僕のお父さん

雨土綿水

第1話

 僕には「お父さん」がいる。お母さんはいない。僕はお父さんに貰われた子だ。


 お父さんは最高のお父さんだ。とても大きくて、目も鼻も、口もかっこいい。お父さんのことを、みんなは「いけめん」と言っている。髪の毛は黒くて、長い前髪をおでこの真ん中でぱっくり分けている。頭の後ろの方で、一房だけが何かの尻尾のように跳ね上がっているのだが、僕はそれが気になって仕方がない。時々我慢ができなくなって触ってしまうのだが、怒られたことはない。そんな時、お父さんは僕を膝の上に抱き上げて、「しょうがない子だな」と笑ってくれる。その時にできる目元のや、頭を撫でてくれる大きな手の平が、僕は三度のご飯よりも大好きだ。


 お父さんの朝は早い。

 朝五時くらいに万年床から起き出して、暗くてひっそりとした台所で顔を洗う。そして自分と僕のための朝ごはんを用意してくれるのだ。

 僕は何でも大好きだが、お父さんは和食派だ。台所を右へ左へ動くお父さんのキビキビとした動きを目で追っている内に、食卓にご飯と味噌汁、焼き魚が並んでいく。

 以前、そんな姿を見たお父さんのお母さんが「あなたもいい年齢 としなんだから、朝御飯を作ってくれる人くらい見付けないと」と っていたが、お父さんは何も言わず笑うだけだった。

 僕は知っている。そういう人のことを「奥さん」と呼ぶことを。

 静かにごはんを食べるお父さんを見上げて、つい考え込んでしまう。

 僕はお父さんの奥さんになれないのだろうか、と。

 僕はごはんを作れないけれど、もっと大きくなったらお父さんのためにごはんを作ってあげることもできるようになるかもしれない。そしたら僕を見つめる目元に を作って、優しい手で撫でてくれるだろう。

 そんな事を考えていたら、つい食事がそっちのけになってしまい、お父さんを心配させてしまった。大事に僕を膝に抱き上げて、「大丈夫か」「どこか痛いのか」と頭を撫でてくる。僕が大丈夫だよと言っても、その表情は浮かないまま。どうやってもお父さんに心配をかけてしまう。

 そんな僕がお父さんの奥さんになれる日はくるのだろうか。



 朝ごはんが終われば、お父さんは僕と公園を散歩をしながら、静かな住宅街を抜けて、商店街へ買い物に行く。道行く人やお店の人が、お父さんに声を掛けていく。そんな光景を見ていたら、僕は何だか自分がとても偉くなったような気がした。宝物を見せびらかすように「この人が僕のお父さんなんだよ。カッコいいでしょ!」と、風を切って歩くのはとても気持ちがよかった。



 お昼ごはんは昨晩の残り物か、近所の人が時折差し入れてくれるお惣菜で済ませる事が多い。僕は急いでそれを平らげる。呑気に食べていたら、先に食べ終わったお父さんが僕を置いて、僕のきらいな「仕事部屋」に籠ってしまうからだ。

 大人には仕事というものがあるらしい。お父さんも仕事を持っているが、他の人のように会社というところに行くのではなく、家の中にあるこの和室で済ませている。

 仕事をしている時、お父さんはずっと僕に背を向けて、窓際の座卓に置いた紙と睨めっこをしている。一度覗き込んだことがあるが、たくさんの四角が並んだ紙にズラズラと文字を書いているのを見ただけでは、何をしているのかまでは分からなかった。

「ねえ、これは何をしているの?」

 そう訊いても、大きな手で頭を撫でるだけで教えてはくれない。ただじっと紙を見つめ、何かを書いている。それが寂しくて、過去に一度だけ、お父さんからその紙を取った事がある。ただのつまらないやきもちだったのだが、その拍子に湯呑を倒してしまい、酷く叱られた。いつもは優しいお父さんの目が、野犬のようにキリキリと吊り上がっているのが怖くて、僕はお父さんの頭の尻尾を見つめ、部屋の隅でただ丸まることしかできなかった。その時のイグサの香りを、今でも覚えている。

 時間が経ってから、怒鳴って悪かったと謝られたが、それ以来僕は、お父さんの邪魔をしないようにしようと心に決めたのだ。叱られる事よりも、要らない子だと思われることが怖かった。



 お父さんは和服というものを着ている。月の無い夜空みたいな色の着物だ。

 夜ごはんの後、お父さんはお風呂に入る。僕は風呂上がりのお父さんに抱っこされるのが大好きだ。ホカホカの腕の中は眠ってしまいそうに気持ちがいいし、少し開いた衿元に顔をくっ付ければ、大好きなお父さんの匂いがいっぱいするからだ。

 本当は起きていて、お父さんといっぱい遊んでいたいのに、あんまりにも心地が良くて、結局は微睡んでしまう。そうして気が付けばきらいな仕事部屋にいて、お父さんが「さあ、もう寝ようか」と優しく声を掛けてくれるまで、ただじっと頭の尻尾を眺める時間を過ごすのが日課だった。それが一時間後か、三時間後か、それとも明け方かは分からない。機嫌が良い時もあれば、浮かない顔の時もある。それでも僕を寝床に入れる手は優しいし、一緒に潜り込んで抱き締めてくれる体温は掛け布団なんかよりもよっぽど温かだった。

 でも、僕はこの時間が少し苦手だ。

「寒くないか」

「お前は本当に可愛いな」

 お父さんの微睡みが深くなるにつれて、僕を抱く力が強くなる。

「好きだよ」

「僕の可愛い子」

 頭に唇を寄せ、顎をくすぐり、背中を撫で下ろす。それを何度も繰り返されることが、僕は少しだけ怖いと感じた。何故かは分からないけれど。

「愛しているんだ。どこにも行かないでくれ。────お前だけは」



 僕には「お父さん」がいる。お母さんはいない。僕はお父さんに貰われた子だ。

 お父さんはとてもかっこいい。

 誰よりも僕を大事にしてくれるお父さん。和食が好きなお父さん。「奥さん」のいないお父さん。僕のことを近所の人に「僕の息子です。可愛いでしょう」と毎回胸を張って紹介してくれるお父さん。着物姿のお父さん。お父さんの頭の尻尾。お風呂上がりの匂い。そして眠る前、いつも寂しそうにしているお父さん。

 僕は、そんなお父さんが大好きだ。


     ◇


 「お父さん」と僕が出会って一年が経った。お父さんの目元のや頭の尻尾は相変わらずだが、僕の方は少し変わったらしい。

「一年で随分大きくなったな」

 僕を膝に乗せてニコニコとするお父さんは、この頃とても機嫌が良い。仕事がうまくいっているらしいが、僕には分からない。それでも夜に寂しそうな顔をする事は少なくなったような気がしていた。

「ああ、春の風が気持ちいいね」

 玄関先にやって来たお客さんに仕事の紙を入れた封筒を渡した後で、空を見上げたお父さんがそう呟く。そっと擦り寄ると、屈んで頭を撫でられる。桜の生えた庭。その門扉の向こうを、学校へ向かう子供たちが楽し気に横切って行く。

 僕は学校に行った事がない。お父さんも行けとは言わない。他の子は行っているのにどうしてだろうと首を傾げるが、きっともう少し大きくなったらあの中に混じって学校に通う事になるのだろうと思っていた。



 明くる日。その日はいつもと様子が違っていた。縁側で丸くなる僕の視線の先で、寒の戻りに震える桜が静かにささめいている。

 今日は朝ご飯を食べていない。散歩にも行っていない。買い物だってしていないし、僕の事を近所の人に紹介だってしてくれていない。それどころか、朝起きた時からずっとお父さんの姿を見ていなかった。

 太陽はとっくに真上にいるというのに、どうして。

 不安になった僕は、お父さんを探して恐々と家の中を歩き回った。薄暗い居間、草臥れた客間、万年床の寝室、お風呂やトイレの扉の前、縁側に沿った廊下、玄関、また廊下、真鍮の姿見の前、ひっそりとしたキッチン、勝手口……。そして最後に向かった僕の嫌いな仕事部屋。

 うっすらと開いた襖の隙間から中を覗き込むと、座卓に向かうお父さんの背中が見えた。薄暗い部屋の中、肩を落としている。頭の尻尾も心無しか、いつもより垂れ下がっているように見えた。

 仕事をしているのだろうか。ならば邪魔をしてはいけない。するりと部屋に入り込み、萎れた尻尾を眺めて我慢強く待つ。だが半刻も経てば限界になり、恐る恐るその背中に手を掛けた。すると、ハッと顔を上げたお父さんが、僕と壁時計を交互に見て、大きな溜息を吐いた。

「もうこんな時間か。心配で来てくれたのかい?」

 そう言って頭を撫でてくるが、僕の意識は机の上にある一枚の紙に釘付けだった。いつもの仕事のものではない、ふたつの折り目がついた薄い黄色の紙。何本もの横線があって、そこにはびっしりと文字が書き連ねられていた。

 僕を膝に乗せたお父さんが、その文字を指で辿る。いつも僕を撫でてくれる大きな手や指が、ただの文字を撫でている。

「トオル……」

 トオルって誰? 僕よりも大事な人?

「もう忘れたと思っていたんだけどな。……こんな事になるなんて」

 その瞬間、僕はその紙がどうしようもなく憎らしく思えた。




 桜が散った頃、僕はある噂話を耳にした。

 いつもお惣菜をお裾分けしてくれるおばさんが開いていた井戸端会議。「うちの息子が今度東京の大学に」とか「青井さんちの息子さん、今度ご結婚なさるんですって」「あら、三十代の前にようやく決心なさったのかしら」というよく分からない会話を横耳に通り過ぎようとした時だった。

「そう言えば、桜のお家のご主人、まだご結婚なさらないのかしら。男ぶりはいいみたいなのに」という言葉を聞いた僕は思わず足を止めた。桜のお家のご主人とは、お父さんの事だ。遠くから必死に耳をそばだたせる。

「ああ、あの人はダメよ」

「あら、どうして」

「だってあのご主人ってほら、女の人が駄目って噂だし」

 そこまで聞いて、僕はそっとその場を後にした。アスファルトの上で押し花みたいになっている桜の花びらを見つめながら、とぼとぼと家路につく。

 女の人が駄目って、どういう意味だろう。僕の頭の中はそれでいっぱいで、晩ご飯も喉を通らなかった。


 春の内に、こんな事もあった。

 突然見知らぬ女の人が訪ねて来て、迎え入れたお父さんと揉め事になったのだ。

 綺麗な女の人だったが、だんだんときつくなる二つの目が怖かった。

「あなたの性格も気持ちも分かってる」

「私はそれでもいいって言っているのよ」

「トオル君と離れて何年経ったと思ってるの」

 トオル君。

 その名前を聞いた途端、僕は飛び上がって居間から逃げ出した。

 縁側から臨む庭の灯篭の陰でつくねんとしながら、トオル君って誰だろうと考えていたら、いつの間にか夜になっていた。 

 やがて汗だくになったお父さんが探しに来て、目一杯抱き締められた。

「いったどこに行ってたんだ。急に逃げたりして。沙也加が怖かったのか?」

 今日はきっちりと整えられている衿元。その縁に頬を摺り寄せると、頭に唇が寄せられた。

「沙也加ならもう帰ったし、もう来ないから。こんなに冷えて。さあ、部屋に戻ろう」

 そうか、あの怖い女の人はもう来ないんだ。

 僕はホッとする。

 じゃあ……、トオル君って誰?


 それが、春の出来事。




 初夏。お父さんと僕の生活は変わらない。

 朝ご飯を食べて、散歩に行って、買い物をして。僕の事を自慢の息子ですと紹介して、僕の嫌いな仕事部屋に籠って、二人で夜眠る。目元の皺も、頭の尻尾も相変わらず。けれども、お父さんはまた、夜に寂しそうな顔をするようになった。あの憎い紙を見て溜息を吐く回数が増えた。笑顔が減った。僕を撫でる回数が減った。

 雨の匂いが残る縁側で、冷たいお酒を傍らに置いたお父さんが、僕を膝に抱っこする。

「可愛いな、お前は」

「愛している」

「愛していた」

「振ったくせに」

「どこにも行かないでくれ」

「どこにも行かないよな、お前は」

「会うべきか」

「会わない方がいいのか」

「忘れるべきか」

「お腹が空いたのか? 可愛いな、お前は」

「……会いたい」

 その代わり、口数がうんと増えた。

 大丈夫だよ、僕はここにいるよ。そう言って抱き着くと、前よりも寂しそうな両腕で包み込まれた。ただ、その腕の中はやっぱり温かい。

 僕はお父さんが大好きだ。世界中のどんなものよりも。


 僕とお父さんの生活は変わらない。だけど、花が散って青い葉が茂るのと同じように、変化は確かに訪れていたのだ。




 それは梅雨のある日。

 また知らない人がお父さんを訪ねて来た。今度は男の人だった。

 しとしととした雨が降る中、傘を閉じたその人を見るなり、お父さんは眉をぎゅっと寄せて辛そうな顔をした。

「ごめん、急に訪ねて。手紙の返事、待ってたんだけど」

「ああ、悪いな。……少し、返事に迷っていて」

 そんな二人の様子を、僕は物陰からじっと見つめていた。二人が居間に入っても、そこから動くことが出来なかった。


 僕が動けるようになったのは、お客さんが帰ってからだった。

「また、遊びに来てもいい? 今日は急だったから、今度は一緒に呑みにでも行こうよ」

 そう言い残して帰って行ったお客さん。その後ろ姿をいつまでも見つめているお父さん。いつかの女の人の時とは全然違う雰囲気に、僕は嫌でも理解してしまった。あの人がトオル君なんだって。


 その日の夜、お父さんは初めて僕を抱き締めて眠らなかった。あの黄色の紙────多分これが手紙なのだ────をいつまでも見つめ、そのまま穏やかな顔で眠りに就いたのだ。

 僕の不安を、置き去りにして。




 夏はひとりぼっちが多い季節だった。

 お父さんの様子がどんどん変わっていくのが、その寂しさをいや増していたと思う。

 和服ではなく、洋服。

 和食ではなく、洋食。

 一人で出かけてしまう事が多くなり、僕はお父さんの頭の尻尾ばかりを追うようになった。久しぶりにちょっかいを掛けると、上機嫌な様子で膝に抱き上げられる。

「最近は一人にさせる事が多かったからな。今度どこか遠くの公園に遊びに行こうか。虫取り、好きだろう」

 ワンワンと鳴り響く蝉の声を聞きながら、僕の背中をあやす。その手は相変わらず大きくて温かい。お父さんの顎から落ちた汗が、僕の鼻先にぽつんと落ちた。それは、とても冷たい感触だった。




 盛夏。あまりの猛暑に蝉すらが静まる縁側に、風鈴の音がちりんと響いた。築山の上ではアゲハ蝶が舞っている。

 遠くの公園へ行く。僕はその約束の日をずっと待っている。お父さんに見てもらう為に、庭の桜の木で蝉取りの練習だってした。僕の手脚はうんと伸び、前は越えられなかった高い塀にだって登れるようになったから、もういつだって公園に行けるのに。

 近所の子供たちが学校から帰って来る。その様子を眺めながら、僕はじっとお父さんの帰りを待つ。

 最近のお父さんは、どういう訳かまた浮かない顔をするようになっていた。出掛ける頻度も増え、その度に嫌なにおいを付けて帰って来る。僕はそのにおいを知っていた。僕の嫌いな病院のにおいに違いなかった。

 もしかしてお父さんは病気にでもなったのだろうか。

 心配になった僕は、お父さんの帰宅後、仕事中だという事も忘れて傍に纏わりついた。

 お父さん、病気なの? どこか痛いの? 僕は心配だよ。

 必死に訴えても、頭を撫でられるだけで相手にしてもらえない。

「分かったから、少し一人にしてくれ!」

 それどころか、急に怖い顔になったお父さんに怒鳴られてしまって、僕は飛び上がって部屋の隅に丸くなる。畳から感じる、イグサと黴の臭い。お父さんの頭の尻尾が遠かった。

 また同じ失敗をしてしまった。僕は何て馬鹿なんだろう。邪魔をしないと、あれほど深く誓ったのに。お父さんに嫌われたかもしれない。要らない子だと思われたかもしれない。────また、捨てられる。

「ごめん、ごめんな。怒鳴ってごめん。僕が悪かった」

 泣きながら謝ってくるお父さん。そうだと言うのに、怯える僕はお父さんの腕に包まれても安心する事が出来なかった。




「君、名前はなんて言うの?」

 そう問い掛けられたのは、夏も終わりを迎えるある夜の事だった。僕を真っ直ぐに見つめているのは、あの黄色の手紙の人。お父さんの膝の上で、僕はそっぽを向く。

「あら、嫌われちゃったかな」

「僕以外の人に慣れていないんだ。────それよりトオル、さあ」

 お父さんの手には徳利。黄色の手紙の人の手にはお猪口。

 二人は今縁側で、晩酌というものをしているらしい。

 月の綺麗な夜だった。

「それにしても、見事に乾き物が無いね」

「この子は食べられないからな。可哀そうだろう」

「親バカ」

「なんとでも」

 和やかな二人の上で、風鈴がちりんと鳴る。互いに酌を繰り返し、時に黙り込み、ふと目が合っては、弾かれたように逸らす。

 僕はそんな二人をただじっと眺めている。

 吹き込む風が、風鈴を揺らす。

 月明かりの草むらで、りんりんと鈴虫が鳴いている。

 僕の心も、泣いているのかもしれない。

「あの時は、ごめんね」

 ふと、黄色の手紙の人が謝った。

「いい。人間の感情なんて、当人にだってどうにもできないものさ。あの時は、仕方なかったんだ」

「うん……」

 また風鈴が鳴る。ちりん、ちりん、……ちりん

 お父さんに抱かれる僕には分かる。これはお父さんの心臓の音だ。

「風が強くなってきたね。雨でも降るのかな」

 ふるりと肩を抱く黄色い手紙の人。

「寒いか? なら中に」

 お父さんの大きな手が、その人の背に触れようとする。

 忙しない、鼓動。

「ううん、そろそろお暇するよ」

 その手をさりげなく躱して、黄色の手紙の人は立ち上がった。

「待て」

 突然腰を浮かしたお父さんの膝から、僕は転げ落ちてしまう。びっくりして顔を上げると、お父さんの大きな手があの人の腕を強く掴んでいるのが見えた。

「放して、達也」

 怯えたような細い声がお父さんにそう訴えるが、その手の力は緩まない。

「待ってくれ、トオル」

 お父さんは、とても真剣な顔をしていた。それは、お父さんが僕に見せた事のない顔だった。冷たい板の間で、僕はただただそれを見上げるしか出来ない。

 腕の力が強くなったのか、引き寄せられた黄色の手紙の人がお父さんの胸に倒れ込む。それをしっかりと抱き止めた後で、彼の耳元でお父さんが何を囁いたのか、耳の良い僕には聞こえてしまった。

「行かないでくれ。今夜は、……帰したくない」

「だって、僕は……」

 黄色の手紙の人の言葉を遮ったのが何だったのか、そっとその場から離れた僕には分からなかった。




 秋だ。桜の木も色付き、縁側に出るのは寒くなった季節。

 お父さんの目元の皺も、頭の尻尾も変わらない。僕の手脚は伸びるのが飽きたのか、夏の頃から何も変わっていない。公園での虫取りも、結局は果たされないままだ。

 それでも、大きく変わった事もある。

 朝六時。お父さんがそっと起き出す。掛け布団を浮かさないように注意しながら寝床を出ると直ぐにこっちに寄って来て、口元に人差し指を立てながら僕を抱き上げる。

 今の僕の寝床は寝室の隅にある。すっかり一人寝も板についてしまった。

 キッチンで右へ左へと動き回るお父さん。その背中が嬉しそうで、頭の尻尾がゆらゆらとしている。何だか腹が立って、飛び付きたい衝動に駆られてしまう。

 そんな事を考えている内に、食卓にはご飯に味噌汁、焼き魚が並ぶ。どれも二つずつ。二人の為に用意された食事。

 それにしてもお腹が空いた。焦れた僕は寝室に舞い戻ると、まだ膨らみの残るそこに飛び乗った。

「うわぁ!」

 途端に上がる悲鳴。

「なんだ、君か」

 もぞもぞと布団から這い出した黄色の手紙の人が、僕の方を見て溜息を吐いた。奥さんのくせにご飯も作らないなんて何事だ。早くしろと催促すると、はいはいと笑って抱き上げられる。寝室を出て食卓のあるキッチンへ向かう途中、彼は廊下に立て掛けてある真鍮の姿見の前で寝ぐせのチェックをした。

 今更寝ぐせなんてどうでもいいだろうに。そう呆れる鏡の中の僕は、どうやら猫という生き物らしかった。


 キッチンに戻るなり、僕はお父さんの足に噛り付いてご飯の催促をする。

「分かった分かった。お前、最近少し変だぞ。反抗期かな」

 しょんぼりと僕のご飯を用意するお父さんと、それを見てけらけら笑う黄色い手紙のトオルさん。

 その通り。僕はもう二歳を超えた。何でも猫は一年かそこらで立派な大人だと言うのだから、いつまでも子供ではいられないのだ。

「きっと、ヤキモチを焼いてるんだよ。大丈夫だよ、君の大事なパパを取ったりなんてしないから」

 そう言って僕を膝に乗せるトオルさん。頭を撫でる手は優しいが、とても薄くて細い。膝も骨ばっていて正直寝心地は悪いが、何となく離れる気にはならなかった。

 食事が始まると、途端に静かになる。食事中にお喋り等に興じない、そんな育ちをしてきたのだろう。二人の間に会話が蘇るのは、食後のお茶を啜っている時だ。話題は日々変わるが、今日は空気が張りつめている。

「あのね、達也」

「うん」

「僕、手術を受けるよ」

 突然ごとりと響いたのは、お父さんが湯呑を置いた音だろう。

 ちくたくと、壁時計が鳴る。

 僕は息をひそめて、その音を聞いていた。そして

「そうか……。そうか」

 お父さんの泣きそうな笑顔を見て、最高の結末を知ったのだ。




 季節は冬になった。桜の木もすっかり葉を落とし、庭の築山も灯篭も、今は白い雪の下でひっそりとしている。

 お父さんと僕の生活は、また春のように戻っていた。

 朝は五時に起き、朝食を食べ、散歩がてら買い物をし、近所のおばさんとの世間話に付き合い、風呂上がりのホカホカに包まれて、仕事をするお父さんの頭の尻尾を黙って見つめる毎日。

 トオルさんは今、東京の大きな病院に入院している。時々連絡はあるようだが、手術の日が近づくにつれてその頻度も減っている。それがお父さんを不安にさせているようだ。

 一度だけ、寒い縁側でお父さんが泣いているのを見た事がある。

「死なないでくれ」

 お月様に向かってそう呟くお父さんは、とても可哀そうだった。

 僕は堪らずその膝に乗り上げ、お父さんの唇を舐めた。ぺろぺろと、一生懸命に舐めた。

 人間は、キスをすると元気になるのだ。トオルさんとキスをしているお父さんは、ちょっと腹が立つくらいに嬉しそうだったのだから、きっと間違っていない。

 遮二無二舐めていると、ようやくお父さんの目元に皺が戻る。そして僕を抱き締めて、震える声で呟いた。

「ありがとう、チコ。はは……、これも浮気になるのかな」

 人間はよく分からない心配をする生き物らしい。心配しなくても、僕はもう最高のハッピーエンドを知っている。だってこれは、僕の記憶が語る物語なのだから。


     ◇


 春。硬い蕾が割れる季節。

 商店街から住宅地を抜け、公園を横切り、わが家へと向かう一本道に、ゴロゴロとスーツケースを引きずる軽快な音が響く。

 それは僕の「お父さん」が生涯忘れる事が無いだろう、幸せをもたらす音だった。

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