恋と土星
春雷
恋と土星
「恋は誰か一人(あるいは複数人)を選び取るということだ。それはつまりその他大勢を選ばないということだ。恋とは案外残酷な行為なのかもしれないね。
そもそも両思いになるということは、確率としておかしいことだ。自分が好きな相手がたまたま自分を好きになってくれるなんて、実際おかしな話だよ。人は自分に好意を持ってくれた人間に対して、好意を持つ。その結果両思いになるだけだ。そうだとしたら、人に純粋なる意思というものは存在しないと言えるかもしれないね」
「暗いなあ、考えが」
「でもそう考えられるじゃないか」
「恋は理屈じゃないよ」
「いや、世界は理屈でできている。恋も理屈で説明可能なはずだ」
「君は本当の恋をしたことがないだけだよ。稲妻が落ちたようなあの恋の衝動。あれは理屈を超えた何かなんだよ」
「理屈は超えるものではない。論理的に築き上げられた」
「わかったよ」
僕らはドトールコーヒーで議論を交わしていた。僕も彼も大学生で、文学部の学生だった。
「結局君は恋愛経験の少なさを理屈で誤魔化そうとしているだけなんじゃないか。君は本当は佐野みたいに恋愛にうつつを抜かすような人間が羨ましいのだけれど」
「佐野の話はするな」
彼は僕の話をぴしゃりと遮った。どうやら佐野が嫌いらしい。いや、羨ましさの裏返しかもしれない。
「では君は恋とはすなわち何だと思うのかね?」
「うーん。恋とは恋じゃないのかな。定義づけなんてナンセンスで、空が空であるように、海が海であるように、恋は恋でしかない。僕はそう思う」
「君は細かく分析や分類をしようと思わないのか。君は大らかな人間だと友人たちは評するだろうけども、実際、君は楽観的に過ぎる人間で、あまり深く物事を考えない、ただの思考停止をした人であると言えるのではないか」
「言うねえ。まあそうかもしれない。でもそうではないかもしれないよ」
「君だって誤魔化しが上手いじゃないか」
「お、恋の理屈は誤魔化しだったと認めるのかい?」
「あ、いや、それはその」
彼は口籠った。痛いところを突いてしまったらしい。僕は彼のそういうところが好きだった。何というか、照れ隠しをしてしまうような、彼のその人間らしい部分が。
「君は好きな人がいるの?」
僕は彼に尋ねた。すぐに返答がなかったので、僕はコーヒーを一口飲んだ。それでも返答がないので、僕は窓の外を眺めた。忙しなく車が行き交っていた。システマチックに人々が行動していた。確かに理屈も大事かもしれないな。
「いない」
彼は呟いた。おそらくいるのだろう。僕に本当のことを言うかどうかで迷っていたのだ。彼は理屈を作らないと行動できないから、判断がとても遅い。そのため、僕なんかでもわかるほどに嘘が下手だ。
「どんなタイプが好きなの?」
「だからいないと言ったろう」
「自分の好みの傾向くらいはわかりそうなものじゃないか。君は分析が得意なのだろう?自己分析もお手の物だと思うんだけど」
「いや、それとこれとは話が別で」
僕は笑いを堪えるのに必死だった。そう真面目に取らなくてもいいのに。ただの雑談だし。
ちょっと沈黙が流れた。僕はこの沈黙が嫌いじゃない。黙ったまんま流れる穏やかな時間が、とても心地よく感じられるのだ。まるで滝を眺めているような、そんな心地がする。頭を空っぽにして、時間に身を委ねる。それは素敵なことだと僕は思う。
「素直な人が好みかもしれない」
しばらく経って彼がぼそぼそ言った。僕はまた笑いそうになった。彼は正直な人なんだろう。冗談で誤魔化すとか、全然違う話題で逃げるとか、お前はどうなんだと僕にやり返すとか、そういうことができないのだ。彼のその正直さは、ある意味羨ましくもあった。
「素直な人ね。嘘がない人ってこと?それとも感情豊かで、自分の思っていることを何でも言う人?あるいは自分のやりたいことにまっすぐな人?」
「さあ、どうだろう」
また沈黙が流れる。彼の頭の中はフル回転していることだろう。頭の中は激しく渦巻いているはずだ。
「いや、僕は他者に対する好意を持ち合わせることに懐疑的で、恋というもの自体に疑いの目を向けている以上、誰かに恋心を抱くと言うことを錯覚だと認識しているから、そのため僕は僕の感情に関して」
「君は表面はひねくれているけど根は素直で正直だ。だから純朴な人に好意を持つのかもしれないね。例えば、笠川さんみたいな」
彼の顔が真っ赤になった。僕の勘は意外と鋭いのかもしれない。彼の好きな人を当てたらしい。まあ、彼はよく笠川さんの話をしていたし、彼女のことを目で追っていたから、簡単な推理だったんだけど。勘を使うまでもないか。
「今度笠川さん僕らのサークルの飲み会に参加するらしいんだけど、一緒に行く?」
「いや、僕は人が大勢いる場所が昔から苦手なんだ。それに飲み会なんてただ大学生が戯れたいだけの何の益も生まない、快楽に溺れた人間の汚れた部分の集合体じゃないか。下心を持った人間同士が様々なテクニックを用いて誰かの純潔を奪おうと必死になっている、いわば猛獣の集まりだ。それに」
「行かないってことね」
「まあ、そうだな。行かないかもしれない」
興味はあるみたいだな。やはり笠川さんが気になるのか。いや、そもそも飲み会に興味があるのかもしれない。
「じゃあ、例えば僕と笠川さん、そして君の3人で飲むとしたら、君は行くかい?」
彼は考え込んだ。そして、
「興味深いな」
と言った。研究の話をしているみたいに。
「どちらかと言えば前向きな方向に傾いていると言えるかもしれない」
「ややこしいな。行きたいってことだろう」
「端的に言えば、まあ、それに近い」
「行きたいとはっきり言ったら、セッティングするけど」
彼は稲妻が走ったかのように、驚いた顔になった。目を大きく見開き、僕を見た。そしてそのまま硬直した。
僕は彼の返答を待った。
「行きたい」
僕がコーヒーを全部飲み終えた頃、彼はそう言った。
約束通り、3人での飲み会を開くことにした。僕は色々と計画を練った。ドタキャンをしようかとか、途中で抜けようかとか、とにかく2人きりでいる時間を作ってあげようと思ったのだ。
でも一方で、2人きりになって変なことを口走ったりしないかとか、そんな不安もあった。いきなり2人きりは彼にとってハードルが高すぎるかもな、とも思った。どうするべきか。僕は考えを巡らせた。
とうとうその日が来た。僕は状況を見て、2人きりにさせるかどうか、判断することにした。
飲み会は半個室になっている居酒屋で行うことにした。比較的最近できた居酒屋で、品も悪くないし、彼も気持ちよく飲めるだろう。席はカーテンを下ろして仕切ることによって、個室に近い形になる。
その居酒屋は街のメインストリートの辻道にある、ビルの3階にあった。僕は彼とビルの近くのコンビニで待ち合わせた。作戦を練ろうと言うわけだ。笠川さんには少し遅れた集合時間を伝えているため、作戦を練る時間は確保してある。
「どうする?」
「どうするも何も、僕はいったい何の話をすればいいのか、まったく見当もつかず、何だか勢いに任せてべらべらと変なことを口走りそうで、しかし」
「もっと気楽に。笠川さんは優しい人だから、きっとどんな話題でも興味を持ってくれるよ」
「しかし、だよ。僕の好みが必ずしも彼女の好みと合致するかどうか、その点については何の確証もない。僕は彼女の好みも知らない。だから話題提供には慎重を期す必要があると僕は思う」
「笠川さんは音楽が好きみたいだよ。日本のバンドが好きだって」
「どうしてそれを」
「この前の飲み会で聞いたんだよ」
「なぜもっと早く言ってくれないんだ」
「無理に合わせる必要はないよ。ありのままの君を見てもらわなくちゃ。背伸びしてやる恋愛もいいのかもしれないけど、疲れるよ。君は等身大の自分を笠川さんに見せるべきだと思うんだ」
「いや、でも他者に寄り添ってこそ相手の好意を得られるという」
「相手の目を見てちゃんと話を聞いてあげる。今はそれで十分さ。もし相手の好きなものに本当に興味が湧いたのなら、それはそれで素敵なことだと思うけどね」
「目を見る。僕にできるだろうか」
「その点は努力してもらわなくちゃ」
「努力。そうだな。努力、努力、努力・・・」
「大会に出るわけじゃないんだから、そう気張らなくていいよ」
「大会と言えば、オリンピックの起源は古代ギリシアで」
「現実逃避している場合でもないよ。ほら、笠川さんが来た」
笠川さんはすらりとした、格好いい女性だ。でも性格は素直で、厳しいところもあるけど、優しくて、思いやりのある人だ。僕は、彼と笠川さんは良いカップルになるのではないかと思う。
「来てくれてありがとう、笠川さん」
「面白そうだしね。君とはちょっと前に飲み会で一緒になったけど、彼とは初めて飲むから、楽しみにしているわ」
「あまりハードルを上げないでくれよ」
彼のことを思って、そう言った。しかし、彼は笠川さんにこう言い放った。
「忘れられない夜にします」
彼は混乱しているようだった。僕と笠川さんは顔を見合わせて笑った。
乾杯をして、注文した品をつまみながら、僕らは話をした。
「笠川さんはお酒は強い方?」
「そうでもない。すぐに顔赤くなっちゃうし」
「そうなんだ」
「意外?」
「本音を言えば」
「君はどうなの?」
「僕は普通だよ。強くもないし弱くもない」
「そう」
「意外?」
「全然」
僕は笑った。そして僕の横に座っている彼を見た。彼はビールの泡を眺め続けていた。顕微鏡を懸命に覗き込んでいるみたいに。
僕は彼に酒が強いかどうか聞いた。
「いや、まあ」
彼は口籠った。笠川さんが彼にどんなお酒が好きか訊くと、
「実は、今日初めてお酒を飲むんだ」
と言った。
「それなら、無理しないでね」笠川さんが言う。
「いや、でも場の流れとか雰囲気とかを考慮すると」
「もうそんな時代じゃないよ。第一そんな格式ばった飲み会じゃない。好きなようにしていいんだよ」僕は言う。
「いや、しかし」
「もう『いや』と言うのは禁止だ。『いや』と言うたび君に何か話をしてもらうぞ」
「いや・・・」
彼がしまったという顔をした。僕と笠川さんは笑いを堪えるのに必死だった。
「言ったね。何か話をしてくれよ」
「でも、僕はそのルールを承諾したわけじゃ」
「場の流れを気にしてた人の発言じゃないわね」笠川さんは笑っている。
「でも好きなようにしていいと」
「『でも』も禁止にしようかな」
「それは困るよ」
僕と笠川さんはまた笑った。彼の本気で困っているような様がおかしかった。
そのまま話は終わりそうだったのだが、彼は話をし始めた。
「三年前」
「本当に話すの?」笠川さんは尋ねる。
「でも、話せって」
「まあ、話したいのなら話していいよ」僕は言う。
「じゃあ、話す」
彼はビールを一口飲んだ。そして話し出した。
「三年前、僕が今よりずっと世間知らずだった頃、一度だけ友達とナンパというものをしたんだ」
「それは初耳だな」
僕はそう言った。彼は話を続けた。
「高校生だからたいしたことはできない。ただ一緒にファーストフード店でお茶しようと言う程度だ。僕は嫌々ついて行ったんだ。友達が強引だったから。
それで、何人にも断られ続けたんだけど、一組だけ成功した」
「へえ」笠川さんは興味津々だ。
「2人の女子高生だった。私立高校に通っている友達同士だと言っていた。合コンのような感じで4人でテーブル席に座り、色んな話をした。まあ、僕はあんまり話せなくて、テーブルばかり見ていたけど」
緊張している彼の様子が目に浮かぶようだ。
「僕がトイレに行っている間、友達は一方の女の子とデートに出かけたみたいだった。テーブルには女の子が1人で座っていて、コーラを飲んでいた。僕は困った。何を話したらいいのだろう。
黙って席に座り、またテーブルを眺めていると、彼女が話をし始めた」
そこで彼は言葉を区切った。そして言った。
「彼女は、自分が土星出身だと僕に言ってきたんだ」
「土星?」唐突な言葉に驚いた。
「大昔にそんなことを言ったいたミュージシャンがいたわね」笠川さんは冷静だ。
「うん。僕もおかしいと思った。だから、僕はつい反論してしまった。当時はとんがっていたし、寛容さに欠けていたから。それに頭が混乱していたしね。僕は彼女を論破したんだ。土星で生まれ育つなんて不可能だと。
すると、女の子は泣き出した」
僕らは黙って彼の話を聞き続けた。
「僕は困ったけれど、正直、相手を打ち負かした優越感がないわけではなかった。荒唐無稽な話を許すことができなかったから、悪を成敗したような、そんな気持ちになった。
でも、時々このことを思い出して、思うんだ。
僕は間違ったことをしてしまったんじゃないかって」
彼はビールを飲んだ。顔が赤くなっている。酔いが回り始めたのだろう。
「今では、彼女の話を信じてもいいと思っている」
僕は彼の顔を見た。涙ぐんでいた。僕は何も言えなかった。適切な言葉を思いつけなかった。笠川さんも黙っていた。
僕はこの沈黙は、どんな沈黙よりも意味があると思った。僕の今まで生きてきた中で最も意味のある沈黙だった。
二軒目に行こうとも思ったが、彼があまりに酔っ払っていて、今にも倒れそうなので、解散することにした。ビルから出た時、懐かしい匂いがした。地面を見ると、少し濡れていた。雨が降ったみたいだ。
「楽しかったわ。また飲みましょう」
笠川さんはたぶん心からそう言ったのだと思う。
彼の肩を持ちながら、夜の歓楽街を2人で歩いた。
「ああ、何だか変な心持ちだよ。自分が自分でないような、そんな感じだ。徹夜明けに特有の浮遊したような心持ちというか、そんな感覚がある」
「それが酔っているという状態だよ。気持ち悪くなったら言ってくれよ。水を買ってくる?」
「いや、大丈夫」
そう言った後、彼は口を押さえた。失敗を隠そうとしているみたいに。僕は彼が吐きそうになったのかと思った。でもそうではないみたいだった。僕は飲み会での話を思い出し、彼の行動の意味について理解した。真面目だなと思った。
「もう、話の持ち合わせはないんだけど」
「じゃあ代わりに質問に答えてくれよ」
「ああ、すまない」
僕は苦笑した。僕が悪者みたいだよ。
「今日の飲み会、楽しかった?」
「楽しくないと言えば、嘘になる」
「笠川さんとうまく話せたと思う?」
「思わない。というより記憶があまりない。混乱していたし、緊張していた。彼女に対し、適切な言葉選びをできたかどうか、検証したいのだが」
「笠川さんは気を悪くしている様子はなかったし、大丈夫だよ。楽しかったと言っていたし」
「彼女は非常に優しい人だから、気を使わせてしまった可能性も」
「ない。これだけは断言しよう」
「そうか。そう、かもな」
「かも、じゃない。そうなんだよ」
「・・・うん」
夜風がとても気持ちよかった。
空を見上げた。星は街の明かりでほとんど見えなかったけれど、まったく見えないことはなく、綺麗な光をこの惑星まで届けていた。
太古の光だ。
「なあ、星は何を思っているのかな」
「星に感情はない」
「そう思う?」
彼は黙り込んだ。僕はてっきり気分が悪くなったのだと思った。
「いや、あるかもしれない」
僕は微笑んだ。
恋と土星 春雷 @syunrai3333
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