第3話
少女が滞在しているホテルに連れてこられたのは、夜も深まってきた時刻だった。
ハイクラスの一室に入り、暖かな夕食と風呂にありついても、気分が晴れることはない。むしろ悪化の一途を辿っているとしか思えず、窓を叩く雨粒を眺めては憂鬱な気分になる。
夕刻まではあれほど雨を望んでいたのに、今は鬱陶しくて仕方がなかった。
明日の朝になればタイリッカを発ち、リースギンの西、スワロイヤ渓谷まで向かうらしい。
「……何をやっているんだ、お前は」
窓ガラスに映る自分へ、感情のない声で問いかける。しかし返事があるはずもなく、何度目か数えることもやめた溜め息を吐き出せば、緩慢な動作で窓辺から離れ、ベッドに寝転がった。
久しぶりの柔らかで清潔なベッドが、疲労困憊の身体を包み込む。途端に眠気が込み上げ、それに逆らわず重い目蓋を閉じた。
「せめて布団に潜ってから寝なさいよ。風邪ひくでしょ」
意識を手放そうとした瞬間、声をかけられ、一気にベッドから起き上がった。慌てて視線を巡らせると、欠伸をする少女が後ろ手に扉を閉め、当然のように部屋へ入ってくる。
「なっ……!?おい、テメェの部屋は別だろうが!」
「だって、スーゼアのお小言がうるさいんだもの。大丈夫よ、廊下にベルギスが居るから」
ホテルで用意された寝巻き姿の少女は、こちらの許可など最初から求めていないと言わんばかりに、早々に灯りを消して、ベッドに乗り上げた。ふわりと花の香りが鼻腔をくすぐり、カッと顔に血が上る。
何が大丈夫なのかまるで分からない。少なくとも女侯爵ともあろう存在が、未婚の男の部屋に押し入り、同じベッドで寝るなど非常識極まりなかった。
「明日も早いわ。わたしもう、すごくヘトヘトで……。早く寝ましょ」
「っ馬鹿にしてんのか!?」
「一緒に寝るだけで、なんで馬鹿にしてることになるの。アレックスって、すぐ頭に血が上るタイプ?あなたにとって、わたしは子供でしょ。それとも大人の事情で心配事?」
クスクスと笑って見せる少女に、アレックスは血管が二、三本切れたような錯覚がした。衝動のままに少女の胸ぐらを掴み、ベッドに引き倒して馬乗りになる。苦しげに呻く声が聞こえたが、本当に知ったことではなかった。
「一億で俺を買ったからって、偉そうにしやがって……!何でも思い通りにできると思うなよ、王家から排除された女の分際で!」
「何でも思い通りになるなんて思えるほど、わたしは子供じゃないわ!」
もがいた少女が、僅かな隙間から叫ぶように声を張り上げる。
見下ろした相貌に息を飲んだ。力が緩んだ一瞬の隙をついて、脇腹を蹴り付けられ、思った以上の衝撃に体勢を崩し、ベッドから転がり落ちる。
額を床に強打し、痛みに呻きながら睨みあげれば、少女は真っ赤な顔で息を荒げていた。
「王室から出たのはわたしの意思よ。今日初めて会ったあなたが、わたしの選択を侮辱しないで!」
瞳の奥が微かに揺れているのが、見えた。悔しくて、辛くて、どこにぶつけて良いのかも分からない感情が、激情と共に押し重なって、血を噴いて汚れていくような、そんな顔だった。
14歳という年齢の少女が、してもよい表情では無い。
返す言葉もなく唖然と見上げていれば、彼女は乱暴に自身の口元を拭い、ベッドに潜り込む。
「ほら!さっさと寝なさい!おやすみアレックス!」
これ以上の会話を許さない響きを持たせつつ、そう叫んだケイトが、強く目蓋も口も閉ざしてしまう。
やり場のない思いを舌打ちにのせ、同じく布団に潜り、彼女に背を向けた。
広いベッドだ。二人で眠っても、人一人分程度の間がある。けれどの微かに伝わる寝息と、シーツを通して伝わる心音に、徐々に自分の呼吸も和らいできた。
この少女はなぜ、自分を買ったのだろうか。
彼女の激情の奥に答えがあるのだとしても、そこに辿り着く手段もなければ、知る権利すら、この手の中には何もなかった。
◇ ◇ ◇
朝日が登ってからゆっくりと目覚めると、隣には既にケイトの姿はなかった。人が動く気配を感じ取れないほど、深く眠っていたらしい。
緩慢な動作で起き上がれば、サイドテーブルの上には真新しい衣類が用意してあり、イリカ語で『着替えろ』とメモが置いてあった。
仕方なく、袖を通す。白いシャツにこげ茶色のジャケット、黒っぽいスラックスという、シンプルな出立ちだ。サイズがやや大きめだが、着られなくはない。
姿見に映せば、血色が悪く隈の縁取る青い双眸と、寝癖のついた短髪の男が、陰険な表情でこちらを見つめていた。
大人しく着替え終わったところで、ドアがノックされ、ケイトが顔を出す。
「おはようアレックス。あら、いいじゃない。似合ってるわ」
上機嫌で様相を眺めた彼女は、支度を終えたこちらの腕を引っ張り、部屋を出る。朝食の席に連れて行かれると、先に来ていた軍人二人が、にこやかに出迎えた。
「おはよーさん少年。よく寝れたか?」
「……そこのクソガキが来なければ、もっとよく眠れたぜ」
気さくに話しかけるベルギスに、ケイトを睨みながら答えてやれば、彼は苦笑混じりに笑うだけだ。ケイトはと言えば、スーゼアが促す椅子に腰を下ろし、知らん顔で朝食を食べ始める。
息を吐いて、こちらも腰を落ち着かせ、コーヒーに口をつける。程よい苦味が体に染み渡り、自然と頭も冴えるようだった。
それから暫く黙って朝食を食べながら、周りの様子を観察する。一つのテーブルで和気藹々と食事をする様は、貴族連中のイメージとは程遠い。しかし懐かしくもあり、暖かくもある食卓だった。
そのことに安堵している自分の思考回路を、コーヒーを飲むことで振り払う。じわりと心に宿る熱は、鼻から抜ける苦味と共に喉の奥へ押し流した。
短くも長くも感じる朝食を終え、ケイトがスーゼアを連れたち、先に部屋へ戻っていく。その様子を見送った後、未だ席につくリンギスが、おもむろに口を開いた。
「……君には苦労をかけるだろうが、どうか、……君らしく生きてくれ」
微かに重い響きを持ったその言葉に、瞠目して眉を寄せる。兄の言葉に目を眇めたベルギスが、椅子の背にもたれて視線を斜めに上げた。
言われた意味を勘ぐり怪訝に二人を睨んでいたが、どうしようも無いと悟り表情を歪め、足を組んで視線を逸らす。
「……は……、心配は無用だ。あんなクソガキに良い様にされるほど、俺も馬鹿ではないんでな」
吐き捨てれば、彼らは口元を緩ませて、小さく頷いただけだった。
それから、慌ただしく準備する様子を眺めつつ、ケイトの指示に嫌々従いながら行動した。ホテルを出た後は駅まで車で移動し、その後は汽車を乗り継ぎ、最後はまた車での移動となるらしい。
車に乗って駅へと向かいながら、ケイトはアタッシュケースをこちらに押しつけた。
「とりあえず、これはあなたが持っていて。スワロイヤに着いたら、銀行口座を作って、そこに入れましょう」
「……その口座は、俺が自由に引き出せるのか?」
「自由には難しいけど、必要な時にすぐ引き出すから安心して。アレックスだけじゃ、口座は作れないでしょ?身分を保証できないし」
「……」
自由に使える金ではなかったのかと、抗議の声は寸前で飲み込んだ。
こんな大金、手元で管理できるものではないのは明白だ。それに考えてみれば、ある程度の自由が利かない方が、自分にとっては都合が良い。
この金を使い切ったら殺すと、この少女が宣言したのだ。慎重になった方が身の為だろう。
渡されたアタッシュケースを膝に乗せ、微かな違和感を覚え眉間に皺を刻む。何だか揺らせば、カサコソと音がする気がした。留め具を外し中を覗き込めば、札束が確かにそこにある。しかし何故か──……。
「!?おい、おいスワロイヤ!なんで金が減ってんだよ!?俺は何も買ってねぇんだが!?」
昨日見た中身から、明らかに枚数が減っている。束にしてまとめた紙が解かれ、ザラザラとケースの中を滑っているのだ。
「使った分を差し引いただけよ?」
「はぁ!?」
「宿泊代、衣服代、夕食に朝食。──ね?使ったでしょ?」
にっこりと、ケイトが悪意ある無邪気さで笑った。
血の気が引いて唇が戦慄く。このままケースを振り上げ、この女を手早く気絶させ、逃亡した方が良いのではないかと思考回路が働くが、車は無常にも既に駅へ到着してしまう。
リンギスにエスコートされ、軽やかな足取りで外に飛び出したケイトを、ただ呆然と見つめることしか出来なかった。
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