謎の丸文字

佐藤いふみ

謎の丸文字

 田島は、東池袋東和町会掲示板の2カ所の落書きを iPhone のカメラに収めた。街路樹と植え込みを囲む鉄柵に座る汚い服を着た男がこちらを見ている。空には雲ひとつなく人はまばらで、池袋とは思えないのんびりした午後だ。


 肺炎ウィルスの世界的な流行が街から人を消した。道行く人はマスクで鼻と口を覆い、距離をとっていそいそと通り過ぎる。トイレットペーパーの品切れが解消し、ティッシュもキッチンペーパーも棚にもどってきたが、日本国政府の自粛要請は解除されず、喉元になにかがつっかえたような毎日が続いている。男の視線に押されるようにして、田島はその場を離れた。男はマスクをしていなかった。


 せっかくの掲示板だが、いつも何も掲示されていない。多くの区民はここに掲示板があることさえ知らないだろう。田島がこの掲示板に興味を持つ理由は、奇妙な落書きのせいだった。


 その文字は、昔、女子高生たちの間で流行っていた丸文字に似ていた。豊島岡女子学園の女の子たちが制服で元気に通る道だし、誰かが青春の記念を残しておきたくなっても不思議はなく、ことさら気にもしていなかったのだが、昨晩、入院の準備をしているときに、ふと、あれはなんと書いてあるのだろうと思って、ここへ来た。


 あらためてよく見ると、落書きは日本語ではありえない。たとえば、「お」のようでいて「お」でない文字がある。横棒の下に右下辺がない菱形が横向きにあり、縦棒が横棒の真ん中を通って菱形の下角に繋がっている。菱形の右角には ζ のようなものがぶら下がり、横棒と菱形の間に左右均等に点が打ってある。点と点をつなげれば「ま」にも似る。他の文字は似ている平仮名さえないし、漢字もイメージできない。一番右に、「大」が引っかかったヘルメットのような文字があるが、漢字を連想できるのはそのくらいだ。


 全部で六文字だろうか。落書きは緑のボード部分に黒文字で、茶色の金属枠に白文字で2カ所にあるのだが、どうも同じ文言のようだ。ぱっと見でちがって見えるのは、黒文字のほうはいわば楷書体であり、白文字のほうはいわば行書体だからだろう。白文字のほうは隣り合う文字がくっついて繋がっている。


 田島はちょっと咳き込みながら歩いて、当初の予定通りサンシャイン前のベローチェに入ってインターネットで調査を開始した。「女子高生 丸文字」で検索するといくつか例が出てきた。その名の通り丸まっちくて可愛らしい文字だが、結局のところ平仮名であって、あの文字とは違う。画像からウェブページに飛んでも似た文字はない。あの「お」すらない。


 と、検索画面の右側に文字の表が出てきた。関連する可能性が高い画像として検索エンジンが出してきたものだ。こういうレコメンド機能は普段はわずらわしいばかりだが、たまには役に立つ。いつも心のなかで罵倒していたことを謝罪せねばなるまい。


 画像からウェブページに飛ぶと、それはグルジア文字というものだった。コーカサス地方の文字とのこと。コーカサスは確かヨーロッパの一地方だったはずだ。「お」を探すが、ない。でも丸文字よりずっとおしい。


 ブラーフミー文字というのも出てきた。インド系文字ともいうらしい。こちらの方がさらに似ている。この文字はバリエーションが多く、wikipedia に出ているだけで数十種ある。インドの方言の数だけあるに違いない。期待したが、丹念に見ても合致するものはなかった。


 グルジア人とインド人と、池袋にどちらが多いかといえば間違いなくインド人だろう。西池袋にはインド人のコミュニティがあるし、東池袋にも数件のインド料理屋がある。なかでも南インド料理の名店として有名なAラージは田島もなじみにしている。


 結局どんなに調べても、強引にアルファベットに当てはめることすらできなかった。意味など到底分からない。だけどまあ、書いた人の名前か国名なのだろう。恋人の名かも知れない。遠い異国で、ふと故郷の文字を刻みたくなることもあるだろう。


 そのまましばらく文字に関するページを眺めていると、「世界の文字辞典」という本があることが分かった。豊島区中央図書館が目と鼻の先なので、行って調べてみようと思い立ち、図書館のホームページで蔵書していることを確認した。貸し出しは禁止になっているので大型の本かもしれない。


 早速と席を立ちかけたが、ホームページ冒頭に、感染対策のため書架への立ち入りを禁止している旨が書いてあることに気づいた。予約図書の貸し出しと返却のみやっているらしい。つまり調べ物はできないということだ。


 退院できたらゆっくり調べてみよう、と田島は思った。Aラージにも行って、ご主人に文字の写真を見せてみよう。そっちの方が早いかもしれない。


 Aラージには今日行ったっていいのだが、昼飯はラーメン二郎と決めていた。こればかりは譲れない。入院前に、最後かもしれないのだから、快楽のためだけに作られた食べ物を食べるのだ。今日のお出かけのもうひとつの目的であった。


 田島が息を切らせて到着したとき、二郎の黄色い看板の横にはいつも通り行列ができていた。昼時を過ぎて列は短く、15分で着席。ラーメンが出てくるまで10分。殺伐とした空間に店員の「トッピングどうしますか?」が鳴り響く。


「野菜。油少なめ、にんにく少なめで」と、言葉の区切りに気をつけて、田島は告げた。二郎にしてはホスピタリティのいい店員が朗らかに返事をする。ちなみに、「野菜を多めに入れて。油を少し、にんにくを少し加えて」という意味だ。


 独特の黒い脂身が乗ったラーメンが、否、二郎が出てきた。二郎はラーメンではなく二郎である、とまことしやかに二郎ファンは言う。


 早速、丼の手前に箸をさして麺をひっくり返しにかかる。持参した紙エプロンで自分に汁がかかることはないが、隣に飛ぶかもしれないので、ゆっくりと慎重に、山盛りの野菜の上に麺を乗せていく。これを何度かやるとチャーシューと野菜は汁の中に沈み、麺がむき出しになる。油とにんにくもほどよく回る。


 いつだったか、隣にいた学生がこれを見て、「そうだ、麺を助け出さなきゃ」と友達に言うのを聞いたときには、自分がいかにもベテランのような気がして良い気分だったが、それも随分昔のことだ。その学生とさして変わりがなかった。


 むき出しになって、よい加減に冷めた麺を口に運ぶ。太麺にからんだ油のぬめりがたまらない。醤油とんこつの容赦のない濃い味、炭水化物の甘み、にんにくの香り。うまい! と、口に出すかわりに何度かうなずく。


 麺だけをひとしきり楽しんでから野菜を食べる。麺におされて汁に沈み、柔らかくなる頃を狙うのだ。もやしの土臭い香りとキャベツの甘みを味わう。


 チャーシューはいつも少し怖い。生々しい豚のバラ肉は柔らかいだけでなく、ときに固い部分があり、油は野性味があり、動物を喰っていることを実感するからだ。誰かが殺した命だ。感謝しつつ頂く。


 あとは満腹中枢との競争だ。20分以内に胃に入れなくてはならない。完食も二郎の調味料のひとつだから、残しては余韻が台無しになる。別れた彼女が「手が疲れて食べられない」と言った、ずしりと重い麺を口に運び続ける。


 田島は、病気のことなど忘れて夢中で食べきった。行列を考えればすぐに出るべきだったが、コップの水を飲むだけの時間を頂いて、丼に残ったスープを見つめながら水で口中の油を洗う。


 スープはいつも飲まない。さすがに塩分が気になるし、オールスープした後輩が30分後に腹痛で苦しむのを見たことがあった。奴は医者になった。もう二十年会っていないが、人の死をいくつも見たろうか。否、そういうことじゃない。今日はやけに昔のことを思い出すな。


 ……今日は飲んでみるか。と、田島は思い立った。一度くらい挑戦したっていいだろう。


 めったに使わないレンゲをカウンターから取って、スープに差し入れる。黄金色の汁がレンゲを満たし、口に運ぶと予想より塩が強く、にんにくもかなり辛い。でも、手は止めない。


 意外に残っている麺や肉片を平らげながら、結局オールスープを達成した。あらわれた薄青い底には何もない。ここになんらかのメッセージを入れる店もあるが、二郎はそういうことはしないようだ。もちろん、謎の丸文字が刻まれていることもない。


 そうだ——。


 あの文字が自分だけに見える文字だったら? 俺にだけ、誰かがずっとメッセージを送っていたとか。たとえば異世界の女神なんかが。


 自嘲気味にほくそ笑み、田島は店を出た。富士登山に持って行ったポテトチップの袋みたいになった腹をかかえて中央通りをふらふらと歩く。例の掲示板まで来て、近づいて落書きに触れてみた。


 すると、世界が渦をまいて歪み、気がつくと田島は――その場に、そのままつっ立っていた。そりゃそうだ。田島はまたも不気味に笑んだ。


 高速の下を過ぎてサンシャインの前を通り、裏路地へ入っていく。と、ファミリーマートから作業服を来た男が出てきた。長めの白髪が見方によってはアーティストのようで、左手に弁当のビニール袋を下げ、右手で1リットルのペットボトルをラッパ飲みしている。マスクはしていない。紺地の裾の白いズボンの前面がペンキで真っ白だ。ペンキが謎の丸文字を――描いていない。


 職人さん独特の飄々とした佇まいが、田島に亡くなった叔父を思い出させた。体を動かすことを生業とする人に身につく雰囲気なのだろうか。とてもかっこいいと思う。


 左官屋だった叔父はとっくの昔に煙草を止めていたのに、肺がんで死んだ。がんが見つかって三ヶ月だった。叔父は妻と娘と息子以外の面会を望まなかった。亡くなる直前にひとすじの涙を流した、と、叔母から聞いた。


 男性は暗渠の荻窪通りへ下る道を曲がって、坂の途中の現場に入っていった。その後ろ姿を見送った視線の先に椿の花が落ちていた。見上げると深緑の硬い葉をつけた枝が張り出している。田島はしゃがんで花びらを一枚ずつめくって確かめたが、謎の丸文字はどこにも見つからなかった。



 了

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