16 身代わり

「ギァンカナッハ、僕たちはクラスメイトを取り返しに来ただけです。彼女を返して欲しい。大切な友人なんだ」

「私にとっても、レイは大切なヒトだ」

「……彼女はとても苦しんでいた、それは貴方もよく知っているはず。一度は貴方を慕い、貴方に救いを見出していたんだ。そんな女の子を、苦しめるというの? これ以上は酷だ。どうか、彼女を解放してあげて欲しい」

「レイが私をどう想っていたかなんてどうでも良い。元より私にとって、レイはただの食糧でしかない。君は食用の家畜に情けを掛けるのか? しないだろ。……その顔、まさかするというのか?」

 僕が頷くと、ギァンカナッハは心底落胆して見せた。

「少年……それは錯覚だ。同情などではなく、傲慢だ。傲慢から来る臆病風だ。自らが殺める命に対する共感からの怯えだ。現代の者たちは生活に余裕がありすぎる、だから余分な共感をしてしまうんだ。古い時代から生きている私達からすれば、そんなものはただの甘えだ」

 そうだろうか? それは、思考の停止じゃあないだろうか。

「自分の考えを一般化するのはどうかと思うな。ちなみにクロはどう?」

「……俺には分からない」

「それもそうだね」

 僕は悲しかった。ギァンカナッハが、横川さんを家畜としか捉えていなかったことが。彼女は、彼を慕っていたというのに。

 ギァンカナッハは彼女を食用だと言った。そして、食用のための動物に同情することは傲慢だと。否定はしない。そもそも生き物を食用として飼うこと自体が傲慢だ。豚や鶏にそう罵倒されたら、僕たちは返す言葉がない。

 だがその傲慢は間違いだろうか。だって、同情するのは命の重みが分かるからだ。相手の痛みを思うことができるからだ。だから苦しいと思うし、感謝をする。何かを殺めることに何も感じなくなってしまったら、僕たちは一体いつ命の重みを知れば良いのだろう。

 人間とは難儀な生き物だ。こんなにも脳が発達しなければ――本能のまま生きることができたなら、こんな当たり前なこと――生きるために他を殺すことを苦しまず済んだろうに。

 奪う命に憐みを持つこと、持たないこと、どちらが正解ということは、きっと無い。しかし……しかしだ。僕は思う、努々「他を差し置いても自分が生きることは当然の権利」などと愚かな傲慢を抱かぬよう、その小さな傲慢さ――奪う命を哀れむ傲慢は必要なんじゃないかと。

 ……悲しいからこそ、怒っているんだ。

「ギァンカナッハ、さっき自分で口を滑らせていたけど、貴方は余裕が無いんだね。獲物に対して同情を抱く余分も、躊躇する余裕も、微塵もないんだ」

 そもそも、古い時代を笠に着る姿勢が好きじゃない。古いことが良いこととは限らないんだ。――僕はそれを、誰よりも知っている。

「……そもそもの話、お前たちと私とでは精神構造が違う。お前たちにとってのお涙頂戴話が、私たち妖精の道理に合うと思うな。彼女が私に懐いていた? そうか。だがそれが何だと言うんだ? 『それもそうだね』なんて言って彼女を返すとでも思ったのか? 随分と平和ボケしている」

 僕はふう、と深く息を吐く。何を熱くなっているんだ。僕は喧嘩をしに来たわけじゃない。横川さんを助けに来たんだ。

「貿易をしよう。貴方は常に空腹状態にある、理由は狩りの獲物が掛からないから。だからこその取引だ。僕は横川さんが欲しいのだけど、生憎人間には卸売価格というものが決まっていない。だからこそ、いくらでも裁量がきく。つまり価格交渉ができる。貴方が思う、彼女の対価を教えてほしい、僕は貴方が彼女につけた価値の分の品を持ってこよう。聞くところによると、貴方たち妖精は、穀物や虫、鳥を好むんだろう。さすがに妖婆は用意できないけど……。定期便でも可だ。どうだろう。長い目で見たら、こちらの方が良いんじゃないか」

 僕にとって最良の提案だった。これなら、血を流さずとも、お互いに利益が生める。

 だが、最良の案と思っていたのは、僕だけだったようだ。申し出に、ガンコナーは顔を真っ赤にさせ、ぶるぶると屈辱に身を震わせた。

「私を愚弄するか……! 穀物に虫? そんなものじゃあ話にならない。レイを返すなら、レイに代わる命が必要だ。お前にそれが用意できるのか? それとも、お前自身を差し出すか?」

「……あれ、もしかして失言だったかな」

「そりゃあそうだ。俺がアイツならこう言うだろうさ。『俺は乞食じゃない』って」

 踝を吊られたまま首を傾げる僕に、クロが呆れた視線を寄越す。

 確かに。プライドの高い妖精に対して、物で釣るのは悪手だった。それこそ、プライドを踏みにじられた思いをしただろう。

 ――いや、これはむしろチャンスだ。

 彼を傷つけたことは申し訳ないが、今回に限っては、これが正解だ。ギァンカナッハは今、怒りで冷静さを欠いている。横川さんと僕を取り換えても良い、と言うほどに。

 ギァンカナッハは女性の精気を奪う妖精だと思っていたが、彼の言葉からして、どうやら相手の性別は関係ないらしい。相手が男性でも精気を回収できるようだ。これは大発見なのではないだろうか? 妖精の研究に大いに貢献できる発見では……。

「クロ。ギァンカナッハは、同時に複数の精気を食えるのかな。それとも、獲物は一人に絞るタイプ?」

「アイツらは一人しか狙わない。複数を狙えたら、獲物を殺すまで吸い取らないさ。複数の女性を飼い馴らして、順番に精気を吸えば、獲物を殺さず飼えるだろ。それができないのは、つまりそういうことだ」

「ふむ……」

 つまり僕が一時的にでも身代わりになれば、その間、横川さんは解放されるということだ。ギァンカナッハの提案は、僕にとって魅力的なものに思えた。

 横川さんを無理やりここから連れ出したとしても、ギァンカナッハとの繋がりを絶たなければ、彼女は助からない。今何よりしなければならないのは、ギァンカナッハと彼女の繋がりを断つこと。幸い、頭に血の上った彼は、僕を取り殺そうと躍起になっている。――これは好機だ。まず繋がりを僕に移す。そうしたら彼女を連れてここから出る。今度は、僕が精気を奪われるだろう。横川さんのように一睡もできない日々が訪れるはずだ。彼女よりもひどい目に遭うかもしれない。

 彼女の精神はもう限界だ。教室で話をしていた時も、顔を真っ青にさせ憔悴しきっていた。このままではたちまちのうちに取り殺されてしまう、きっと一晩も保たないだろう。それほどまでに、彼女の魂は疲れ切っている。

 その点、僕なら彼女よりいくらか耐えられる。その間に、対処法を探せば良い。今のところはどう対処したものかさっぱりだが、三人寄れば文殊の知恵と言うし、僕と同じく縁の視える父や弟たちに手伝ってもらえば、きっとどうにかなる……はず。――確証はないけど。

「じゃあ、そうしよ――」

「待て。そういった契約を未成年が結ぶ場合、保護者の許可が必要だ。そしてこの場で保護者とは俺を指す。さらに保護者的立場からして、この取り引きはノーだ」

 クロが僕の顔を鷲掴みしたので(決して誇張表現ではない)、強制的に閉口せざるを得なかった。口と一緒に鼻も押さえられて、息ができない。苦しくてムゴモゴと藻掻くと、ようやく、僕が窒息していることに気づいたらしいクロが、「おっと」と手を離した。

 抗議の声を上げようとすると、ちらり――いや、ぎろりと、クロが僕を睨んだ。まるで黙っていろとでも言うように。

「子供じみた話はやめよう。ギァンカナッハ、大人の話だ。まず根本的なところを聞くが、お前は果たして交渉できる立場にあるのか?」

 悪者じみた脅し文句は、まるで映画に出て来るマフィアや悪徳捜査官のようだ。

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