記憶喪失は前世の自分との交信時間
狐火
17:58
石川県にある北島総合病院一階。患者も花を持った見舞い客もほどほどに居る中、僕はいつも決まった時間に決まったベンチに座っている。時計を見れば17時40分。いつも彼女が通る通路をじっと見ていた。
「あ、桔平」
僕が待ちわびていた彼女が、僕に気がついて声を出した。幾人彼女の声に反応して顔を上げ、彼女を見た。その視線に気が付かずに彼女は僕の方に歩いてくる。
「よう、茜」
ベンチから立ち上がり、茜が近くに来るのを待った。
「なんか日に焼けたね」
僕の顔を見るなり彼女はそう言って、フフッと僕を笑った。
「毎日外で走って練習しているからな」
「なんの練習?」
「野球」
バットを振るフリをして、僕はニコッと彼女に歯を見せる。
「へぇ~。頑張っているんだね」
「まあな」
僕がベンチに座ると彼女も僕の隣に腰掛けた。
しばらく沈黙が起こり、彼女ははぁ、とため息をついた。
「なんかあったでしょ」
僕はそう言って彼女の顔を覗く。
「分かる?」
「うん。茜は顔に出やすいから」
茜はまた、はぁ、とため息をついて僕をじっと見つめた。
「……聡がさぁ」
うんうん、と親身になって僕は茜の話を聞く。僕らの会話の7割は茜の愚痴だ。それでも、僕はこの時間がとても大事だった。なくてはならないものだった。
「記憶喪失になってから、もう一年経つの」
「もうそんなになるのか」
聡とは茜の恋人で、記憶喪失を患っているらしかった。
「でも未だに私のことを思い出してくれなくてさ。参っちゃうよ、本当に」
作り笑顔を浮かべる茜の顔は、とっくに見飽きている。そんな男はやめておけと僕は何度言ったことだろう。
「だからいつも言っているだろ。諦めて俺にしろって」
僕はそう言ってベンチの椅子の上にある茜の細くて白い手を握る。茜は困った顔をして、フフッと笑った。
「そんなんじゃ私は落ちないわよ。もっとロマンチックじゃなきゃ」
茜は僕の手の平の皮を強くつまみ、僕は情けない声を出して茜の手を離した。
「痛い……」
自分の手を摩り、僕は茜を睨んだ。いたずらな笑顔な茜を見て、喉元まで来ていた文句が胃まで引っ込んでいく。
「なんでそんな男、いつまでも追いかけるんだよ」
ため息をつき、僕は茜に聞いた。
「もしかしたらこのままずっと記憶が戻らないかもよ」
一気に悲しげな表情になる茜を見て、言い過ぎたと気が付いて僕は口を噤む。消えるような声でごめんね、と呟いても周りの雑音にかき消されてしまう。心から思っている言葉ほど、相手に上手く伝わらない。一体どうしてなんだろうか。
「……私ね、最近こう思っているの」
茜は暗い表情を一寸ほど明るくして、僕を見た。
「記憶喪失は前世の自分との交信時間なんだって」
茜の意味不明な言葉に僕は首を傾げ、続く言葉を待った。
「聡の前世が言い残したりやり残したことを教えるために聡を呼び出してるんだよ。だから意識が前世に戻っているの」
そこまで聞いてもやっぱり茜が何を言っているのか分からず、僕は茜の顔を見つめる。
「戻ってきたら聡は前世の自分がやりたいことまで全うするぐらい楽しく生きるんだよ。聡にとって私はなくてはならない大切な人なんだから、私がそばにいてあげなきゃ今度は聡が来世の自分を呼び戻しちゃう」
真面目な顔をして言った茜。僕は、そっか、と言って微笑んだ。けれど僕は本当は違うことを思っていた。
「茜がいなきゃ聡はダメだもんな」
僕の言葉にうなずくと、茜は壁に貼られた時計を見上げる。
「もうそろそろ帰らなきゃ」
時刻は17時58分。茜は立ち上がりあたりをキョロキョロ見回した。
「そうだな」
僕はそう言うと茜のパジャマのポケットからぶら下がっているブザーを押す。しばらくすると看護師が僕らに近づいてきた。
「面会は終わりですか?」
僕は頷いて茜から一歩離れる。それを合図に茜の集中は僕から看護師に移った。
「じゃあ茜さん、帰りましょうか」
「お姉ちゃん、迎えに来てくれたのね」
そう言って看護師の手を握り自分の病室に向かって歩く茜の後姿を見送って、僕は病院を後にした。
茜は若年性認知症を患っている。毎日の面会もほとんど同じような会話をして、同じ別れ方をしている。毎回僕の名前を茜に呼ばれるたびに、まだ僕のことを覚えていてくれているんだ、と安心感を抱く。そして聡の話をされるたびに、聡という亡き恋人の存在を忘れていない安心感といつまでも僕のことを好きになってくれない虚無感で心が乱される。救いと同時に絶望を与える茜は小悪魔のようで、意図的にそういうことをしてくれたらどれだけ良かったかと何度思ったことだろう。
けれど、前世の話は今日初めて聞いた。忘れていく脳の中でも思考は進んでいくようだ。受け入れがたい現実を何とか乗り越えようと必死に考えて生きている茜が、愛おしくて仕方がない。
でも、いつか彼女は聡のことも僕のことも忘れていく。17時40分の約束を忘れてしまうのは明日かもしれないし、僕と話をしている時かもしれない。突然僕の存在が彼女から消えるのか、それとも足元からじわじわと消えていっているのか。確かめる術はないけれど、58回目の告白も失敗したと今日も手帳に書く。あと100回ぐらいは茜に好きだと伝えたい。
前世に呼ばれているのは、本当は君かもしれないよ。そう思ったあの時、なぜか涙も溢れそうになった。前世にも来世にも行かずに、ずっとここに留まっていてよ。その言葉が胸に引っかかった瞬間、僕の目から熱い涙が零れ落ちた。
茜が僕の名前を一度も呼んでくれなくなったのは60回目の告白の後だった――。
記憶喪失は前世の自分との交信時間 狐火 @loglog
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