12 オルフェオ王
そっと目を開けると、そこは小高い丘だった。
草原はどこまでも続いており、爽やかな初夏の風が吹いている。頭上高くからは太陽の光がさんさんと照り注いでおり、昼間の様相を呈している。傍らには、強い日差しから守るように、一本の木が青々とした傘を広げていた。
これが、横川さんの言っていた、妖精の世界、とやらだろうか。
公園も、黄昏も、自分がつい先ほどまで身を置いていたそれらは、どこにも無い。
あたりを見渡すと、丘の向こうに建物が見えた。どうやら教会のようだ。
横川さんは、洋館と言っていたが……。どう見てもあれは教会だ。しかし他に建物は見られない。――ひとまず、あの教会に行ってみよう。何か手がかりが見つかるかもしれない。
荷物を背負い直し、建物に向かって歩を進める。
「……やっぱり、オルフェオ王、なんだろうか」
「オルフェオ王」――ギリシア神話のオルフェウスを元にした、イギリスの物語……
トルキアの王オルフェオにはメルーディスという美しい妻がいた。
ある五月の黄昏、林檎の木の下でうたた寝をしていた彼女は不思議な夢を見る。――妖精の王と出会い、彼に連れ去られてしまう夢だ。妖精の王は、彼女に自らの城の中をひとしきり見せると、彼女をあっさりと元の場所へ戻した。しかし去り際「明日の黄昏時に迎えに行く。この林檎の木の下で待っていろ。拒むなら八つ裂きにしてでも連れていくぞ」と言い残したのだった。
それを知ったオルフェオは、妻を守ろうと、妖精王に立ち向かった。……だが、結局メルーディスは妖精の王に連れ去られてしまった。
妻を失ったオルフェオは、国の執政を執事に任せ、自らは竪琴を手に放浪の旅に出る。そして十年間の放浪の末、とうとう彼は荒野で妖精の騎士団に連れられたメルーディスを見つけたのだった。
騎士団を追いかけ、妖精の国を見つけることができたオルフェオは、吟遊詩人を偽って妖精の王の居城へ入り、王の前で竪琴を弾き、その褒美として見事、妻メルーディスを取り戻したのだった。
……それが、オルフェオ王の物語。ギリシア神話のオルフェウスとの違いと言えば、行き先が妖精の国であったことと、無事に妻を取り戻すことができたことだ。
そういえば、と不意に思い出す。
ノバラ公園にあったあの木は、林檎の木ではなかったか。もしかするとあれは、接ぎ木された林檎の木――「インプツリー」だったのかもしれない。
一説に、林檎の木には魔力があり、特に、接ぎ木された林檎の木というものは、妖精が支配する木なのだという。オルフェオの伝説で、メルーディスが妖精王に攫われたのも、林檎の接ぎ木の下であった。
時間にも意味があるのだと言う。正午、黄昏、真夜中、夜明け……その四つの時間帯は、妖精との繋がりが深い時間なのだと。たしか、横川さんが初めて公園でうたた寝したのは放課後、つまり夕暮れ時だったはずだ。
妖精による誘拐――イギリスをはじめとしたヨーロッパにはそういった伝承が数多く残されている。日本で言うところの、神隠しと似ている。
――だけど、それ自体がおかしい。
ここがヨーロッパならいざ知れず、日本で妖精の誘拐が起こるなんて。
日本に妖精が流入していることに驚きはない。物や人が行き来するのに混じって、妖精が人知れず輸入されていても、おかしくはない。だけどこの世界は一体何だろう? 妖精の輸入はあっても、妖精の国が輸入されるなんて、あるんだろうか。
「……考えにくいよなぁ」
人々が妖精を信じ、妖精の国を心のうちに思い描くならば話は別だが、日本でそこまで妖精が普及しているとは思えない。日常的に妖精を「隣人」として扱う風習はないだろう。この国で妖精と接する機会といえば、童話やアニメーションくらいだ。この国では誰もが、妖精を遠い異国のメルヘンな存在であると思っているはず。
その国には、その国の神話や伝承があり、それに沿った世界がある。それを捻じ曲げて新しい世界が作られるなど、人々の精神性がいっぺんに変わるような出来事がなければありえない。
それとも、法則を捻じ曲げられるほど力の強い妖精なのだろうか。それなら、僕一人が出張っても、死体が一つ増えるだけかもしれない。
「うーん、分からないな」
どうしてここに妖精の国があるのか、現時点では情報が足りない。ひとまずあの建物に侵入し、何か手がかりを探そう。もちろん最優先は、横川さんの救出だ。友人を助けるために、全力を注ぐ。この謎の答えはきっと、その道すがらにあるはずだ。
「……よし」
扉の前までやって来た僕は、気合を入れなおす。横川さんが言っていた通りなら、妖精の王には騎士や召使いがいるはずだ。この教会のようなものもきっと、彼の持ち物だろう。王様の息のかかった妖精たちがいるはずだ。
両開きの木製の扉に手をかけ、そっと中を覗き込んだ。
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