18 黄泉がえり

「……横川さんは?」

「無事だ。回収してくるよ。ほら、これ。学校から借りてきたんだろ」

 そう言って、大きな袋を手渡してくる。ズシリと掛かってくる重みには覚えがある。どうやら、学校から拝借した筝のようだ。

「楽器は無事だが、カバーに汚れがついてしまった。帰ったら、しっかり洗えよ」

「うん」

「じゃあ、横川さんを回収してくる」

「あ、クロ……」

 クロは何だと言いたげにじっと僕を見下ろす。

「あの二人も、連れて帰りたいんだ……」

「二人って……ああ、あの娘たちか。だが全部は無理だ」

「骨の一片で良い。弔うためのものが必要なんだ」

 何も言わず、クロが離れていく。戻って来た彼は、背に横川さんを乗せていた。彼の背から、スウスウと微かな寝息が聞こえてくる。

「よく寝てるね」

「丸二日寝てなかったらそりゃあ眠いだろう」

 言いながら、クロは横川さんを落とさないように気を付けながら、ハンカチの包みを僕に差し出した。

「お前が責任をもって運べよ」

「うん。一緒に帰ろう、皆で」

「……行くぞ」

 クロが歩き始め、僕も、それに続く。

「それにしても真っ暗だね。足元、岩にとられそう。携帯の灯りでも点けようか」

「やめた方が良い。もうギァンカナッハの魔法は完全に解けた。ここはもう、本来あるべき姿に戻っている。灯りをつければ住人に気づかれる。黄泉の坂を、全力疾走したくはないだろう?」

「竹の櫛も、葡萄の紐もないし、それは困るね。でもクロが何とかしてくれるでしょ」

「女性には手を上げない主義でね」

 暗闇の中、クロの腕に掴まり、転ばないよう慎重に着いていく。もし自分が転べば、背負った楽器も無事では済まない。なので、絶対に転んではならないのだ。

 僕たちは建物の中にいたはずだが、足元の感覚からして、ごつごつとした岩肌のようだ。石の床どころか、草原の気配すらない。夏のような爽やかな風もどこにもなく、どんよりと淀んだ空気が胸を詰まらせる。

「草原も教会も、全部魔法だったんだ……」

「これが本来の姿だ」

「クロ、よく見えるね。真っ暗で何も見えないや」

「死者の世界だからな、生者には何も見えないさ。……累、何が聞こえても振り返るなよ」

「分かった」

 出口を目指して、歩きづらい岩だらけの長い坂を、クロの誘導に従って歩き続ける。死者の国にいるのだという気持ちからか、自然と互いの口数は少なかった。カチャカチャと、石を踏みしめる音と、自分の疲れた息遣いが聞こえる。

 坂を上り始めてしばらくした時のこと。

 おおーい

 最初、それは遠くで風が鳴っているのだと思った。

 おおーい、おおーい

 何度目かのそれを聞いた時、ようやく理解した。それは風の音ではない。遠くの背後から、誰かが僕達を呼んでいる声だった。

「累」

「分かってる、振り返らないよ」

 どうやらクロにも聞こえているらしい。良かった、自分だけに聞こえているわけではなかったようだ。少し心が軽くなる。

 おおーい、おおーい

 注意深く聞いてみれば、それは、聞いたことのある声のように思われた。

 そうだ、筝を弾いていると横合いから飛んできた、あの厳しい声と似ている。

 おおい、と僕を呼ぶ声は、不気味なほどに平坦だ。孫との再会を喜んでいるようではない、かと言って、怒っているようでもない。ただただ、録音した音声を何度も繰り返しているような、不自然な感じ。

「この声、おばあ様かな」

 習い事の時は厳しかったけど、それ以外では優しい人だった。

 小さい頃。夏に親戚と川遊びをしていると、よくジュースやお菓子を持って来てくれた。日傘を片手に、優しそうな声で――「おおい、おおい、お菓子を持ってきましたよ。そろそろ上がっておいで」。

 ――僕を呼んでくれる。怒ってないのかな。僕は、貴方を殺したのに。

 そう思った途端に、呼び声に怒気が含まれているような錯覚を覚えた。掛け声は相変わらず平坦で、まるで変っていないのに。

「俺には……男の声に聞こえるが」

「そう……聞く人によって違うのかな、変なの」

 背後から聞こえてくる声を振り払うように、ふるりと頭を振る。それでも陰鬱とした気分は晴れなかった。

 おおーい、おおーい

 黙って歩いていると、どうしても、背後の声が気になってしまう。

 冥界下りに定番の、振り返ってはいけないというルール。そんなの簡単だ、と思っていたが、こうして真っ暗な道を無言で歩いていると、それがどうにも簡単ではない。「振り返って確認したい」という欲望と不安に絶えず襲われるのだ。

 変な気を起こしそうで、気を紛らわせようと、隣の友人に小声で声をかけた。

「追いつかれたりしない?」

「追いつかれたって、どうってことはないさ」

「どうして?」

「生きている人間は、生きているというそれだけで死者より強い。――死者に心を砕かない限りはな」

「そうなの?」

「死んだ者が生者に干渉するなんてできっこないだろ。つまり、もし危害を加えておきたい相手がいるのだったら、生きてる間にやっておけという話だ」

「遠回しに生きろって言ってるみたいだ」

 揶揄うつもりで言った。クロなら小気味よい罵倒で返してくるんだと。だけど僕の予想に反して、不自然な間が空いた。もしかして図星だったのか、それとも、返す皮肉もないほど呆れたのか。急に心配になって、クロ、と呼び掛けようとした時、

「どうして、俺が着くまで待たなかった」

 クロに先手をとられ、僕は、とっさの反応に遅れる。

「その話はさっきもうしたでしょ」

「終わってはいないだろ。本当に分かっているのか、あの時俺の到着が少しでも遅ければ、お前は死んでいた」

 低い声音で、彼は怒っていた。

「見つかるつもりはなくて……」

「そのつもりはなくても、見つかる可能性を考えないほど馬鹿ではないだろ」

「……横川さんが、危ないと思ったんだ。僕に夢の話をしていた時、彼女は取り憑かれているようだったから。自分の体験を人に語る――口に出すのは、怪異との繋がりを強める言霊的な意味合いがある。自分の体験を語った次の日には死体で発見される、っていうのは怪談のセオリーでしょ。もう時間がないと思ったんだ」

「そのためなら見つかる危険も厭わないって? お前ひとりで何とかできると? 微塵にもそう思ったのか」

「……クロが来ることは分かってたから、だからそれまで、時間を稼げれば……何とかなると思って……」

「俺が間に合わない可能性の方が高かった」

「それでも、横川さんは助かっていた可能性は高い」

 クロは何か言いかけたが、代わりに本日特大のため息をついた。こもった熱を息と一緒に吐き出すように。

「俺が言いたいのは、自己犠牲への陶酔もいい加減にしろということだ。見ていて恥ずかしい」

「じゃあ、誰が僕に罰をくれるの。僕以外に、僕に罰を与えてくれる人なんて、いないのに。代わりにクロが罰をくれるとでも言うの?」

 数拍の空白の後、コツン、とクロが僕の頭を突く。痛くないが、条件反射で思わず「いて」と声を上げた。

「一気に清算しようとするから痛い目を見る。地道に清算しろ。お前が死んだら、績(いさ)や弟分たちが悲しむ」

「クロは入ってないの」

「悲しむ理由がない」

「赤ん坊の時は可愛がってくれてたみたいじゃないか。ネタの写真は上がってる」

「あれは績が無理やり抱かせただけだ。お前が可愛かったのなんて赤ん坊の時だけだし、言葉を覚えてからのお前は古い魔女より厄介だった」

 大真面目に言うものだから、思わず笑ってしまった。そんな僕を、クロのぼんやり光る眼がじとっと睨みつけている。

 僕はコホンと咳払いをして笑いを引っ込めた。あまり調子に乗ると、後で陰湿な仕返しをされるのだ。具体的に言うと、掛け布団やクッションのカバーを裏返しにされたり、シャツを裏返しにしたままアイロンがけされたり。僕はどちらも経験済みなのだ。

 再び無言の時間がやってきて、長いながい坂を上がっていく。今度は、呼び声に後ろ髪を引かれることはなかった。

 延々と歩き続ける。一体、どれだけ歩けば良いのか。このまま永遠に歩き続けるのではないか。

 脚がくたくたになって、膝が笑い始めた頃のこと。坂の向こうに、きらりと砂粒のような光が見えてきた。

 「出口だ」と思った、その時――

「あ……」

 突然、視界が白く爆ぜ、気付けば僕たちは、あの公園に立っていた。

 まるで、夢でも見ていた心地だ。だが、辛さを訴える膝が、あの長い坂上りの事実であったことを教えてくれる。ふと背後の木を振り返ると、フェンスの向こうで、木は根本から腐り折れていた。

 公園は夕焼け色に染まっている。西に傾いた黄昏が、やけに眩しい。

 ――かなり時間が経ったと思っていたんだけど。

 スマートフォンで時間を確認すると、この公園に来てから、まだ十分も経っていないことになっている。

 こちらとあちらでは、時間の流れが違うらしい。

 むしろ感謝するべきかもしれない。その逆――浦島太郎のように、こちらに戻ってきたら数十年経っていた、なんてことになっていたら洒落にならないのだから。

「なんだか、疲れた……」

 頬にあたる風に安堵する。すると、それまで痛くなかったはずの手首や、たんこぶのできた頭が、実は痛かったんですと言わんばかりに痛みを訴え始めた。調子の良いことだ。

 痛む頭をさすりながら、クロに背負われた横川さんを見上げる。彼女は、気持ちよさそうな顔で熟睡していた。口の端から唾が伝って、クロの服を汚しているけど……。それには触れないでおく。彼女のためにも、クロのためにも。

 無事で良かった。

 稜線の向こうに、夕陽が沈もうとしている。目が痛いほどの光に、懐かしさすら感じる。

 ああ、生きている。

 ただ生きているという実感が、僅かな寂寞と安堵とを織り交ぜて、そこにあった。



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