7 息を継ぐ場所


 それから、私はよく図書館に入り浸るようになった。

 図書館に行くと大抵、大御名おおみながカウンターにいて、作業をしていたり、本を読んでいたりする。

「今日はバイトないの?」

「うん」

「そう。本、面白かった?」

「あと少しで読み終わるよ。ギリシア神話って、案外面白いのね」

「そう言ってもらえて良かった」

「うん。神様なのに、神様じゃないみたいで面白い。喜怒哀楽がはっきりしていて、嫉妬深くて、たまに格好悪いのが、親近感沸いたわ」

「そうだね。もしかしたら、感情を隠さないあたり、ギリシア神話の神様は人よりも純粋なのかも」

「純粋かあ。言葉は良いけど、つまり我慢できないってことよね」

「だって神様だもの」

 確かにそうだ。神様同士ならいざ知れず、人間相手にどうして神様が我慢する必要があるだろう。

「気に入った話はあった?」

「気に入った、というより、一番印象に残ったやつなら。死者の国に行く話が、衝撃的だったかな。オチも含めて」

「オチが衝撃的と言うと、プシュケーじゃなくて、オルフェウスの話かな」

「おそらく」

 竪琴の名手オルフェウスが、死んだ妻エウリュディケを蘇らせるために、冥界に下る話。

 オルフェウスの演奏に心打たれた冥界の王が、「地上に戻るまでに妻を振り返ってはならない」という条件をつけて、オルフェウスの願いを聞き届けてくれる。

 しかし、猜疑心によりオルフェウスは振り返ってしまい、彼はエウリュディケを二度失うことになった。

 その後、亡きエウリュディケを想い続けた彼は、それを疎んだマイナー――ディオニュソスの狂信者たちによって殺されてしまう。

「冥界下りの話は、色々な国にあるんだ。日本にも、夫が亡き妻を黄泉の国から連れ帰ろうとする神話がある」

「多分それ知ってる。漫画か何かで読んだことある。もしかしたら、それと似ていたからかも、この話が印象的だと思ったのは」

「あとは……そうだ、オルフェウスから派生した話がね、イギリスにあるんだ。『オルフェオ王』と言ってね」

「へえ、名前がそっくり」

「オルフェウスが元ネタになっているからね。オルフェオ王の物語では、冥界ではなく妖精の国へ、連れ去られた妻を取り戻しに行くんだ」

 妖精、という言葉に、ドキリと心臓が跳ねる。

「……なんだかすごくメルヘンに改変されてるんだね。冥界じゃなくて、妖精の国だなんて」

「イギリス風だからね。イギリスと言えばファンタジーの本場だし。世界で一番有名な魔法使いの物語を生んだ土壌だもの」

 妖精の国、という言葉が頭から離れない。

「なんだかそれも面白そう。今借りてる本を読み終わったら、そっちのオルフェオ王ってやつを読んでみたい。そうだ、今度の朗読はそれにしてよ」

「そのうちね。まずは横川さんが朗読する本を見つけないと」

 大御名がそっと笑い、目元が細めたのを見て、ふっと、私の心が緩んだ。

 彼にはどこか不思議な雰囲気がある。話していると、不思議と心が落ち着いてくる。

 話し方なのか、纏っている雰囲気なのか……彼が持つ、一体、どんな要素がそう感じさせるのか。まだ分からないけど、確かなのは、彼の持つその「何か」が、人に安心感を与えるということ。

 こうして私が足繁くここへ通うのは、それも理由の一つだ。

 私は、彼の纏う空気を求めている。自分を取り巻く環境に窒息しないように。彼の周りに漂う優しい空気が、ささくれ立った私の心に染み入り、癒してくれることを期待している。

 クラスメイトの数人は、私と大御名が「特別な関係」なんじゃないか、と邪推しているらしい。だが、そんな甘酸っぱいものでは決してない。むしろ、そうであったらどれほど良かっただろう。

 大御名もきっと、私が何を求めているか、分かっているのだと思う。その証拠に、彼が私に向ける目に、恋愛のような熱っぽさはない。

 教会やお寺なんてほとんど行ったことがないけれど、彼のそれは、そういう聖職者じみたものだと思った。

 以前、彼の「お人好し」が本物か偽善かを考えたことがあった。だが今となっては、それはどうでも良いことのように思う。彼が慈善事業のつもりで私を受け入れているのだとしても、彼の纏う空気は本物で、私はそれに救われている――それが全てだ。それを証明するように、私はここ数日――あの朗読会以降、公園には行っていないのだから。

 私にはもうあの夢は必要ない。夢に縋るのはやっぱり虚しい。夢の中で救われても、目覚めた時の喪失感が、いつも私を蝕んだ。だからもう、現実逃避のための夢想はいらないのだ。現実から逃避しなくても大丈夫だと、大御名が私の居場所になってくれたから。

「そういえば横川さん、風邪、治ったんだね」

 言われてみればここ数日、身体の調子が良い。咳も止まっている。

「まあ、野宿やめたからね」

「野宿?」

 大御名は怪訝な顔をする。

 私は、ついこの間まで図書館に来づらくて近くの公園で仮眠を取っていたことを、冗談めかして彼に聞かせた。もちろん、夢のことは恥ずかしいので伏せて。

「その公園って、木が一本あるところ?」

「木? ああ、フェンスからはみ出した木が一本あったかな。日除けにちょうど良かった記憶があるよ」

 直後、大御名は微妙な表情を浮かべた。

「その公園の近辺、不審者が出るらしいよ」

「えっ、そうなの?」

「女の子がその辺りで行方不明になったって聞いたことがあるから。あんまり近づかない方が良いと思うな」

「転校してきたばかりなのに、詳しいのね」

「居候が心配性でね。そういう噂には敏感なんだ」

 不審者のことは知らなかった。大御名の忠告通り、あの公園には今後、近づかない方が良いだろう。まあ近づく理由など、よっぽどのことがない限り、もう無いだろうが。

「そうだ。週末に入るけど、本は足りる? 追加で貸し出ししようか」

「ありがとう、でもいいや。私、読むの遅いし。あんまり借りすぎたら、本に追い立てられるみたいで落ち着かないから」

「読書は自分のペースでするものだし、それが本の一番の長所だよ。ゆっくり、横川さんのペースで読んで」

「うん。じゃあ早速、読んでいこうかな。図書館で読むのが、一番集中できる」

 カウンターから少し離れた机に腰かけ、借りていた本を開く。

 たまにちらりと大御名を盗み見ては、黙々と本を読んでいる彼に倣って、再度本に意識を落とす。

 聞こえるのは、紙を捲る音と、勉強に勤しむ誰かがシャープペンを走らせる音、窓の外運動部の掛け声。忙しない日常とは隔絶された、静かで、穏やかな時間だけが、図書館に漂っていた。

 この図書館で過ごす時間も、一つの日常風景ではあるのだが、私には不思議と、そうとは思えなかった。

 どうしてだろう、そう、傍らの本棚に並ぶ背表紙を、目で撫でながら、私は考える。

 ここにはたくさんの本がある。本とは、非日常だ。本に書かれているものは、作者の日常であったり、空想であったり、もしくは世界の歩みであったりするのだが、そのどれもが、「私の日常」ではない。つまり、背表紙の数だけ、この図書館には、私にとっての非日常が収められている。その非日常たちが、まるで結界みたいに、ガラス扉まで迫る日常から、私を守ってくれる――そんな気がする。

 ここに来れば私は、まだ立ち向かうための準備ができていない現実から、つかの間、離れることができる。

 別に本が特別好きなわけじゃない。私が愛しているのは、この穏やかな空間、それから、こんなみっともない逃避者である私を、静かに受け止めてくれる彼の空気。

 大御名には感謝している。彼がいなければ、私は、この場所に辿り着くことはできなかった。仮眠のために度々訪れていたけれど、彼が来る前は、ここがこんなにも居心地の良い場所であることに気付けなかったし、きっと、そうはならなかっただろう。カウンターから伸びる私への視線は、いつも、なんとも厄介そうな気色を纏わせていたから。

 私をここに導いてくれてありがとう、と感謝を伝えることは、今はまだ出来そうにない。何気ない出来事への感謝は簡単に出来るのに、心からの感謝を伝えるのは、勇気が要るのだ。いずれ、伝えられたら、と思う。もしかしたら、その時が訪れるのは、ずっと大人になってからかもしれないけれど、いずれきっと。

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