最終話 新しい世界(下)

 考えてもみれば、ここは僕らの常識が及ばない世界なのだ。そうでなくとも知らない土地だ。よくわからない病原菌がいたとしても、なんら不思議ではなかった。

 日に日に、イオリの体力は低下していき、やがては完全に寝たきりとなった。起きあがることさえかなわない。楽しみにしていたお風呂――これは海岸の石を、イオリが加工して作ったものだ――に入ることだって、今ではできなくなってしまった。

 獣のように荒く、それでいて不自然なくらいに長い息。血でも混じっているのか、その色は僕の目には赤く映った。

 僕は自分の怪我なんか全く気にせずに、毎日イオリの好物を運んだ。初めのうちこそ、喜んで食べていたイオリだったが、やがては要らないというようになった。僕の体が壊れてしまうと、そういう理由だった。

 でも、それは表向きのものだろう。僕にはイオリの行動が、自分の死期を悟ったからなのではないかと、そのように思えて仕方がなかった。そんなものを認められるはずもない僕は、余計に意地になって運んだ。そんなことをしたって、イオリの病気がよくなるわけでもないのに、馬鹿みたいに僕は同じことをくり返した。

 やがて、イオリの体は、顔色こそ悪いままなものの、小康の期間を迎えたようだった。それが最後の猶予だとは気がつかず、僕は治ったのだと、無邪気にイオリの回復を喜んだ。今にして思えば、このとき、イオリが困ったような笑顔をしていたのは、僕のはしゃぐ様子に呆れていたのではなく、どうやって真実を伝えればよいのかと、悩んでいただけだったのかもしれない。


「魔法を教えてあげる。きっと、今のままじゃ不便だろうから」


 ある日、イオリは僕にそう言った。別段、僕自身は不自由さというものを、感じてはいなかったのだけれど、イオリがそう言うのであれば、わざわざ断る理由もない。

 僕が教えられたのは、ちょうどイオリが、レーザーもどきを作るのに取ったもの、すなわち、魔法を凝縮させる方法だった。僕とは違って、イオリの説明はとても上手だった。それならば遠隔魔法のときも、素直に教えてくれればよかったのに……と、そう思わないでもなかったが、あのときの僕とイオリは、こんなふうに何かを伝えあうほどには、親しくはなかったはずだ。

 そうして、僕が一とおりの技術を教わった頃に、再びイオリの体調が悪化した。いくら鈍感な僕にも、これはもうダメなんじゃないかと、そう思えて仕方がなかった。


「そういえば、あんたって私のこと好きだったでしょ。私もさ、けっこう楽しかったよ。あんたといて」


 寝床でそう話すイオリの姿に、僕はもう震えが止まらなかった。普段の僕であれば、みっともなくキョドったことだろうが、事情が事情である。異様な事態が何を示しているのか、嫌でもわかってしまった。僕はそれを止めたくて、でも、そんなことできないとわかっているからこそ、代わりに大声で、イオリの言葉をかき消そうとするのだ。


「なんで! なんで、そんなことを急に言いだすんだよ! 僕のことなんか大嫌いだって、そう叫んでいたじゃないか! そんなものは要らないから、また、あのときみたいに元気なイオリに戻ってよ!」

「要らないって……傷つくな」


 そう言って、イオリは僕の顔を覗きこもうと、ゆっくりと顔をこちらへと向けだ。だけれど、中々に焦点が合わないようで、何度も眉をしかめている。見えないのではない。イオリによれば、それは見えすぎてしまうのだという。驚くべきことだが、遠く離れた海の向こうにまで、焦点が合ってしまうそうなのだ。


「どうしようもない世界だったけれど……うん。今は、そうだね。もう少し、この世界を見てみたいな」


 イオリが手を伸ばす。僕の知らない世界へと向かって。それを追うようにして、僕がゆっくりと視線をずらしたとき、ひっそりとイオリの赤い呼吸が止まった。







 それからしばらく、僕は何も手につかなかった。比喩ではない。ただずっと、あのときと同じ姿勢のまま、イオリが知っていた景色を、自分でも見ようとして、闇雲に視線をさまよわせていた。そうしていないと、どうにかなってしまいそうだった。隣にあるイオリの体からは、怖いくらいになんの匂いもしなかった。ただ少しずつ、この世界に溶けこむようにして、体が透けていくだけだった。

 そんな中でも、腹の虫は容赦なく鳴った。それがまた悲しくて、悔しくて、情けなくて……仕方なく僕は、森の中へと泣きながら入っていくのだ。

 やがて、イオリが完全に消えてしまった頃に、僕は決断することにした。


「海へ出ていこう。君のいた世界を知るために」


 筏を作るなんていう慣れない作業に、初めのうちこそ苦戦していた僕だが、そこはイオリの技術がある。温風を極限まで凝縮した鎌鼬は、難なく幹を切断した。

 できあがったのは実に簡単なものだ。ふつうであれば、これで海に出ていこうなぞとは、間違っても考えないだろう。しかし、温風を操れる僕ならば、こんなものでも大きな支障はないはずだ。

 風の力だけで進水させると、僕は筏に乗りこんだ。糧食はあまり多くない。


「吹け」


 僕の意思に応じて、温風が勢いよく背中を押した。見渡す限りの青い海。これが僕の新しい世界だ。

 行くあてなんて、まるでないけれど、もしもだれかに出会うことができたならば、今度は僕が魔法を教えてあげようと思う。

 君の代わりに、イオリが教えてくれた魔法で。

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【全8話】異世界、二人ぼっち 御咲花 すゆ花 @suyuka_misahana

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