れた場所に、蟻地獄のような砂場が一つ。それらをぐるりと大きく取り囲む、乱雑な低い生垣、生垣から生えたように佇む寂れた看板には――「ノバラ公園」。

 ――ここは、あの公園だ!

 自分がいるどこにいるかようやく理解したその瞬間、一気に血の気が引いていくのが分かった。バクバクと、心拍数が上昇していく。

「わ、私、どうして、教室にいたはずなのに……! いや、違う私……そうだ、公園……!」

 バネが弾けるように、ベンチから勢いよく立ち上がる。途端立ち眩みを起こし、立っていられなくなって、地面に座り込んだ。

「大丈夫?」

「大御名くん、ここに居ちゃ駄目!」

「わっ」

 のんきにベンチから手を差し伸べる大御名を、早くここから連れ出さなければと、大御名の手を強く引っ張る。

 突然手を引かれた彼は、姿勢を崩し、地面に膝をついた。その拍子に、厚いレンズの入った眼鏡がずるりとずれた。

「横川さん落ち着いて」

「大御名くん、早く逃げよう……!」

「横川さん」

 大御名は、自分の手をがっちり掴む私の腕を、反対の手で強く握った。それに少し驚いて、私は彼の顔を見上げると、こちらを真っ直ぐ見る彼の目とかち合った。

 ずれた眼鏡の隙間から、裸の眼球がこちらを覗いている。暗い視界の中、その目だけが、やけにはっきり見えた。

 ――なんだか不思議……。

 少し色素が薄いだけの、何の変哲もない茶色い眼。なのに、それが不思議でたまらない。それは本当に人間の目だろうか。形がたまたま同じなだけで、違うものの目ではないだろうか。

 普通なのに変な。ありふれているのに稀な。……そんな違和感があるのに、見ていると心が落ち着く、不思議な眼。

「覚えてる? これまでのこと」

「えっと……」

 混乱する頭で、直前の記憶を掘り起こそうとする。数日分の記憶が乱雑に出て来たが、どうにか今日の日付に座標を絞って、靄のかかった記憶を遡った。

 ……私、大御名が飲み物を買ってきてくれるのを待っていた。教室で……。

 そこから、どうしたんだっけ? そこからの記憶が曖昧だ。

 どうして私は教室を……学校を出たんだろう。どうしてこの場所に……。

 大御名がここまで運んだ? いや、そんなわけがない。小柄な彼が私を――自分よりも身長の高い同級生を担いで、ここまでやって来るなどという芸当ができるはずもない。まして、彼がここに私を連れて来る理由がない。

 霞がかった……記憶と呼ぶには頼りない幻の断片が、頭の中に浮遊している。それらを繋ぎ合わせ、どうにか、私はパズルを組み立てていった。

 ――そうだ……私は自分で、自分の足で、あの教室を出たんだった。

 大御名が教室から出た後、教室で独り、夕陽を見ていた。ぼんやりと眺めていると、不意に、ある衝動が胸の奥から突き上がってきたのだ。

 ――そう、私は、「死」を考えてしまったのだ。

 吸い込まれそうなほど綺麗な、あんず色の夕陽を見ていたら、心がまっさらになった。そのまっさらな中に、ポツリと、死が浮かんだのだ。それは、とても美しいものに思われた。

 死んでも良い、と思った。

 そう、まさしく、魔が差したのだ。

 希死念慮をした次の瞬間、抗いがたい睡魔が襲い来て、私を眠りに引き摺り込んだ。……それからは、まるで、すべて他人事のようだった。

 上靴のまま外へ出る自分の姿を、私は、私から少し離れた場所で、ぼうっと認識していた。呼び止めるクラスメイトの声も、雑踏にしか聞こえなかった。あんなに忌避していた公園に踏み入れてもなお、まるで画面の外からドラマを見ているように、危機感の一つも覚えなかった。

 幽体離脱でもしたかのように、私は、全てを俯瞰し、全て分かっていながら、その全てを超然と眺めていたのだ。

 あの時全てを投げ出した私は、全てから弾き飛ばされていた。

「私、木の穴に落っこちて……それで、気付いたあの場所にいたの……。あの人に会った瞬間、大仕事を成し遂げたような安堵感があって、そうして、プッツリと、たぶん完全に眠っちゃったんだと思う。その後のことは本当に分からない。ああ、でも……」

 微かな記憶を思い起こそうと瞼を伏せ、瞼の裏にじっと目を凝らした。

「誰かの大きな背中を覚えてる。誰かが歌ってた。子守歌みたいな……どこかで聞いた覚えのある歌だった」

「子守歌、か」

 大御名は悲しそうな笑みを浮かべた。

 それは私に向けられたものではなかった。ここに居ない誰かへの――寂しげな様子からして、嬉しい記憶ではなさそうだ。

「……大御名くん、私、おかしくなっちゃったのかな」

「何で?」

「だってこんなのおかしい。毎晩夢で変な場所に連れていかれて、変な男に追いかけられて、しかもそれが妖精だって? そんなの、頭がおかしいとしか思えない。もう何が何だか……」

「……」

「私、頭がおかしくなっちゃったんだ……」

 しかし大御名は、首を横に振って見せた。

「……残念ながら、横川さんはどこもおかしくなってない。全て事実だよ。君は妖精に魅入られ、精気を奪われ、衰弱死する寸前だった」

「……え?」

 あんまり事もなげに言うものだから、聞き過ごしてしまうところだった。

 それは一体どういうこと? 大御名は、何を知っているんだろう。

「普通そこは、幸いって言うところじゃないの?」

「そうかな。もし全てが横川さん妄想だったら、君に医療保護入院してもらえば、君の身の安全は確保できたけど……。実際はそうじゃなかった。つまり君は、現実、命の危険に晒されていたということになる。なら『幸い』とは言えないのでは……と思ったのだけど」

 事実……? 私は本当に、妖精なんていううメルヘンな存在に、命を脅かされていたというの?

 信じがたい。けど、信じるしかない。私が経験したものは、それほどまでに恐ろしいものだった。

 でもどうして、大御名がそんなことを言うのだろう? まるで、事の顛末の全てを知っているかのような口ぶりだ。

「だけどもう大丈夫だよ。妖精はいなくなってしまった。妖精が棲んでいた木も、あの通り腐り折れてしまった」

 大御名の言葉で振り向くと、隣家にあった林檎の木は、根本から腐り、無残に折れてしまっていた。

「……ねえ、もしかして大御名くんが助けてくれたの?」

「どうして?」

「あの歌……大御名くんの声だった気がするの」

「それは夢だよ、きっと」

 彼はそう言うが、私はもう確信している。彼の言う通り、怯えるものはもう無いのだと。そして、彼が私を救い出してくれたんだと。

「ねえ大御名くん。貴方は、一体何者なの?」

 彼は表情を濁すだけで、何も答えない。

「貴方も妖精?」

 私の言葉に、彼は顔をあどけなくさせたかと思うと、肩を揺すって笑った。

「僕は違うよ」

 ひとしきり笑うと、大御名はすっくと立ちあがり、ベンチに置いたままだった鞄を――きっと学校から持って来てくれたんだろうそれを、私に手渡した。

「さあ帰ろう。さっきから、ずっと着信が鳴っていたよ。とりあえず折り返したらどうかな?」

 はぐらかされたような感じがした。でも彼が「確認してみたら」と念を押してくるので、仕方なしにスマートフォンを取り出す。画面の灯りをつけると、着信履歴に、見たくもない名前がずらりと並んでいた。

「……しつこいなあ」

「お母さんから?」

「そうだよ。ああ、一気に気分が下がった」

 着信履歴だけでなく、メールも数件届いていた。どれも、何故か写真付きだ。

「メールもあるみたいだよ、しかも写真付きみたい。見てみたら?」

「嫌」

「気になるじゃないか、こんなに写真を送って来るなんて。もしかしたら、家族に何かあったのかもしれないよ」

 それこそ願ったりだ。母親か妹に何かあったというなら、むしろ、神様に拍手を送りたい。

「あの人たちがどうなろうと関係ない。別に、家族なんかじゃないし。……まあ、大御名くんが見たいなら、勝手に見れば」

 他人にスマートフォンを預けるのは嫌なので、メールを開いた状態で、大御名に画面だけ見せる。私は文面も写真も見たくなかったので、メールをタップしたらすぐに画面を大御名の方へ突き出した。

「……可愛いね」

 画面を見た大御名が、にこにこした表情で、私に言った。まさか私に言ったのか、とドキッとしたが、彼の視線がすぐにスマートフォンの画面に戻されたので、どうやら添付された写真に対しての感想だったらしい。――そりゃあそうだよね。

 大御名があんまり表情を緩めるので、私もちょっと気になって、画面を覗いてみる。

 画面には、赤ん坊がじっとケーキを見つめる写真が表示されていた。

 ほんの数分前に送られてきたそれのタイトルは――「ユキノが我慢の限界です」。本文には「早く帰ってこないとユキノが下手くそにケーキを切り分けてしまいます」という脅し文句が。赤ん坊の写真と一緒に、手作りのケーキが写った写真も添付されていた。ケーキにはチョコペンで、父の名前と年齢が書かれている。

 ――ああ、そういえば、今日はお父さんの誕生日だ……。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る