5 四月の斜陽、二人だけの朗読会
放課後、朗読会が始まる数分前、私は図書館の前までやって来ていた。
本当はもっと早くに来られたのだが、あんまり早く来るのは、「気が向いたら」なんて言った手前、気恥ずかしいものがあったのだ。
時計をちらちらと確認し、そろそろ入っても良い頃合いだろう、と図書館の扉をくぐる。扉を開けた途端、古い紙の匂いがふんわりと私を包み込んだ。カーペットの敷かれた床が、鈍い靴音を鳴らす。
図書室の中央にはちょっとした広場が作られており、そこにはいくつかの長椅子が並べられている。
しかし図書館には、私と大御名以外に人影はなく、今しがたくぐった扉の向こうから聞こえる、生徒たちの遠い笑い声が、ひどく乾いた寂しさを呼ぶ。
「ガラガラだね」
「本当に来てくれたんだ」
「嘘だと思ってたの?」
「半分くらい」
「正解、さっきまでとんずらしようかと思ってた。まあ、大御名くんには借りがあるから」
「何のことだろ」
そう言って、彼はクスッと笑う。
結局、予定されていた開始時間になっても、私以外の生徒が来ることはなかった。図書委員会の責任者である教師すら、顔を出す様子はない。
「では、時間になりましたので、四月の朗読会を始めます」
大御名は、閑古鳥の鳴く会場を、ぐるりと見渡す。必然的に私と目が合うと、彼は気恥ずかしさを誤魔化すようにもう一度笑った。つられて私も笑ってしまう。
早く始めなよ、と顎で促すと、彼は肩を竦めて、膝に乗せていた本を拾い上げた。彼が手にした本は、ずいぶんと古そうだった。ビニールで保護された表紙は色褪せ、角が削れている。
西から射す橙色の陽光が、まばゆくも寂しい影を、室内に落としている。その影の中で少年は、本に指をかけ、表紙をパコンと開く。挟んでいた栞を頼りにめくった紙が、ペラッと乾いた音を立てた。
静かな図書館で、彼の声だけがシンと響く。
「――『ある日のことでございます。お釈迦様は極楽の蓮池のふちを、独りでぶらぶらお歩きになってらっしゃいました』」
おや、と思い、大御名の横に立てられている朗読会の看板に目をやる。看板には、各日の朗読会の題目が書かれていた。
今日予定されていた題目は、戦争童話だったはずだ。小学校の国語で教材にされていたし、内容が衝撃的だったので、よく覚えている。看板にはやはり、確かにその小説の題名が書かれている。
しかし、現在朗読されている作品は、明らかにそれとは違う。本を読まない私でも、この話だけは知っている。
どうして朗読する本を変えたのだろう? 疑問は尽きないが、私の困惑などよそに、朗読は続いていく。朗読を止めてまで問いただすようなことでもない。これ以上考えてもどうしようもないので、私は、聞こえてくる話に耳を澄ませることにした。
数ページの短編の朗読は、ものの数分で終わってしまった。あっという間に、犍陀多は蜘蛛の糸から滑り落ち、元いた地獄へ舞い戻ってしまう。
「おしまい」と言葉を結び、大御名は本を畳む。
それまで聴こえていた声がぱったりと止み、やけに強調されて感じる沈黙に、居心地が悪くなる。それは大御名も同じようで、畳んだ本の角を不自然に撫で、手遊びを始めた。
「短かったね」
「あんまり長いとダレちゃうと思って」
「告知されてた本と違ったけど」
「僕、戦争小説って苦手なんだ。心に残るけど、傷にもなり得るから。読書なら辛くなった時点でやめられるけど、朗読だとやめられないでしょう」
「人が地獄に落とされる話は傷にならないの?」
「元々地獄にいた男が、あるべき場所に帰されただけだもの。もしかして、横川さんは傷ついた?」
「全然」
「それなら良かった」
「でも短すぎる。せっかく来てあげたんだから、もっと聞き応えのあるやつにして」
大御名がころりと、丸い目を更にまん丸にさせた。
「なに。柄でもないって言いたいの?」
「まあ、そんなところかな」
「だろうね。だけど別に、大御名くんを困らせたいとかそういう理由じゃないよ。たまには、こういうのも良いなって思っただけ」
「そう。じゃあ、オススメのお話を」
そう言って彼は、閉じた本を再び開く。
大御名の朗読は終始静かだ。声のトーンはずっと変わらず、抑揚もない。淡々としているが、その平淡で落ち着いた朗読に、不思議と安堵する。
朗読中の、程よい孤独が何とも心地良い。大御名の意識は本に向き、私の意識は彼の声に向いている。互いに交わらない意識が、私たちは同じ場所にいるのに、まるでいないような錯覚をもたらす。
数分ほど朗読して、大御名が結びを告げる。だけどまだこの時間を味わっていたくて、私は更に続きを強請った。大御名は困ったような顔を見せたけど、「せっかく来たんだから」と恩着せがましく言えば、結局は折れて、違うページを開いてくれた。それを更に二度、三度繰り返して、四度目でとうとう、彼は音を上げたのだった。
「今日はこれで終わり」
「もう?」
「そうは言うけどね、もう一時間は経ってるよ」
図書室に差し込む光は、いつの間にか弱くなっていて、陽は山の向こうに落ちようとしている。朗読会が始まるあたりは意味をなしていなかった電灯も、今ではしっかりと、私たちを照らしていた。
黄昏時は胸がざわつく。昼でもなく夜でもない、その曖昧な時間は、人の不安を駆り立てる。その不安定な時間は、「逢魔が時」なんて言うように、人でないものが跋扈するのだという。――それが過ぎ去ってしまえば、穏やかな夜がやってくる。
「今日は来てくれてありがとうね、助かったよ」
「大御名くんはまだ帰らないの?」
「僕はちょっと仕事をしていくから」
そう言って彼は、カウンターの返却棚に積まれた本に目配せをする。返却処理をしたきり、放っておかれているのだろう、棚に収まりきらず溢れた本が、カウンターにまで侵食していた。
朗読会は終わった。だというのに、どうも腰が上がらない。もう少しここに居たいと思った。
「私も手伝うよ。あそこに積んである本を、棚に仕舞うんでしょ?」
「良いの?」
「貸し一つね」
「あはは、でっかい借りを作っちゃうな。だけど有難いよ。手伝ってくれるなら、甘えちゃおうかな」
「任された。それにしても、全く、他の図書委員はやる気がなさすぎるね」
「皆、部活が忙しいからね。僕は部活に入っていないから、丁度良いんだよ、きっと」
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