17 死者の国
「子供じみた話はやめよう。ギァンカナッハ、大人の話だ。まず根本的なところを聞くが、お前は果たして交渉できる立場にあるのか?」
悪者じみた脅し文句は、まるで映画に出て来るマフィアや悪徳捜査官のようだ。
「何の話か分かっていないようだな。この場所の話だよ」
一体クロは、何の話をしようとしているのだろう。僕は黙って、彼の次の言葉を待った。
「お前は居場所のないこの国に、どうにか自分の居場所を作ろうとした。それがこの場所だ。そしてあろうことか、自らを妖精王と詐称した」
ギァンカナッハが口の端をきしりと噛む。
「そもそも、ここは『元々』何だったのか? この国に妖精の国などない。この国には、高天原と葦原中つ国、根之堅州国、あとは妖の世界――穂端国があるのだったか? この国は完全に出来上がっている。二六〇〇年という年月の杭によって固定された世界だ。そんな土壌が、この国で圧倒的マイノリティである妖精に、わざわざその領域を分け与えるなんてするはずがない。この風土にとって無駄でしかないからだ」
それは僕も疑問に思っていたことだ。どうして妖精の国が、日本にあるのか。僕には分からなかったけれど、クロには答えが分かっているようだった。
クロの口ぶりから、どうやらこの世界は、ギァンカナッハが作り上げたのではなく、何かを元にして改築した世界らしい。ならそれは、一体、何だろう。
妖精の誘拐を日本風に言うなら、神隠しだ。この事件をそう言いかえるなら、ここは迷い家や隠世といった類になる。
「じゃあ、ここは穂端国?」
「違う。妖世界にしては、あまりに俺の肌に合いすぎる」
「え、だってクロは……」
ぶるりと肌が震える。突然、あたりの気度が下がった気がした。肌寒さに身震いし、鳥肌のたった腕を擦る。
「黄昏時、林檎の接ぎ木、その下で眠る女を誘う妖精の王。オルフェオ王を知っていれば、誰もがそのオマージュだと分かるだろう。だが、あまりに似すぎている。何故オルフェオ王をなぞった? お前がオルフェオ王の物語のファンであればその限りだが、そうではないのだろう。なら答えはおのずと導き出される。それは、オルフェオ王という物語の基盤が必要だったからだ」
僕は、ここに来るまでの出来事を思い出していた。
僕は木の洞に吸い込まれ、その中を落っこちて、この世界に辿り着いた。木の洞に吸い込まれる感覚を確かに覚えている。どこまでも底のない穴を落ちていく感覚を、しっかりと覚えている。
木の洞を落ちていったら、一体、どこに辿り着くだろう。
そこは木の根、土の下……木の、根っこの世界。――「ある可能性」を思い浮かべそうになった瞬間、押し寄せるように、根源的な恐怖が、腹の底から湧いてきた。
「オルフェオ王のたどり着いた先は、本当に妖精の世界だったのかな。本当は、死者の世界だったのではないのかな」
オルフェオ王は、オルフェウスをモデルにしている。
そう、それは僕が彼女に教えたことではないか。知っていたはずなのに、どうして、ここまで考えが巡らなかったのだろう。ここは――
「根の国……」
クロが小さく頷いた。
「妖精の国と冥界には繋がりがある。元々、妖精の正体は死者の魂だなんていう話もあるからな。……オルフェオ王の物語を基盤とした妖精の世界を作るには、冥界が必要だった。幸いこの国には、土着の冥界がある。妖精と死者、その繋がりを使って、お前はこの冥界の一角に、小さな世界を造り上げた。それが、この場所の正体だ」
ギァンカナッハは否定も肯定もしない。ただ、居心地悪そうに歯噛みしている。
「だが、その土地にはその土地のルールがある。生者に対してはその限りではないが、全うな生から外れた者にとって、そのルールは絶対だ。お前のしたことはもちろんルール違反。もしこの国の冥界を取り仕切る女王に知られてしまえば、ただでは済まないだろう。だからお前は、怪異を喰らってでも、力を保ち続けなければならなかった、全てはこの場所を隠すために」
クロは周囲を見渡す。ぶら下がる血と肉の装飾、死に満ちた空間を。――死を満たさざるを得なかった、必死の痕跡を。
死に囲まれながら、ギァンカナッハは何を考えていたのだろう。冥界の主におびえながら、日々を過ごしていたのだろうか。偏執的に飾られた空間に、僕は、彼の抱いた恐怖の一端を垣間見た気がした。
「冥界の主を欺くには、仕方なかったのだろう。だからと言って、これは、やりすぎだ。もうお前は妖精ではなくなっている。それではただの――」
悪魔だ。
クロがそう言うとほぼ同時に、ブチリ、と何かが破れる音がした。
音の出どころは、目の前の妖精。
ギァンカナッハの顔が、突然、崩れた。
「え?」
瞬きの間に、ギァンカナッハの姿が変わった、まるで魔法のように。
美しかった金髪は、泥のような黒へ。
黒目がちだった瞳は、眼球が朽ち果て空洞に。
白かった肌は、黒ずんでひび割れ、割れた皮膚の隙間では、蛇と蛆が蠢いている。
これまでの姿は、魔法で隠されたものだったのだ。クロの言葉によって暴かれたその姿こそが、彼の本当の姿。まるで冥界の住人を連想させるような、恐ろしい姿。
正体を暴かれたギァンカナッハは、恐ろしい雄叫びを上げる。怒りとも、悲哀ともつかない叫びを。
「どうして、こんな……」
宙づりになっていてよかった。姿が上下反対に見えるので、ある程度冷静さを保ってギァンカナッハを捉えることができた。もし宙づりでなかったら、悲鳴の一つは上げていただろう。
「クロ……」
不安げに窺うと、彼は淡々と目の前の異形を見据えていた。
「一つだけ言えるのは、正体を暴かれた妖精は怒り狂うということだけだ」
どうして、こうなってしまったのだろう。
ギァンカナッハ。明治の頃。鎖国を解き、貿易が盛んになった頃にやってきた彼は、どんな心持ちでこの国の土を踏んだのか。新天地を開拓するような晴れやかな気持ちか、それとも、冒険心か。けれど彼は、この国に居場所を見つけられなかった。……こんなことになるくらいなら、故郷に帰れば良かったのだ。こんな姿になり果てる前に。何故、それをしなかったんだろう。
もしかして、戻りたくても戻れなかったのか。帰り方が分からなかったのか、帰れない理由があったのか……。
彼を知らない僕には、それは分からない。もっと言葉を交わすことができれば、それを分かってやれたのだろうか。
朽ち果てた妖精の、顔に奔ったひび割れが、涙の筋のように見えた。
彼のことは分からないけれど、もしかしたら、故郷に彼を帰してやることが、救済に繋がるかもしれない。ここにいるより……こんな死臭に満ちた場所にいるより、ずっと良いはずだ。
「ギァンカナッハ」
呼びかけると、彼はこちらを見た。大丈夫だ、姿は変わろうとも、先ほどまで言葉を交わしていた相手だ。ただちょっと、見た目が怖くなってしまっただけだ。
「イギリスに帰ろう」
僕の言葉に、クロが目を丸くさせる。彼の肩越しに見えたギァンカナッハが、明らかに動揺して見せた。
腐り落ちた眼窩の奥から、視線を感じる。その視線は僕を疑っているようだった。だけど猜疑心の中に、仄かな期待がある。まるで縋るように。
「……帰りたい」
ぽつり、と妖精が言う。
喉から転がり落ちた素朴な言葉は、きっと彼の本心なんだろう。表情の失せた顔が、より痛々しく感じられた。
「帰ろう。その姿もきっとどうにかなるよ――確証はないけど。生きていれば何とかなる。そうだ、君の故郷はイギリスのどこ――」
そう語りかけた瞬間、妖精は、その形相を恐ろしい憤怒に歪めた。
「帰りたい! 帰れない! 帰りたい! 帰れない!」
自分の髪の毛を掴み、グシャグシャと、狂ったように搔き乱す。溶けた頭皮から、髪がずるりと抜け落ちるのすら、厭う様子はない。足元に、ぼとぼとと、頭皮のくっついた毛髪が落ちる。
頭を振り乱しながら、妖精は、ダンダンと、子供が駄々をこねるように足踏みをしている。時おり聞き取れる「帰れない」「帰りたい」の他に、何か意味の分からない言葉を喚き散らしていた。
さっきまで話していた彼は、どこに行ったのか。窪んだ眼窩に正気を探すも、そこには狂い果てた本能しか見当たらなかった。
たった今発狂したのか、それとも、既に狂っていたのか。視界の端に見える、残酷な装飾の数々からして、後者のような気がしてならない。そうなると、先ほど僕と言葉を交わしている時には、とうに発狂していたことになる。ならば彼は、一体どれほどの間、狂い続けていたのだろう?
か細い均衡を保っていた、正気の殻の最後のひとかけ。それは、狂気の正体を暴かれたために、完全に砕け散ってしまった。最後のそれを打ち砕いたのは、紛れもなく、僕たちだ。
正体を暴かれた妖精は怒り狂う。……僕らは、彼の希望の正体――帰郷の願いを暴いてしまった。それが、最後の引き金。
「累、あいつはもうとっくに帰れないよ。帰るには、自分を失いすぎた。たとえ故郷の土を踏んだとしても、あいつはもう懐かしいとすら思えない」
「……でも、どうにか元に戻せないだろうか。彼は、帰りたがっている。あんな姿に変わり果てても『帰りたい』と。きっと、ここまでなりふり構わず生き長らえてきたのは、帰るためなんだよ」
「帰る場所も分からない奴が、どこに帰れるんだ。本当の故郷に戻っても、もう分からないんだぞ。永遠に、どこにあるかも知れない故郷を――絶対に見つからないそれを、探させるのか」
「もしかしたら……」
「なんだ。悔いているのか」
沈黙を返すよりない。
押し黙る僕を見て、クロは大きなおおきなため息をついたのだった。
「いずれはこうなる運命だった。他の道もあったのに、あいつは、この結末を孕んだ道をわざわざ選んだ。自分でも分かり切っていただろうに、こうなることを。あいつは、あいつ自身で、時間をかけて自分を殺した。俺達はただ、すでに破滅したことに気づいていない男へ、引導を渡してやっただけだ」
「本当に、戻せない?」
「ギァンカナッハという妖精はもうとっくに死んでいる。死んだ者は、生き返らないだろ?」
「クロは……彼を救える?」
恐々とした僕の問いかけに、真っ黒な男は、不敵な笑みを浮かべた。
「ああ。今ならオプションも付けてやる」
「オプション?」
「お前のガールフレンドも無事に救ってやる」
「ガールフレンドじゃないよ。横川さんに失礼だ」
「そうなのか? ようやくガールフレンドが出来たと喜んだのに。ぬか喜びだったか」
クロは喉を鳴らして意地悪く笑い、パチリと目を瞬かせた。直後、赤褐色の目が、ぼんやりと、怪しく光る。
「さあ命じろ、累、アイツに本当の引導を渡せと。決断するのはお前だし、命令するのもお前だ。お前の命令によって、俺は優秀な猟犬として、あの妖精を救ってやろう」
「あくまで僕が主犯ってこと」
「当たり前だ。刃物で誰かを殺したとして、果たして刃物に罪はあるか? ないだろ」
紅い目がにたりと歪む。なんて邪悪な笑い方だろう。その目の奥は、爛々と、獰猛にぎらついていた。狩りの合図を早く出せ、と。
「クロ、二人を助けて」
猟犬の首輪を解いてやる。すると犬は嬉しそうに、にこっと口角を上げた。
「ああ、累の言う通りに」
直後、風もないのに、すべての灯りが掻き消えた。
完全な暗闇に包まれた広間に、地鳴りのような風音だけが、どこか遠くで不気味に響いている。
僕の眼前の暗闇で、紅い光が二つだけぼうっと浮かんでいた。
「累」
「何」
「耳を塞げ。それから、なにか歌を」
「リクエストは」
「特に思いつかないな。お前に任せるよ」
コツコツ、と靴音が遠ざかっていく――かと思えば、それはカチカチと、固い爪が床を掻く音に変わった。
「――ブラックドッグ?」
ギァンカナッハの、ひび割れた声が、ポツリとそう呟いたのが聞こえた。
直後、グルグルと、と恐ろしい獣の唸り声が、腹を揺する低い声で発せられる。
ああ、始まるんだ。
僕はクロの言っていた通り、両手で強く耳を塞いだ。ついでにぎゅっと目も瞑る。
咄嗟に思い浮かんだ歌は、先ほど筝で弾こうとしていた曲だった。緊張と焦りのせいか、それ以外の歌が思いつかない。
思い浮かぶままに、歌を口ずさむ。
「……埴生の宿も、わが宿」
塞いだ指の隙間から、雄叫びのような絶叫が聞こえてきた。
悲鳴の背後で、硬いものが折れるような、柔らかいものが噛み潰されるような、そんな音が聞こえてくる。
瞼の向こうでどのような光景が繰り広げられているか、一瞬でも想像してしまった僕が馬鹿だった。
恐怖で目尻に涙を浮かべながら、きつくきつく耳を押さえつける。
「玉のよそひ、うらやまじ」
声を張り上げ、悍ましい音が耳に入らないよう、歌い続ける。それでも、生き物の壊れる音が、手をすり抜けてきた。
微かに聞こえてくる、絶叫の合間の「やめてくれ」「助けてくれ」という悲痛な嘆願が。悲惨な悲鳴の背後で、声の主が食い破られる音が。それらが、吐き気を伴って耳を侵してくる。
早く、はやく終わらせてくれ。はやく終わってくれ。
そう願いながら、呼吸も荒く、音の外れた歌を続ける。
真っ暗闇の中、響く断末魔。
僕はそれを、知っている。
今なお思い出せる、よく知る人たちのそれ。
むしろ、普段から思い出さないよう押さえつけていなければ、容易に意識の表層へ蘇ってくる、悍ましく恐ろしい記憶。
手をすり抜けて薄く聞こえてくるグロテスクな音たち。それによって無理やり引き上げられたトラウマによって、口の端から、噛み殺した息が漏れる。
「ああ我が宿よ、たのしともや、たのもし、や……」
耳を塞いでいた両手に、不意に、冷たいものが触れる。
いつの間にか、怖い音は、すでに遠くなっていた。
そっと目を開けると、僕の眼前に、紅い光が二つ浮かんでいる。ほっと表情を緩めて、僕はようやく耳の縛めを解く。
すると、聞き知った声が、低いメロディを口ずさんだ。
「I gaze on the moon as I tread the drear wild……確か、作曲者はイングランド出身だったな」
クロは僕を担ぎ上げる、ようやく足の縄を解いた。
「帰るぞ。ここは生きている奴がいるべき場所じゃない」
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