第5話 ひょっとこ仮面と馬鹿たち

「あかん! 『ひょっとこ仮面』がおる!」

 そう言って赤間が食堂に戻ってきたのが、その約二十分後のことだった。

 おいおい……余韻も何もあったもんじゃないな。いやそれよりも――

「その『ひょっとこ仮面』って、なんだ?」

「……分からへんのか! ボケェ!」

 いや、むしろその説明で分かる方がおかしいだろうが。ボケ。

 赤間も少し落ち着いてきたのかそのことに気付いたようだ。ようやくまともな説明を始める。

「ひょっとこのお面を被ってサバイバルナイフを持っとる全身黒ずくめ……レインコートみたいな、男……いや、もしかしたら女かもしれへん。……とにかく、やばい奴がおるんや」

 神様、ここはどこのホラー映画の世界ですか?

「なんで? なんでそんな奴が宿舎に?」

「分からへん。あたしにも心当たりは――」

 そこまで言って……沈黙。

 そうだ! 心当たりだけは腐るほどある!

 二人ともそのことに気付いたのかしばらく無言が続いた。

 今のところの、俺の「心当たり」はざっとこんな感じだ。


① 百八尾のタヌキの祟り

② シマゴン怒りの襲撃

③ 中谷が召喚した悪魔

④ とうとう正気を完全に失い、股間強打の復讐に燃える中谷(可能性:大)

⑤ 教授の入れた毒物による幻覚

⑥ 教授の入れた毒物によりトランス状態に陥った誰か(可能性:大)

⑦ 焼身自殺(仮)の女生徒の亡霊

⑧ 長吉の元メル友のキチガイ女


 …………多すぎるだろ!

 どこの世界に、こうまで襲撃される心当たりがある人間が居るんだよ!

「なあ……とりあえず確認に」

 そうだ。気のせいだ。また見に行ったら誰も居ない……そんなオチに違いない。

 その時、赤間の背後、薄暗くなった食堂の入口辺りで動く物があった。

 全身黒づくめ。手にはサバイバルナイフと思わしき刃物。そして、顔には……なぜかひょっとこ。

「後ろにいるぞ!」

「そんな! 追ってきたんか?」

 まだ「般若」の面なら様にもなるが、よりによって「ひょっとこ」とは……ひょっとこ仮面は、ふらつく足取りで近付いてくる!

「ここはまずい! 窓から逃げるぞ!」

「え? でも他の皆は? どう――」

「どうしようもない! 逃げるぞ!」

 俺は赤間の手を取ると窓から逃げようとする。

 俺だって、他の皆が心配でない訳じゃない。だが、サバイバルナイフ相手に素手ではどうにも分が悪すぎる。

 クソッ! こんな時、映画やゲームなら都合よく対抗できる武器があるのに、どうして現実ってのはこうなんだ!

 窓から出てぬかるんだ地面に足を下ろすと、ぬちゃりとした嫌な感触があった。……はは、こんな時なのに、どうでもいいことばかり気になるもんだ。

 赤間が外に出るのを手伝おうとする……彼女も無事、外に出る。そして続いて、ひょっとこ仮面が……おい待て! 追ってきてるぞ!

「アイツ、あたしらを殺す気なん?」

 あの赤間が明らかに取り乱している。

「知るか! 逃げるぞ!」

 また赤間の手を取ると走り出した。ぬかるんだ地面にシルエットだけの視界で異様に走りにくい。――だが、するしかない!

 夢だ! これは悪い夢だ!

 そう思いたかった。

 それでも、山の中を逃げる徒労感と追ってくる足音がやけにリアルで――

 俺はこの時、選択を間違えた気がした。

 宿舎からなら、すぐに舗装道路に出られた。それなら走りにくい山中よりもそちらの方が……いや待て、逆に舗装道路では身を隠す場所が……分からない。

「アイツ……見失ったみたいやで」

 赤間の声にハッとする。

 確かに……影は辺りをうろうろするばかりで、なかなか近付いてこない。

「よし……ここで隠れよう」

 俺らは大木の根元、斜面のちょうどくぼんだところに身を隠した。

 俺はさりげなく、赤間を奥の方、自分よりも見えづらい所に押し込む。……馬鹿だ。そんなことをしたって、二人一緒にいる以上、片方が見つかったら同じなのに。

 斜面の下の方からは水音が聞こえる。……この下は確か、谷川だったな。

「なあ……アイツ、近付いてきとらん?」

 確かに、さっきよりも距離が縮まっている。……しまった!

「すまない。ミスった」

「へ? ……何を言うとるん?」

 俺はあることに気付いていた。

「この辺りで、一番隠れやすそうな場所がここなんだよ……つまり……」

「あのひょっとこも、それに気付いとる、ということ?」

 俺は無言でうなづいた。

 殺人鬼、ひょっとこ仮面は、徐々に近付いてくる。焦らすように、ゆっくりゆっくりふらふらと……。

「ごめんな……俺がこんなわかりやすいミスをしたばっかりに……」

「ううん。良いんや……それに、嬉しかったし」

「え?」

 意味が分からない。

「あたし、こんなんやから……男の人は誰も守ってくれん。でも、あんたは――」

「しっ!」

 慌てて赤間の口をふさぐ。もうすぐそこ、小声すら聞こえそうなところまで殺人鬼は来ていた。本当は、この続きを聞きたかったのだが、それは叶わぬ夢となりそうだ。

 俺は赤間の耳元に口を寄せると、本当に小さな声でささやいた。

「俺ちょっと、本気になって……馬鹿なことしてくるから、じゃあな」

 う~ぐ~う~。

 ――やめて!

 彼女の口はしっかりふさいでいたが、何を言いたいのか分かった。

「ううぅおおおおおおおおおおぉあああああああ!」

 俺は殺人鬼に全力でぶつかった。

 幸い、奴はナイフを前に構えていなかったからか、斬られた痛みは感じなかった……いや、単に感覚がマヒしていただけかもしれない。

 俺はそのまま殺人鬼と一緒に、斜面を転がり落ちて行った。


「ん……おはよう、岩瀬」

 翌朝、俺は赤間と同じ部屋で目を覚ました。

 ……とは言っても、何かあった訳ではない。こちらの部屋にはベッドも余っているし、恐いから朝まで一緒にいてくれと言われたから……本当に、それだけだが、誰かに見られたら100%誤解されるだろう。どうでもいいことには敏感なのだ、ここの馬鹿どもは。


 あの後、俺は運良く、斜面の途中で木の根に引っ掛かって止まったが、殺人鬼「ひょっとこ仮面」はそのまま更に下に落ちて行った。あの分だと、多分一番下の谷川まで落ちて行ったんじゃないかと思っている。そして、這い上がってくる気配もなかったから、多分死んだんだろう。……そう思いたい。

 俺がよろめきながら斜面をとぼとぼと登っていくと、赤間が急いで下りてくるのが見えた。

 ――馬鹿な奴。

 ふとそう思った。あれで決着がつかなかったら、俺もお前も殺されてただろが。さっさと逃げてしまえば良かったのに……だが、言えなかった。赤間は泣いていたからだ。

「どうだった? 俺の本気?」

 俺は笑ってそう言った。

「ボケェ!」

 その言葉と同時に、豪快な一発が俺の顔面にヒットした。

 あの……「グー」ですか! 普通、こういう時、女の子は「パー」で殴るもんですよ!

 ああ……やっぱりコイツ、まともな女じゃない!

 とにかく、この時の痛みは、俺は生涯忘れないだろう。悔しい時の痛みよりも、ずっと痛かった。……そんなもの、忘れてしまうぐらいに。


 こうして、俺らは生きて宿舎にたどりついて、朝に至る……という訳だ。

「ああ、おはよ……誤解されそうだし、誰かに見られる前にここから出るからな」

「ちょっと待って、どこ行くんや? そっちは……」

「食堂。のどが渇いたし……茶、飲んでくる」

「ああ、ほんならあたしも」

 結局付いてくるのかよ。……まあ、いいか。

 食堂は、昨夜同様誰も居ない……訳じゃなかった。

「やあ、二人とも。……今日は早くから起きて、気合十分ですね」

なぜか、前歯が欠けて、あちこち破けた黒レインコート姿の教授……はぁ……やっぱりアンタが犯人ですか! 「毒殺未遂」の次は「刺殺未遂」ですか!

「あの……教授? その姿は?」

 赤間が恐る恐る訊く。

「ああ、昨夜……ちょっと失敗してしまいましてね。昨日のカレーに入れた植物、あれは実はアルコールと混ざると強力な幻覚作用をもたらすやつでして……まあ、気付いたのは朝になって、なぜか谷川の川原で目が覚めた時でしたが」

「そ……そうですか。はは」

 俺は引きつった笑みを浮かべる。笑えない。本当に笑えないな……このクソジジイは!

「昨晩、それに気付かずに、軽く晩酌してしまいましてね……でも、楽しかったですよ。若い頃の、彼女と追いかけっこした時の幻覚が見られて」

 それから、思い出したかのように付け加える教授。

「あと、なぜか講師用の寝室に飾ってあったお面まで持ち出していたみたいで……壊してしまいましたが……まあ、あんな物壊したって誰も怒らないでしょう」

 アンタは……若い頃にサバイバルナイフを持って、ひょっとこのお面をかぶって、彼女と追いかけっこをしてたんですか!

 ……あ? そういえばナイフは? レインコートはともかく、どうしてあんな大型のナイフを持ってたんだろうか?

「ただ……惜しいことに、その時に酒のつまみを切るのに使っていたナイフ……お気に入りのサバイバルナイフが、目が覚めたら無くなっていましてね。君たちも見つけたら教えてください。あれは大切な物なので……ん?」

 無言で歩み寄る赤間。そして……

「ええ加減にせいやああぁ! このボケジジイィがぁ!」

 顔面に右ストレートがヒットする音が、豪快に静かな朝をぶち壊した。


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△▼原因不明(心当たり多数)△▼ 異端者 @itansya

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