無意識の中の誘惑と、脈略の無い僕の結末
蒼
無意識の中の誘惑と、脈略の無い僕の結末
列車が駅に着いた途端、僕はコンパートメントの窓からホームへ飛び降りた。列車内外の乗客らが騒ぐのも無視して、出口に向かってひた走る。
高い高い天井に、汽車の汽笛と駅員の怒声が響く。ここは、カトリックの教会を彷彿とさせる、やたらと巨大で荘厳な雰囲気の駅である。照明は必要最低限で、構内は薄暗い。ただ、天井近くにある大窓から、時間帯の読めない仄かな日光が差し込んでいるだけだ。
そんな駅の中を、僕は駆けていく。まるで何かから逃げるように。
いや、実際、僕は逃げているのだろう。めちゃくちゃに足を動かしている割には、思ったようなスピードが出ていない。足を鈍らせているのは、じわじわと蝕んでくるような、この漠然とした恐怖だろうか。
それでも、なんとかホームの出口には辿り着く。中継の踊り場が一つもない、長いエスカレーターがずっと上まで続いている。どこに繋がっているのかわからないが、逃げるためにはここを昇らなければならないことはわかっていた。エスカレーター上の他人を押しのけるようにして進もうとして、そこで、気付く。
辺りに、煤煙交じりのキャラメルポップコーンの香りが立ち込めている。次の瞬間に思い出す、僕は放浪者だ。天涯孤独に迷い続ける哀れなる者。
そして僕はいつの間にか、ビルの屋上にいた。
この場所はよくわかる。大メソポタミア帝国が銀河に誇りし、霊験あらたかなレゴブロックの塔。その最塔頂に設置された、世界円卓だ。卓はリノリウム製だが、その他はすべて硬く色鮮やかなレゴブロックで構成されていて、磯に広がる尖った岩場さながらに、無秩序な色合いと形をしていた。
少し痛そうだが、座ることにしよう。ワクワクしながら辺りを見渡す。僕は今日、ずっとここに来ようとしていたのだろう。間違いない。この大切な会議に出席しようとしていたのだ。数分前自分が何を考え何をしていたかなど、もうどうでもよい。
収まりの良い空間を見つけた僕は、迷うことなく腰を下ろした。
「やあ、こんにちは」
座ってから、周りに人がいることに気が付く。少々、自分の考えに没入し過ぎていたらしい。右隣から声をかけて来てくれたのは、電信員のモリサキだった。コック着姿に革の腰帯を巻いている様は、いかにも電信員らしい。
「こんにちは、モリサキさん」
「ええ、こんにちは。お元気そうですね。遅れてしまうのではないかとヒヤヒヤしていましたよ。何かあったんですか?」
「車掌がオリエント急行されたとかで、列車が遅れやがりましてね。取り敢えず僕もみんなに同調して、どうにかこうにか時刻通りに。いやぁ、流石に焦りましたよ」
ああそれは大変だ――モリサキはしみじみ言い、やがて居眠りを始めた。相変わらず面白い人である。僕は左隣のドラゴン伯爵夫人と一緒になってモリサキを見、ニヤニヤと笑う。
すると突然、皆既日食が始まった。
途端に僕たちは居住まいを正す。そして、がら空きだった円卓の正位置の、空いた王座を見遣る。モリサキもいつの間にか起き上がっていた。
「初めまして、諸君。久しぶりであるな」
ダイヤモンドリングの煌めきと共に王座に現れたのは、豊かなひげを蓄えた三本腕の老人。筋骨隆々の身体にローマ人みたいな服を着て、ナイキのスニーカーを誇らしげに履いている。ここ大メソポタミア帝国の王、スミス氏だ。
「いよいよ、この時が来た」スミス氏の声がゴロゴロと響く。「諸君、まずは下を見てくれ。幸運を噛み締めようではないか」
氏の言に従い、僕を含め、屋上にいた十余名の人間は塔の下を覗いた。思わず唾を飲み込んでしまうほど小さく見える地上では、メソポタミア帝国民の操る自動車が縦横無尽に次から次へと道を行き交っていた。どれもカラフルな塗装の車なので、この塔を構成しているレゴブロックと、正直あまり見分けがつかない。
「彼らはまだ幸せにはなれない」
スミス氏が声を張り上げる。普段の彼は寡黙だが、今日はやたらと声量が大きい。帝国民の操る車の走行音が、ザアザアとうるさいからだろう。
「だが、これより我々は究極の自由の境地へ赴く。放浪者から隠者に昇格する。これは大変名誉なことだ。なにせ、積み上げられた無数のその他大勢の中から選ばれたのだから」
あっちこっちから拍手が起きる。まるでコンサートホールの中のようだ。僕も、痛くなるまで両掌を叩き合わせ続けた。
「親愛なる同志よ! 統一感を出すために、今一度事態の説明をしてもよいのでは⁉」
ここで声を上げたのは、対面の席に座る僕の父だった。
我が父ながら素晴らしい提案だと思う。実の息子たる僕以外からも、父に称賛の拍手が送られる。
「うむ、いいだろう」スミス氏はこほん、と咳払い。「……我々は太陽神によって選ばれた。日食が終わると、我々は窮屈な肉体から解き放たれて、世界と一体となる。どこにでもいて、どこにもいない。いつでも意識できるが、いつも意識できない。無意識と有意識の間を自由に揺蕩い、世界のあらゆる事柄に影響を与える――素晴らしいではないか!」
三度拍手が巻き起こる。しかしそれを遮って、父がさらに声を上げた。
「高貴かつ親愛なる同志よ! ではなぜ我々はそれを望むのでしょうか! できれば、これを見ている我らの
円卓内に小さなざわめきが起こる。僕は、何をしているんだ、と半ば非難じみた視線を父に送った。先ほどの説明に納得しないばかりか、あろうことか大王に口答えにも似た要求をするとは。しかし、流石は大メソポタミアの王。黄河を統べる者。その心は、アマゾン川の流域面積より広いようだ。スミス氏は顔色一つ変えずに答えた。
「集合体で個別、自由かつ束縛、都合よく自由にして不都合はない。これぞ広く人の望むべき祝福だからだ」
おお、と円卓から感嘆が溢れる。流石は大王だと、僕を含め皆口々に褒め称えている。だが、父はそうではなかったらしい。
「……ふむ。唯一で高貴な親愛なる同志よ。それでは、民草はどうにかなっても、外からの理解は得られませんでしょう。かくいう私もその一人でしてな……並ぶ者なく唯一で高貴な親愛なる同志よ、もっともっとわかりやすくお願いしたいのです」
円卓からは、先ほどよりも大きなざわめきが生まれた。机に片足を乗せて叫び散らすビットリオ大棟梁婦人伯爵のように、直接的に父を非難する者も現れた。父は婦人伯爵の触手で頬をぺちぺちと叩かれている。息子である僕に向けられる視線も痛いものになりつつある。
それでも、相変わらず大王は動じない。
「都合よく不都合のない、個別にして集合的な自由のことだ。煩わしさのない自分勝手な自由といえば、きっとわかるであろう」
何度聞いても、これ以上の説明はない。大学の倫理の授業の数千光年分わかりやすい。大王は完璧だ……それなのに、なぜ父はこんなに反抗的なのだろう。恥ずかしいし、周りの視線が痛いからやめて欲しい。
本当にいい加減にしてくれ、僕は面倒くさいアレコレのない自由な世界に行くんだから。真意の読めない友達や恋人からサヨナラして――。
あれ?
僕は天涯孤独。身寄りなどない放浪者のはず。どうして友達は恋人なんて、愚かしくて無駄なだけの鎖のことを思い出すのだろう。どうして物悲しいのだろう。
何より、どうして僕の目の前には父がいるのだろう。
僕は、急に訪れた混乱の解決策を求めるように、対面の席に座る「父」を見た。
漫然とした態度で佇んでいた彼は、僕の視線に気付くとにやりと笑った。
「ああ、絶対的で並ぶ者なく唯一で高貴な親愛なる同志よ。私は『わかりやすく』と言ったのです。抽象的に言われても何一つわからないのです。真に頭の良い人間は、誰でもわかる言葉で簡潔に説明するのですよ――難しい言葉を使いたがる子供かってのアンタは。わかりやがりましたか、頑固で孤独で独りよがりで勘違い野郎な同志クソッタレ殿?」
会場は噴火したかのような怒気に包まれた。しかし、僕はその中に加わることはなかった。口々に叫ばれる僕や父への罵詈雑言は耳に入らず、僕はただ、勝ち誇ったかのようににまりと笑う父の姿に釘付けになっていた。
その時、日食が最期の光を放った。円卓は水を打ったような静けさに包まれる。
「――時は来たれり」
頬杖を突いていたメソポタミア大王が口を開いた。同時に、僕と父以外の参加者の身体が眩く光り出した。
「ああ、愚かなる親子よ。昇華への希望から心が離れたのだな」大王の声は質の悪いスピーカーを通したようだ。「今に後悔するぞ。それに、息子はまだ自由への望みを捨て切っていないようだ。きっと夢から覚めることはない」
「いいや、そんなことはないさ。俺の息子は立派な奴だ。ちゃんと現実に向き合って生きていける」
何を根拠にしているのか。父は相変わらず勝ち気な態度で、発光して輪郭が曖昧になりつつある大王に言い放つ。そして、混乱して立ち尽くす僕の腕を引っ掴み、円卓から離れた。
残された大王たちの光を少し遠くに感じた時には、僕は既に停車中の列車の中にいた。窓の外、ホームには父の姿がある。
「あの、父さん。今のは一体……」
「ん? ああ、詳しくは説明しにくいんだが……まあ、夢でも現実でも、辛い時には変な奴が心に付け入ってくるってことさ――お、もう時間だな」
父の視線を辿ると、そこにあるのはホームに立つ電光時計。時間は五時百十九分と表示されていた。汽車が蒸気を勢いよく吐いて、汽笛をけたたましく鳴らす。
「さあ、もうお別れだ。母さんによろしく頼む」
列車が動き出し、ホームに立ち尽くす父が遠くなる。僕はコンパートメントの窓から顔を出して、その姿を辿った。
「元気でな――ミツル」
どこか寂しさの籠った父の声がそう頭の中で響き、駅が忽然と消え失せて。
「――――っ‼」
目が覚めた。どうやら、レポートを仕上げている途中で眠ってしまったらしい。キーボードの角に当たっていたと思しき顔の部分が痛い。
……色々考えたいことはあるが、とりあえず、喉が渇いたのでキッチンに行こう。
動きの悪い足でどうにか階段を降りると、リビングでまだ母が仕事をしていた。「あら、お目覚め?」と、からかうような声が僕に向けられる。
「変な夢見ちゃってさ」牛乳をコップに注ぎ、一気にあおる。「父さんが出て来たよ」
「へぇ……あの人が。何か言ってた?」
母はパソコンに向かったまま、興味があるのかないのかわからない調子で尋ねてくる。隠しごとが顔に出やすい母だが、今はソファに深々と腰かけた彼女の背中しか見えない。
「なんか、励まされた。よくわかんないけど、現実逃避するなってことだったのかも。あ、あと、母さんにもよろしくって言ってた」
「なにそれ、変なの」
本当に変だ。現実味皆無な、全くもって意味の分からない夢だった。
どこだよ、大メソポタミア帝国って。「世界に誇る霊験なんちゃらなレゴブロックの塔」って何。電信員のモリサキとかドラゴン伯爵夫人とか誰だよおめーらキメェよ。もう具体的な内容は薄っすらと忘れかけているが、二度と見たくない。
まさしく悪夢。寝落ちした時なんかに見る、気持ち悪い変な夢だ。今回は妙なリアリティがあったせいで、まだ少し混乱している。「ここはVR世界なんじゃないか」というような、SF創作や禅宗にありがちな不安が心を過る。もちろん現実的に考えて、そんな不安が的中するはずないのだが。
というか、あんなヘンテコな夢を見るあたり、僕は結構疲れているらしい。
それでも……ややこしくて大変なことばかりの現実だけど、もう少し頑張ってみよう。
写真立ての中の父に笑いかけると、僕はスマートフォンを取り出し、溜まっていた友達や彼女からのメッセージに返信を始めた。
しばらく経って、母が伸びをして立ち上がった。仕事がひと段落着いたようだ。
「寝るの?」
スマホに視線を注ぎ、こじれた会話の返信に苦戦しながら母に尋ねる。指が疲れてきた。
「うん。ミツルは?」
「もう少し起きてるかな」
「そう。まあ仕方ないわよね、明日はまた太陽の選別会だし。あんた、ずっと解放されたいって言ってたものね、メソポタミアの神々に気に入られるといいけど」
「――え?」
聞き覚えのある不穏な単語に、僕は顔を上げて母を見た。
普段通りの母だ。上半身は。
腰から下は、木の根っこのような八本の触手に変貌していた。
何が起きているのか。混乱は一瞬、僕はすぐに理解した。
煤煙交じりのキャラメルポップコーンの香りが、またゆっくりと香り出していた。
無意識の中の誘惑と、脈略の無い僕の結末 蒼 @Tues_821
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