8 牙を剥く夢
閉館時間が来る頃には、随分と、ページを読み進められた。それは少し寂しいことであり、同時に、喜ばしいことでもあった。本を読み終わるのは寂しいけれど、これを読み終われば、また新しい物語に手を掛けられるのだから。
「じゃあ、また月曜日ね」
「うん。月曜にはきっと読み終わってるはずだから、次のオススメの本を用意しておいてよね」
「楽しみにしていてね」
大御名と別れた後、私は祖母の家へ帰った。
祖母が用意してくれた温かいご飯を食べて、温かい風呂に入り、そうして温かい布団で眠りにつく。
満ち足りた思いのまま、布団に体を沈め、ほどなく私は眠りにつき――そして夢を見た。
気が付くと、私は、真っ暗闇の中に立っていた。
「ここは……」
眠っていたはずの布団はなく、祖母の家の、古めかしいカビの匂いもない。
代わりに、生ぬるく腐った風が、私の頬をねっとりと舐める。
どこかから、カシャカシャと、葉の擦れる音が聞こえる。遠くから、ゴオゴオと、空洞の唸る音が鳴っている。
ああ、ここは怖い場所だ。潜在的な恐怖が、私の内臓を支配する。
心臓が、ドクドクと、異様な速さで脈打っていた。
「レイ」
背後から聞こえた声は、覚えのあるものだった。
脳髄に甘く染み入るような声。甘い水のような声に、ついつい、振り返ってしまいそうになる。
だが、振り返らなかったのは、頭にけたたましい警鐘が響いていたから。
振り返ってはいけない。
振り返ってはいけない、振り返ってはいけない。
呼ばれているのだから、振り返って然るべきだ。なのに、そうしてはいけないと思ってしまう。どうして? そこに理論的な理由はない。ただ「絶対に振り返ってはならない」と強迫観念にも似た妄想が、私の頭を支配していた。その妄想は、またの名を、本能と言うのだろう。
「どうしたんだレイ、そんなところに突っ立って。おいで、また君の世界の話を聞かせてほしい。この前は君に怒られたから、今回は虫ではなく、卵とバターでケーキを作ったんだ。お茶の準備をしよう。さあ、振り返って、こちらにおいで」
酒精のような声が、ジンジンと頭の奥に広がる。こちらを絡めとるようなザラザラとした声音は、気味が悪く、むしろ私を正気にさせた。薄気味悪い酩酊を追い払うように、私はふるりと頭を振った。
「もう、いいの」
私は叫ぶ。
「いらないの。貴方はもう、私には必要ない!」
その時、頭に思い浮かんだのは、オルフェウスの冥界下り。「振り返ってはいけない」という制約を破り、妻を二度も喪った、悲恋の物語。
まるで示し合わせたようなフラッシュバック。思い出すべく、思い出したのだろうか。おかげで、頭の中で鳴り響く警鐘は、更に、その音を増していく。
本能が――生き物としての生存願望が、ここは居てはいけない場所だと告げている。ここは、とても恐ろしい場所だと。
私は、私の中で鳴り響く警鐘に従い、脱兎のごとく走り出した。
「レイ」
彼が固い声で私を呼び止める。だがその声が、私の脚を止めることはできなかった。
散々頼って甘えていたのに、新しい拠り所を見つけ、用済みだからと言って、遠ざけるのは、ひどく不誠実だと思う。けれど私はこの場所が、いや、彼が怖いのだ。何をおいても怖い、恐ろしい。この突発的な恐怖を、どう説明したら良いかは分からないけれど。
どんどん、追いすがる声が遠くなる。
それでもなお、私は暗闇を走って、奔って、はしり続けて――
ピピピ
スマートフォンのアラームの音で、目が覚めた。
がばりと跳ね起きると、そこは、見慣れた部屋。祖父母の家の、私の部屋。
汗で、じっとりと体がべたついている。
カタカタと、全身が震えていた。
ただの夢だ。……だが、質量を持った夢だった。重たく淀んだ空気も、鼻をつく饐えた臭いも、しっかりと覚えている。それらはまだ、私の体に張り付いている。
「……シャワー、浴びよう」
重い体をどうにか引きずって、ベッドから抜け出す。未だにこびりついた恐怖が、呼吸を浅くさせる。それを拭うために、私はのろのろと浴室へ向かったのだった。
月曜日。
いつもは遅刻ギリギリで登校する私だったが、その日は、一番乗りに教室に着いていた。
独り、机に肘をついてそわそわと、落ち着きなく指を組み替えながら、誰かが来るのを待つ。早く、誰か来ないだろうか。
誰でも良いから、知っている人の顔を見たかった。
「あれ、横川さん。今日は随分と早い。……顔、真っ青じゃないか」
教室の扉が開き、現れたのは大御名だった。日誌を持っているので、どうやら日直のために早く登校してきたらしい。
「大御名くん……」
ホッと息を吐く。
「体調が悪いの? 保健室で休んだ方が良いんじゃない。送って行こうか?」
「いいの」
今の私の顔は、それはひどいものだった。血の気が失せて真っ青になった顔と、目の下にくっきりと浮き出た隈、白目は充血しきっていて、唇はガサガサに荒れている。
どうしてこんなことになってしまったのか? それは、丸二日間、一睡もしていないからだ。
寝ると、夢を見るのだ――真っ暗闇の中、後ろから呼びかけられる夢を。
何度も、何度も何度も、あの夢ばかり。
もちろん、何もしなかったわけじゃない。悪夢を見ない方法をインターネットで調べて、色々と試してみた。お風呂に入るとか、塩を盛るとか、どれも眉唾もので、結果は目に見えていたが、やらずにはいられなかった。結果は、この有り様だけれど。
うたた寝すら許されない。一瞬でも寝ようものなら、次の瞬間には悪夢の中だ。
お陰様で体調は最悪。体は重いし、歩けばふらつくし、頭は正常に働かない。家からここに来るまでに、一体、何度信号無視をしたことか。車に轢かれずにここまでたどり着けたことが奇跡だ。
眠れない辛さは、刻一刻と、増していく。
睡眠を与えない、という拷問方法があるらしい。加えて、数日間睡眠をとらないと、人間は死んでしまうとか。
確かに、これは拷問だ。死んだ方がましだという気にすらなる。
いっそ眠ってしまおうか。そうして、妖精が囁く通りに、振り返るのだ。そうしたら、この辛さから逃れられるのではないか。そうだ、いっそのこと、あの公園に行って、あそこでうたた寝してやろう。そうしたらきっと、もう、私を苦しめる全てから、綺麗さっぱり解放される。
時計の針が進むごとに、渇望が増す。確証のない確信が、私を突き動かそうとする。
――駄目だ、駄目だ。
もしそれを、あの公園に行ったら、あの夢で振り返ったら、私はどうなるのだろう。もう、二度と目を覚ますことができなくなるのではないか。
そんなはずはない、馬鹿げている。片隅に残った理性がそう分析する、しかし、現に私は今、その馬鹿げた妄想に苦しめられている。
もう頭がおかしくなりそうだ。それとも、私の頭はもう、おかしくなってしまったのだろうか。
正気を保つために、誰かと、話していたかった。そうでもしないと、私は、あの公園に逃げ込んでしまいそうだったから。
「眠れてる?」
「ううん。あんまり」
「授業が始まるまで、少し寝たら?」
「いいの」
夢が怖いから、だなんて言えるはずもない。
「大丈夫だから」
「……そう」
大御名は諦めて、日直の仕事を始めた。
それをぼんやりと目で追いながら、私は、ねちっこく付きまとう眠気に抗うのだった。
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