11 少年が落ちた先は
六
その公園には、ノバラ公園、と寂れた看板が立っていた。
大荷物を抱えた僕は、生垣に引っ掛からないよう、慎重にそこを通り抜けた。
黄昏の蜂蜜色に染まった公園は、寂寞と、静寂に支配されている。
遊具という遊具はなく、忘れ物のような砂場が、公園の中央で、穴のようにぽっかりと空いているだけ。奥には、青色の剥げたベンチが一つ。これまた置き忘れられたように、ポツリと置いてある。その上では、隣家からはみ出た林檎の木が、ゆらゆらと白い花を揺らしていた。
あたりをぐるりと見まわしても、肝心の、横川さんの姿はどこにもない。
だが、彼女は確かにここにいる。僕にはそれが分かった。彼女はただ隠されているだけなのだと。
ゆっくりと瞼を閉じる。眼鏡を外し、外したそれを胸ポケットに仕舞い込む。深く深呼吸をしてから、僕は、ゆっくりと目を開いた。
途端、僕の視界は、無数の「糸」に埋め尽くされた。
「糸」――それは縁とか繋がりとか、そういうもの。
人が人を想う時、そこには「糸」が生まれる。悪い感情でも、良い感情でも、「糸」は生まれる。人と人が関わる時、必ず生じるものだ。
それは人の眼には通常映らない。だが僕の眼は、生来それを映し続けていた。人と人の間に、どのような感情が結ばれているのか、自分は相手にどう思われているのか、それが「糸」を視るだけでおおよそ分かってしまう。
視えて便利なこともあるが、良いことばかりではない。
恨みや憎しみで紡がれた「糸」は、視ていて気分が悪くなる。それが自分に向けられたものであればなおのこと、僕が視えているのを良いことに、こちらの足を引っ張ってやろう、とでも言うように、鬱陶しく纏わりついてくる。視えてしまう僕にとって、そういった「糸」は、大層気分が悪いものであった。
僕が常日頃、善い行いを心がけているのは、大部分は僕の心情的な理由が占めるのだが、一部分は、この悪い「糸」に耐えかねてのものであった。出来るだけ良い糸が結ばれるようにと。
さて、僕と横川さんの間にも、もちろん「糸」がある。絡まる無数の「糸」の中から、彼女と僕を繋ぐ一筋を見つけ出す。
その「糸」は、この公園に横たわっていた。しかし「糸」の先は、途中でぱったりと視えなくなっている。切れているわけではないのに、不自然に、先が視えなくなっているのだ。――何者かが、どのようにしてか、彼女を隠している。
さて、糸の先が視えなければ、彼女の居場所を辿れない。なら――そこからは、推理するしかない。ヒントはおそらく彼女の夢にあるはずだ。――実際にこの公園に来てみて、あることが気になっていた。
横川さんの話では、夢の中で気づけば見知らぬ草原にいて、そこには一本の木があるのだと言う。その木は――木には詳しくないけど何となく隣家からはみ出しているこの木のことじゃないか、と彼女は言った。
――何故、木なのだろう。
この公園にあるものは、そう多くない。生垣に、看板、砂場、ゴミ箱……それくらいだ。
公園に入ってまず目を惹くのは、唯一の遊具である砂場か、ベンチだ。だが実際、夢に出てきたのは、木だけだった。砂場でもベンチでも、看板でもなく。夢に出るのが砂場やベンチなら分かるのだが、よりによって隣家からはみ出た木というのは……不自然だ――別に人の夢にケチをつけるわけじゃないけども。だからこそ、暗示的と言える。
何故、その木だけが、現実と夢に共通して現れたのか?
「……」
僕は荷物を抱えたまま、フェンス越しに木に近づいてみた。
ヒソヒソ、ヒソヒソ
密やかな囁き声が聞こえてきた。どうやらそれは、木の裏から聞こえているらしい。裏を覗き込むには、フェンスの向こうの隣家に入り込まなければいけない。
幸い、隣家は人が住んでいないようだ。もうすぐ日暮れだが電気は点いていないし、そもそも窓を覗いてもカーテンが取り付けられている様子がない。完全な空き家のようだ。庭も塀の隙間も、びっしりと藪に覆われており、長いこと人の手が入れられていないことが分かる。
塀の隙間に体を滑り込ませ、藪を掻き分け、住人のいない隣家の庭に忍び込む。
藪を抜けた先で、フェンス越しだったあの木が、目の前に現れた。
先ほど聞こえていた囁き声は止んでいる。
ぐるぐると木の回りを観察してみるが、見たところ何の変哲もない木だ。挙げるところがあるとすれば、人の腕がすっぽり入りそうなほどの、深い洞があることくらい。
洞に耳を寄せ、意識を澄ませば、穴の奥からひゅうひゅうと風の通る音が聞こえてくる。先ほど聞こえた囁き声のような音は、もしかして、この洞から発せられたのか。
この中は、一体どのようになっているのだろう? そう思い立ち、洞の中を覗き込もうとつま先立ちになる。洞に手をかけ、空洞の中に顔をのぞかせてみた――その瞬間、僕の身体は、しゅるりと洞の中に吸い込まれた。
それは、なんとも気味の悪い感覚だった。まるで皮膚がなくなって、中身が溶けだしたような、液体になってしまったような……そんな不快な感覚。
本当に溶けていたらどうしよう?
怖くなって、手のひらを開閉してみる。すると、いつも通りの感覚がそこにあった。それだけではまだ不安で、指先に視線を遣ると、そこにはちゃんと手のひらと五本の指があった。周りは真っ暗なのに、自分の指先だけはしっかりと見えるのが、不思議だった。――だけど、良かった、僕は液体ではなく、ちゃんと固体のままだ。
さて、固体であることを確認出来たは良いが、僕の体は相変わらず、どんどん落ち続けている。
一体どこまで落ちて行くのか。ここまで随分と落ちている気がする。このままでは、マントルまで落ちてしまうのではないか。そんなことを考えていると、ふとある一説が思い出された。
Down, down, down. She kept on falling.
ならば僕が行く先は、不思議の国なのだろうか? すると、これから僕は、干し草にダイブすることになるのでは……。
ハッとして、「背負った荷物」をしっかりと抱え直し衝撃に備える。これから干し草の中に落っこちるとしても、背負った荷物を傷つけるわけにはいかない。
背中に風を受けながら、いずれ訪れるだろう衝撃に、ぎゅっと目を瞑った。――しかし、いつまで待っても、それがやってくることは無かった。
ザアザア、ザアザア
背後から、強い風が吹きつけている。草が擦れる音が、聞こえてくる。
いつの間にか、僕の足は地面を踏みしめていた。浮遊感とは真逆の重力が、ずっしりと、全身に圧し掛かる。体重の乗った両足が、しっかりと地面を踏みしめる感覚に、ほっと安堵した。
そっと目を開けると、そこは小高い丘だった。
草原はどこまでも続いており、爽やかな初夏の風が吹いている。頭上高くからは太陽の光がさんさんと照り注いでおり、昼間の様相を呈している。傍らには、強い日差しから守るように、一本の木が青々とした傘を広げていた。
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