9 逢魔が時の神隠し
どうにか授業を全て受けきって、放課後を迎える。今日が、体育のない日で本当に良かった。もし体育があれば、ばったりと倒れていたことだろう。かといって、座学が楽だったというわけでもない、ひたすら睡魔と戦わなければならなかったから。黒板の内容を写すのも一苦労で、授業後にノートを見返してみれば、支離滅裂な文章や、解読不能な暗号が書かれている。睡眠の偉大さを、身を以て学んだ。
生憎と今日は掃除当番だったので、すぐには帰り支度を始められなかった。
班員とともにモップを持って教室を掃除する。ありがたいことに、私の体調が悪いことを察した彼らが、私をチリトリ係(いつも人気の役割だ)にしてくれた。集められるゴミを機械的にチリトリで掬い上げて、ゴミ箱に捨てるだけの、簡単な作業。最後の仕上げであるゴミ捨ても、班員の男子がやってくれたので、大いに助かった。
教室の掃除が終わると、これから部活があるらしい班員たちは、荷物をまとめ始める。
それを横目に、掃除で力尽きた私は、ピカピカに磨かれた自分の席に、ほとんど倒れるように座り込んだ。
「横川、大丈夫?」
「別に、大丈夫」
素っ気なく言い放ってから、ハッとする。せっかく親切を掛けてもらったというのに、ああ、ほら見てみろ、残念そうに「そうか」と言って、後ろ髪引かれながら去っていく彼らを。
どうして私は、せっかくの親切を拒んでしまうのだろう。こういう時、素直になれない自分が恨めしくなる。
親切心というのは、案外厄介で、出すのにも勇気がいるし、受け取る方にも勇気がいる。拒まれた時には無力感が募るし、拒んだ方も罪悪感を抱くものだ。今の私は、人の親切を受け取るだけの余力もないらしい。
悪いことをしてしまった、と、普段よりも強い自責の念が、私を押し潰した。
罪悪感と戦いながら、私以外は空っぽになった教室で、ぼうっと机に頬杖をついていると、不意に、カラリと教室の扉が引かれた。
「あら、横川さん?」
誰もいないと思っていたのだろう、
「今日は図書館に来ないの?」
「気が乗らないの。なに、私が来るのを待ってた?」
「ちょっとね」
トコトコと自分の席までやって来た彼は、机から大量の紙束を取り出す。チラと見えた文面からして、係の仕事らしかった。私を探しに来たわけでは、ないようだ。
「また仕事を押し付けられたの? 今度は何、生活係? それとも保健係?」
「レクリエーション係。みんな忙しいみたいだから」
「いっそ部活に入ちゃったら? そうしたら押し付けられないでしょ」
「運動が苦手なんだ」
「運動部の他にも色々あるでしょう。華道とか、吹奏楽とか、お琴なんかもあるよ」
「いや、うん。……あー」
誤魔化すことに失敗した大御名は、アーだのウーだの意味のない声を上げる。
「……僕、人と足並み揃えるのが苦手なんだ、気疲れするから。好き勝手させてくれるなら入部するけど……半年くらいは真面目に頑張って、それ以降は幽霊部員になっていって、いつの間にかやめてるだろうね」
八方美人な彼の、意外な言葉に、私は少なからず驚いた。大御名こそは、「皆で団結して頑張ろう」などと言い出すタイプだと思っていたが、その真逆だったらしい。
大御名といえば、穏和で、人の話をよく聞き、茶目っ気があり、誰にでも分け隔てなく優しい、まるで「聖人」を体現するかのような人間だった、少なくとも私は、そう思っていた。
けれど同時に、その在り方が、ひどく空虚であるようにも感じていた。まるで死人のような、そこに在るのに、そこに居ないような。それなのに、冷たさを感じさせず、人を包み込むような温かさがあるのが、不思議だった。
しかし、ここまで来て少し分かった。大御名は決して「聖人」なんかじゃなかった。お人好しであることに変わりはないが、ちゃんと、偽物の善人だったのだ。
彼お得意の八方美人も、本当は他人に合わせているだけらしい。きっと彼は不定形で、他者の形にはまるように、都度ぐにゃりと形を変えているんだ。彼の空虚さは、それが所以なんだ。
「もしかして、私のことも迷惑だった?」
わざわざ私の形に合うように、形を変えてくれていたのだろう。それを知ってしまったら、もうこれまで通りとはいかない。彼は、予想通り首を横に振ってくれた。
「そうでもないよ。人と話すこと自体は嫌いじゃない。特に横川さんは、遠慮がいらないし」
「それも気遣い?」
「気を遣ってる人に、こんなこと話すはずないじゃない」
「それもそうだね」
「ああだけど、そうだな……別れた後の余韻は嫌いだな」
「余韻?」
「人と別れた後、会話の内容を反芻してさ、その中で、しでかした自分の失言に、落ち込むんだ。誰かと話した後は、いつも反省会だよ」
「大御名くんが失言したことなんてなかったけど」
「君はそう思っていても、僕は失言したと思ってるんだ。勝手にそう思って、勝手に落ち込んでいるだけ」
「案外、気が小さいんだね」
「そうなんだ」
そうして彼は、押し付けられたプリントの仕分けを始める。クラス毎に束を作り、付箋を貼っていく地味な仕事を、黙々と行う。
なんだか彼が、今までよりもずっと、身近に感じられた。彼もちゃんと血の通った人間なのだと分かったから。どこか遠い存在に思っていたけれど、私と同年代の子供なんだ。
「……ねえ、なんで私に話してくれたの?」
「……さっき、思い出したから」
「何を?」
「横川さんが自分の秘密を教えてくれたのに、僕がまだそれに応えてないこと」
「秘密? ああ、あの夜の……」
「それに、君だからっていうのもあるね。僕のこういう側面を知っても、全然引いてないでしょ。普通、幻滅するところだよ」
普段の無邪気な顔に、一寸の邪気を混ぜて、ニヒルに笑う。その方が、ずっと彼らしいように思った。
「幻滅するわけない。むしろ、そっちの方が、とっつきやすくて良いよ」
「君のそういうところだよ」
大御名が寂しそうに笑った。
私の言葉に、何か失言があったのだろうか。思い返してみるが、短い返答の中に、そんな要素があったようには思えなかった。
――私、この人について、知らないことばかりなんだな。
暗に、私の前だから自然体でいるのだ、と言う彼に、私もまた、応えたいと思った。きっと私は、それだけの信頼を勝ち取っている。果たして私の何がそうさせたのか。それに値するだけの人間なのか。今はまだ分からないそれが、いつか、彼との付き合いの中で、明らかになる日が来ると良い。
共有し合った互いの秘密が、心を震わせる。秘密の共有は、時に、何より強い信頼になる。
「ねえ、変なことを話しても良い?」
自然と、口を滑らせていた。
「大御名くんは、妖精と遇ったことある?」
「ようせい? ようせいって? フェアリーの?」
彼は不思議そうに、顔をきょとんとさせる。
「そう。私はあるよ、ついこの間のことだけど」
「妖精に?」
「そう」
どうかしてしまったのだきっと。ひどい寝不足と、秘密の共有者を得た喜びで。こんな馬鹿げた話をしてしまうなんて。いくら、彼に親近感を抱いてしまったからと言っても。こんなこと話せば、彼を困惑させてしまうだけなのに。
私は彼に告げた。夢に出て来る妖精を自称する男のこと。決まって夢を見る公園のベンチと、夢の先にある大きな洋館、騎士やメイド、キノコや虫でできたケーキ。その夢が楽しくて、公園に足繁く通うようになったこと。
「だけど、そのうち足が遠のいていって、あの公園には行かなくなった。だけど、先週の金曜日にね、お祖母ちゃんの家で夢を見たの。あの公園に行った訳じゃないのに。その日見た夢は、それまでのものとは違っていた」
大御名は顔を顰める。呆れではない、飽きたわけでもない。
その表情が、何を表しているのかはよく分からない。もしかしたら、頭がおかしくなったのか、と心配されているのかもしれない。
やっぱり彼を困らせてしまった。
けれど話し始めた口はもう止まらなくて、私は話し続けた。何かにせっつかれるように。
「草原じゃなくて、真っ黒な場所だった。足元は、ごつごつとしていて、岩場のようだった。真っ暗な中、背後から声が聞こえてくるの。私を呼ぶ声が。それが、なんと言って良いのか、ものすごく怖くて。私は一目散に逃げだすの。ようやくのことで逃げ切ったところで、目が覚める。だけど夢を見る度、徐々に、声が近くなっている気がして……。そういう夢を見ちゃうから、どうにも眠れないの。ここ二日、一睡もできてない」
「……」
大御名は何かを考え込むように、顎に手を当てる。
「私、おかしくなっちゃったのかな?」
「違うよ。ちょっと疲れてるだけだ」
「眠れたら少しは違うのにね」
腹の底から、大きくため息を吐く。
切実な問題だった。眠れないことには、どんどん体力も気力も奪われていく。その度に、あの公園に行ってしまいたくなる。そうしたら全てが終わる。終わらせたくないものまで、終わってしまう――少なくとも私はそう確信していた。
「もう、疲れちゃった」
しわがれた声は、本当に自分のものかと錯覚するほど。まるで老人のようだった。
「どんどん、あの声が近くなってる。私、次にあの夢を見たら、もう逃げられない気がするのよ。今度こそ、振り返ってしまう気がする。あの夢を見なくたって、もう限界。だって、今にも半狂乱になって、あの公園に逃げ込んでしまいたいんだから」
「駄目だよ」
彼の声が、存外、強い語気を纏っていたので、私はちょっと驚いた。
「大御名くん?」
「あ……ごめん。何か、飲み物を買ってこようか? 気を紛らすのに」
「眠くならないやつが良い」
「難しい注文だね。炭酸なんてどう?」
「大好物。オレンジが良い」
オーケー、とにこりと返して、大御名は小さな財布とスマートフォンを片手に、教室を出ていった。
私はと言うと、彼が帰ってくるまで、どうにか眠らないようにと、必死に眼球を開いていた。自然に閉じそうになる瞼を、指で無理やり引っ張った。
――大御名、早く戻ってこないかな……。
ふと、窓から差し込む夕陽に目を留める。
蜂蜜色の夕陽が、山の向こうへ沈もうとしている。オレンジ色のちぎれた雲が、紫の影を色濃く抱えている。
寝不足の目に、夕陽は眩しすぎる。光が目に染みて痛いのに、どうしても逸らせなかった。
じっと夕陽を見つめていると、夕陽に吸い込まれてしまうような、不思議な気持ちになる。そして、心に影が差すのだ。影の中に生まれるのは、厭世的で、悲劇的で、退廃的で、諦念にも似た、ほの暗い感情たち。
逢魔が時。――魔が差す時。
今なら、全てを投げ出しても良い、そんな気がして。
ざわりと、胸の奥が蠢いた。
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