10 蠢動
五
この学校は一階が三年生、二階が二年生、つまり上級学年ほど階が下になっている。売店が一階にあるので、一階は下級生たちの憧れの的でもある。なにせ遅刻ぎりぎりでも、窓から飛び込めば間に合うのだから。
「じゃあよろしくね、クロ」
人気のない階段横で、家人に簡単な連絡を入れて、僕は売店に向かった。
売店の横にある自動販売機で、目当てのジュースを購入し、ついでに、閉店間際の売店でお菓子を買うことにする。
――そういえば、横川さんの好きなお菓子を聞くのを忘れていた。
今気づいてももう遅い。今から聞きに戻るのも手間だ。いくつか買えば、彼女の好物にも当たるだろう。そう考え、チョコや揚げ菓子など、いくつかの種類の菓子を買った。余ったら、横川さんや弟たちにあげれば良い。
両手に商品を抱えて、ゆっくりと教室へ向かう。炭酸を揺らせば、とんだ惨事が引き起こされてしまう。弱った横川さんに、とどめをさすようなことは出来ない。
カラリ
教室開けると、しかし、そこには人っ子一人いなかった。
おや、教室を間違えただろうか? そう思い、教室の札を確認すると、そこにはしっかりと「2-3」と書かれている。
確かにここは、先ほどまで自分たちがいた教室だ。その証拠に、窓際の机には見覚えのある荷物が置いてある。あれは間違いなく僕と、横川さんの鞄だ。
もしかして、手洗いに行っているのだろうか? なら、間もなく戻ってくるだろう。
それから数分が経ち、十数分が経った――が、いつまで経っても彼女が戻ってくる気配はない。
トイレにしてはやけに遅い。いや、いや、トイレに時間をかけざるを得ないことだってままあるので一概には言えないのだが。この間だって、腹を下した弟が、三十分もトイレで立てこもった事件があったばかりだ。
「……確かめるだけなら、良いよね」
嫌な予感がして、僕はトイレに向かった。が、ここで手詰まりになる。異性のトイレに入ることなど出来ない。流石にそれは蛮勇というものだ。
さてどうしたものか。困り果てていたそんな時。エプロンを絵の具で汚した女子生徒が、ちょうど、手洗いのためにやって来た。
「どうしたんですか? そんな所で」
相手の靴の色からして、一年生のようだ。異性のトイレの前でうろうろしている僕を見て、明らかに警戒している。
しかしこの好機を逃すわけにはいかない。僕は必死に事情を説明した。体調の悪い友人が、トイレに入ったまま戻ってこないのだ、と。
必死の説明に、どうやら理解を示してくれたらしい。女生徒は警戒を解いて「見てきますよ」と言ってくれた。
しかしトイレを見に行った彼女は、すぐに戻ってきた。その表情は怪訝そうだ。
「誰もいませんでした」
「え?」
「個室も全部見ましたけど、誰もいなかったです」
「……そっか。もしかしたら、行き違いになったのかも」
お手数かけました、と僕はその場を後にして、足早に教室へ戻った。
一縷の望みを抱いて扉を開ける――が、やはり彼女はいなかった。
嫌な予感が、はっきりと輪郭を持ち始める。
お菓子とジュースを鞄に詰め込み、横川さんの鞄を抱え、足早に教室を出た。
玄関口へ行って、彼女の下駄箱を確認すると、そこには、ちゃんと外靴が仕舞われてある。普通なら学内にいると推理するところだが、僕はどうにも彼女が上履きのまま外に出てしまっているような、そんな気がしてならなかった。
靴を履き替え、外に飛び出す。鞄の中の炭酸のことなど、構ってはいられない。
前庭では陸上部が準備運動をしていた。その中に、クラスメイトが何人かいる。その内の一人が、横川さんと仲良くしている女生徒だった。
呼びかけると、こちらに気づいた女生徒が、準備運動の手を止めて、珍しそうにこちらに駆けよって来た。
「大御名じゃん、どうしたの? あ、それレイの鞄だよね?」
「忘れていっちゃったみたいで」
「じゃあ、あれやっぱりレイだったんだ」
「え?」
「いやね、さっきぼんやりした様子で、レイが校舎から出て来たのよ。上靴のままでね。上靴のままだよって声を掛けたのに、聞こえなかったみたいで、そのまま校門を出て行っちゃった。そのうち靴に気付いて戻ってくるかなぁ、って思ったんだけど、なかなか戻ってこないんだよね」
体調悪そうだったものね、と女子生徒が言う。変だと思ったのなら、そこで止めてくれれば良いものを。悪態を飲み込んで、僕は先を促す。
「ここを通ったのはいつ?」
「十分くらい前じゃない? 全力で追いかけたらまだ間に合うと思うよ」
彼女がそう言うのと、部長が召集の声を掛けるのはほぼ同時だった。彼女は「じゃあレイをよろしく」と言うと、仲間たちの元へ走って行ってしまった。
随分と簡単に言ってくれる。そう思うが、くだんの人物は既に校庭に行ってしまったし、目の前にいたとしても僕はいつものようにへらりと笑うだけなのだが。
胸のうちに悪態を仕舞い込み、有益な行動に移ることにした。
横川さんは、行ってしまった――いや、「呼ばれてしまった」。今から追いかけても、きっと追いつくことはできまい。
「遅かったか」
僕は彼女を追うのをやめ、校舎に戻ることにした。スマートフォンを取り出し、発信履歴の一番上にある連絡先へ電話を掛ける。
数回のコールの後、パチッと通話が繋がり、数拍の後、低く唸るような声が聞こえてくる。
「頼みたいことがある」
電話の向こうで、不服そうな声があがった。それを無視して、僕は続ける。
「不本意だけど事態が進んだ。だから、新しく頼みたいことがあるんだ」
電話の相手は、心底嫌そうに深いため息を吐いたのだった。
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