第2話






 タイリッカ国とリースギン国は、条約により友好的な協力を約束した同盟国だ。

 隣国と言っても隣接している訳ではなく、リースギンは島国な為、二国の間には内海がある。しかし渡航する船も数が多く、幾つも橋がかかっているので、人々の往来は非常に多かった。

 ケイト・デル・スワロイヤは、島国の西側に位置する、大きく陸地を走る渓谷を収める領主である。10歳の時に領地の主となった彼女は、退役軍人達と共にこの四年、領地経営に勤しんでいた、はずだ。

 スワロイヤ領は元々軍部で治めていた経緯があり、優秀な軍人を輩出する場所だと聞く。そこに年端もいかぬ子供が放り投げられ、周囲は大層困惑したそうだが、そんな軍人たちも今ではすっかり少女の手足なのだとか、どうとか。

 彼女の話は、タイリッカでも有名だった。着任時10歳という年齢もさる事ながら、男の仕事だという認識が大きい領地経営の中で、女侯爵という立場を樹立している。思いの外、領民に慕われる良い領主だと、風の噂で聞いた事があった。

 しかし、タイリッカで少女が有名なのは、そんな陳腐な話ではない。

 未成年が王室から追い出されたという事実が、何よりも世間を騒がせたのだ。

 本来なら少女は、王室の一員として成人になるはずだった身だ。弟が生まれた事だけで、王室を出る要素になり得るはずがない。だが彼女は自ら望んで、王室を退くことを決めたらしい。

 さまざまな憶測が未だ飛び交うが、王室としては表向き、軍部との橋渡し役として起用したという事になっている。

 リースギンは王家が治める国家だが、軍部の力も無視できない。便宜上、軍部は国王の部隊という事になっているものの、その発言力は侮れない大きさだ。

 余計な対立をしないよう、緩衝材として送り込まれたのが、ケイトである……とするのが、大方の見解だった。


 軍人二人に両脇を固められ、逃げ場もないまま、大人しく少女の後をついていく。人目を避けているのか、随分と人通りの少ない路地を歩いていた。

 時折すれ違う人々が、怪訝な顔を向けてくるが、頼りになる隣国の軍人が二人もいる事に安心しているらしい。顔を見るとにこやかに挨拶をして、何事もなく過ぎ去っていった。

 くそ、と。小さく吐き捨てた。通行人にはこちらが悪さをして、連行されているようにでも見えるのだろう。力の差もそうだが、身なりの差は歴然だ。こちらが何を訴えても、全ての理は向こうにあってしまう。

 

「やっぱり、リンギスとベルギスに付き添ってもらってよかったわ。全然不審がられない」


 ブティックで衣類を購入した女が、軽い足取りで前を行く。少し厚手の白いワンピースに、黒いコート。羽があしらわれた帽子を被す姿は、先ほどの小汚い少女とは似ても似つかない。

 両脇にいる軍人二人は、双子の兄弟なのだという。撫でつけた茶髪が兄のリンギス、癖のついた茶髪が弟のベルギスだと名乗られた。

 この女の目的が、全くもって分からない。順調な領地経営で得た金で、同盟国のクソガキを買うとは、どういう風の吹き回しなのだろう。

 タイリッカ国でもリースギン国でも、奴隷制度が黙認されている事は知っている。もちろんいい顔はされないが、よほど人道に反しなければ、人材斡旋業だと嘯く商人達は大した罪に問われない。

 前を行く少女の目的も、奴隷として扱える人物を探してのことなのだろうか。

 街灯の下、黒い乗用車が一台停車していた。心配そうな表情で遠方を見つめていた初老の女が、こちらに気づき、よろけつつケイトに近寄る。


「お嬢様……!」

「スーゼア!お待たせ、宣言通り見つけてきたわ」


 クラシカルなメイド服から見る限り、少女の侍女だろう。スーゼアと呼ばれた女は、こちらに目を止めると眉尻を下げ、丸メガネを片手で押し上げる。何事か言いかけるが、しかしそれ以上の言葉にならず、溜め息混じりの息を吐き出した。

 初老の侍女は緩やかにお辞儀をして、ベルギスが開けた乗用車の扉の延長線から、一向に道を譲る。

 対面の座席がある車内は、今宵の空気と相まって湿っていた。一瞬、表情が歪むが、座席にアタッシュケースが置いてあることに気がつき、目を見開く。


『さぁ、乗って、……ええっと』

「……アレックスだ。まさか本当に俺を買う気か?」


 イリカ語で話し始める少女に、一同が使っているスギン語で答えてやれば、少女は目を丸くした後、緩やかに破顔した。無邪気な笑みは薄寒さすら感じ、思わず喉を鳴らして唾を飲み込む。


「あら、スギン語もいけるの?学があるのね。ええ、言ったでしょう?お兄さんの一生を一億で買うわ」


 白く小さな手が、無骨なアタッシュケースを撫でた。

 まさか本当に。嘘だろう。再び喉を鳴らし、少女を見つめる瞳が揺れ動く。好奇心と自尊心が心を傷づけ、少し声を出すだけでも吐き戻してしまいそうだった。

 乗り込むように促すリンギスに逆らわず、上質な座席にどっかりと座る。向かい側に少女と、リンギスが腰を落ち着かせた。

 車内は更に暗く、体温が空気を湿らせ、不快指数を上昇させる。


「納得がいかないなら、見てもらった方が早いわね」


 リンギスに目配せすると、男は逡巡する素振りもなく、アタッシュケースの鍵を開け、中身をこちらに向けた。そこには同盟国内で共通に使用できる紙幣が、びっしりと敷き詰められている。

 絶句した。札束を凝視する双眸が反らせない。おそらく普通に生きていれば、一生目にすることはない金額だ。少女のいう事が本当であれば、──一億、あるのだろう。


「これ以上は流石に手元にないから、お兄さんの生涯が良心的で安心したわ。さ、これにサインして」


 札束に釘付けになっていた目の前に、スギン語で書かれた紙切れと、万年筆が差し出された。奪うようにそれを取り、拙い文字で書かれた内容に目を通す。

 癖のある筆記体で把握するのが難しいが、要約すると誓約書なのだろう。この一億は必ず譲渡され、自由に使える金であるとするものだ。いつだか忘れたが、路上生活で知り合った奴隷が、こんな誓約書を書かされ、連れて行かれた事を思い出す。

 子供のクセに生意気な事を考えるものだ。

 僅かに視線を上げ、少女の隣に座り、一言も発しないリンギスを見やる。

 これは考えられたやり取りだ。第三者が見ている場で誓約書を読ませ、名前を書かせることで、この少女は不正がない事を示そうとしている。そして自発的に記入させる事で、誓約書の内容に同意し、アレックス自ら選び取った選択だと、他者の目を通して確認させるのだ。

 自由奔放に見え、それだけ少女の慎重さが窺える。

 一億を貰い受けた時点で逃げ出そうとも考えたが、向こうは軍人が二人もついている。そして誓約書を破り捨て、一億を突っぱねる事など論外だ。

 正直に言ってしまえば、金は欲しい。路上生活から脱したい。安心して生活したい。今まで浮浪者だと見下してきた奴らに、目に物を見せたい。

 ──本当は人よりも裕福になど、ならなくていいから。

 鼻で笑い、誓約書に自身の名を書き綴る。無造作にリンギスに投げ返せば、少女をゆっくりと目を瞬かせた。


「もっと抵抗するかと思った」

「ハッ、お望みならしてやろうか?一億用意できたら、大人しく買われてやると言ったのは俺だからな。しかし金持ちの道楽は分からんな。こんな汚ぇクソガキを買って、何が楽しい?」

「そんなの簡単でしょ。道楽に必要だから以外、何があるの」

「あ゛ぁ?」


 神経を逆撫でするような声に、声量が上がる。

 癪に触る美しい笑みで、少女は片手で口元を覆い隠した。


「タイリッカでは、“夜”を売り買いする場所もあるのでしょう?そこにはお金さえあれば、あらゆる人々が出入りすると聞くわ。そこは皆、必要な道楽だと分かって行くのでしょ?浮浪者だから、貴族だからで、必要不要を分けたりしない。そんなこと誰も言わないわ。だってみんな等しく必要だから、そこまで出向いてお金を支払う」


 足を組んだ少女は、僅かに視線を下げる。


「わたしの楽しい道楽に必要だから、あなたに一億出す。単純明快でしょ?他に何か理由がいるの?」


 リンギスの手前だからか、“夜”と言葉を濁したが、少女の言う話は明らかに売春の事だ。成人もしていない少女が、恥ずかしげも無く口に出していい場所ではない。


「……スワロイヤ様、おやめください。淑女の話題ではありません」


 感情の起伏が乏しい声音でリンギスに嗜められ、少女は肩をすくめ、気のない返事をする。その様子をどこか呆然と眺めた後、微かに目を眇め、改めて少女を見つめた。

 なるほど。随分としつけのなっていないマセガギだと呆れもするが、言い分として納得できない訳ではない。遊戯の対価に金銭が発生するだけだと、少女はのたまったのだ。

 倫理観の欠如も著しいが、自分も少女を糾弾できる立場ではない。それに少女の態度は、極めてビジネス的だ。奴隷制度も娼館も、必要だと豪語するわりに下賎だと見下す、貴族の肥えた豚どもよりは好印象だった。

 

「……その一億は、俺が自由に使えるんだな?」

「もちろんよ。あ、でも、もう少し詳しく話したいから、少し歩きましょ?」


 ふと、何事か思うことがあったのか、少女は傘を手に取り、乗用車のドアを開け放った。外で待機していたベルギスが、慌てて体を屈める。


「けっ、ケイト様?」

「アレックスと少し歩いてくるわ。付き添いもいらない。スーゼアとホテルに戻ってて」

「何を言って、ダメダメダメ、ダメっスよ!」


 突然の言い分にギョッとして両手で制止させようとするが、彼女は無言のままベルギスを見つめた。息を呑んだ男は、数秒の沈黙の後、少女の隣に座っている兄を見やる。


「……、……少しだけですよ、スワロイヤ様」

「ありがとう、リンギス。アレックス、来なさい」


 眉間の皺を深め、一連のやり取りを見つめていたこちらに、声がかかる。不遜な態度に苛立つが、何も言わずにドアを潜り抜けた。後方で盛大な溜め息が聞こえたが、知ったことではなかった。

 少女の足取りは、大通りの方へ向かっていく。

 夜になったばかりの街は、活気があって人通りも賑やかだ。こんなに堂々と歩くなど、いつぶりだろう。点在する街灯の下、忙しなく歩く人々を一瞥した。


「……元王族のお嬢ちゃんってのは、世間ずれしているのか?」

「あら、嫌味?残念だけど、わたしには効果ないわよ」


 鼻で笑いつつ言葉にすれば、彼女は前を向いたまま答える。片手に持つフリル傘はゆらゆらと揺れ、軽い足音を響かせながら、ゆっくりと道沿いに並ぶ店舗を眺めていた。


「背後から俺に襲われるとは、思わないのか?」

「わたしを殺したいの?」


 人の波が切れたところで、少女が立ち止まる。


「強がったって無理よ。あなたには、わたしをどうこうする気なんてないし」

「……どうしてそう言える」

「見てたって言ったでしょ?アレックス、あなたは相手を殴る時に、ちょっと力をセーブしてる。それに致命傷にならない場所を殴るわ。違う?」


 振り返った少女の人差し指が、目の前に突きつけられた。同じく立ち止まって、その指先を見つめながら押し黙る。

 その様子を肯定と受け取った少女は、柔らかく笑って言葉を続けた。


「力にモノを言わせるけど、殺しはしない。そうでしょ?」

「……分からねぇだろ」

「分かるわ。だってあなた、根はいい人だもの。でもごめんなさい。わたしはあなたを殺すわ」


 鼓膜を震わすように、愉快げな少女の声が突き刺さった。一瞬意味が理解できず、目を見開くその先で、少女は口元を

三日月に歪める。嫌な微笑みだった。

 少女は醜い笑顔で、微かに声量を落とす。


「あなたが一億を使い切ったら、あなたの命はそこで終わり」

「……は……?」

「だって、一生遊んで暮らせるお金、でしょ?一億はあなたの生涯の金額なのでしょう?それなら、一億が尽きたらアレックスの生涯はそこでおしまい」

「……ばっ、馬鹿を言うな!どんな屁理屈だ、なんで使い切ったら死ななくちゃならねぇんだよ!?」

「だから、一生遊んで暮らせるお金ってどのくらい?……そう聞いたでしょ?」


 少女は無邪気で不気味な笑みを浮かべたまま、首を傾けた。地面を擦るようにこちらへ近寄り、腕を伸ばせば互いに届く距離まで来ると、傘の先で軽く地面を叩く。

 こんなもの屁理屈に他ならない。一生遊べる金がなくなったからと言って、殺される理由になるはずがない。

 しかし今の自身は、この不可思議な女に買われた身だ。一夜限り相手の身体を買うこととは訳が違う。身体どころか命さえも、誓約書にサインをした瞬間から、この女のモノなのだ。

 失態だったと、今更ながら額に脂汗が浮かぶ。

 降格したとは言え、この女は元王族の女侯爵。あり得ない屁理屈では、きっと済まされない。


「……虫も殺せなさそうな、温室育ちのお嬢ちゃんに、俺が殺せるのかよ」


 突きつけられた事実に、表情が引き攣る。それでも気丈に振る舞えば、少女は傘を持ち替え、頭上に向かって開いた。一瞬、視界が黒い傘に覆われ、思わず目を閉じる。次いで開けた視界の先で、少女の瞳が青ざめるこちらの顔を映していた。

 そこには何の光もない。ただの赤く色づいた双眸があるだけだった。

 ぞわりと、言いようのない感覚が背中を駆け上がり、吐き気が込み上げる。動揺から無意識に後ずさった。

 少女が腕を伸ばして傘に招き入れると、丁度雨が降ってきたのか、布を雨粒が叩く。少女は一度瞬いて表情を緩め、こちらの衣服を軽く引っ張った。


「雨、降ってきたわ。一緒に帰りましょうアレックス」


 先ほどと違い甘えるような声音で、少女は衣服を握る指先に力を込める。

 その指先が微かに震えていることに、今の自分では気がつくことはなかった。

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