余命一億の宣告

向野こはる

第1話







 東の空に厚い雲が押し寄せている。

 恐らく雨が降るのだろう。そう思えば、自然と心も軽くなった。

 片手に持つ、鈍く光る鈍器からは、先ほど殴りつけた男の血が滴っていて、不快に地面を濡らしている。雨が降れば、この薄汚い血も流れるだろう。それとも錆びる方が先だろうか。どちらにせよ、一度雨に打たれた方がいいことは事実だ。

 喧嘩により沸騰した思考を元に戻すのも、雨が降ればちょうど良い。

 無駄に大きな時計塔が、鐘の音を響かせ、街に時刻を知らせていく。もうすぐ夜だ。自分が最も安心して、活動できる時間が近づいている。

 ジーンズのポケットへ無造作に押し込んだ紙幣を、布越しに軽く撫で、小さく息を吐き出した。

 その息は限りなく溜め息に似ていて、表情が歪む。

 大通りから聞こえる喧騒は、健全な生活を営む人々で溢れかえっているようだった。それを背中に聞きながら、ふらつく足取りで路地裏を歩けば、ますます世間から取り残されていくような気がして、酷く苛立たしかった。


──お前は何をしている?


 頭の中で、理性とも、正気ともとれるような、もう一人の自分が、今の自分を嘲笑う。ヤツは三日月に似た唇を歪め、続けるのだ。


──今のお前は、死んでいるのと同じさ。



◆ ◆ ◆



『お兄さん』


 いつもの寝ぐらに戻ると、突然、背後から声をかけられた。

 振り返れば、見知らぬ容姿の子供が佇んでいて、思わず眉間に皺が寄る。この国の言葉を話してはいるが、そこまで流暢ではない。国外の人間かと、知らず鈍器を握る指先に力がこもった。

 子供は警戒するこちらを気に留めることなく、余裕そうに笑みを浮かべたまま首を傾ける。


『お兄さん、強いのね。さっきの、見てたわ』


 子供の話し方に、微かに自分の片眉が上がった。

 フードから見えるハニーブロンドの髪に、薄汚れたサロペット。一見、男のように見えたが、どうやら女らしい。顔には泥が飛んだ跡があり、汚れて原型が分からないが、恐らく革靴であろう物体も酷い有様だ。

 こんな場所で女一人とは、よほど境遇に問題があるのだろう。どこか高貴な印象を受けるが、没落した他国の貴族が流れてきたのだろうか。


『わたし、お兄さんのこと、気に入っちゃった』


 そう言いながら、その子供は品定めするように、上から下まで、こちらを無遠慮に眺めてきた。宝石のように輝く赤井瞳が、企みを反映するかのように鈍く光る。


『……失せなクソガキ。子供を買うのは趣味じゃねぇよ』

『あっはは!面白いことを言うのね、お兄さん。買うのはあなたじゃないわ。わたしよ』

『……はぁ?』


 突然の会話の流れに、思考回路が目詰まりを起こした。何を言っているか理解ができず、先ほどよりも眉間に深い皺が刻まれる。

 この子供が自分を買う?

 子供の態度から見て、こちらをからかいにきたのは丸わかりだ。自分の立場も実力も分からない、間抜けがやる手口だと思えば、苛立った意識も急速に冷めていった。

 まともに取り合うだけ馬鹿らしい。ひとつ息を吐いて、血濡れた鈍器で軽く自分の肩を叩いた。


『どこのどいつだか知らんが、くだらねぇ要件に俺を巻き込むな。自分の身の安全でも考えとけよ、お嬢ちゃん』

『あら、わたしは本気よ?』

『失せろっつってんだよ。こっちは脳みそが足りない子供の相手をしているほど、暇じゃねぇ。ま、一生遊べる金が用意できるなら、話は別だがな』

『それってどれくらい?』


 軽くあしらい踵を返した背に、会話がぶつかってくる。肩越しに振り返れば、軽やかな動作で距離を詰めた子供が、すぐそこにいた。思わず鈍器を振りかぶり、しかし子供は体勢を低めて難なく交わして、虚しく放物線が宙を切る。

 自分よりも恐らく年下の、見るからに細く非力な女にしては、動作が素早い。加えて鈍器を目前にしても、冷静で度胸もある。

 つい気圧されて片足が後退し、その隙を見逃さなかったのか、子供は懐に入り込んできた。


『ねぇ、一生遊べる金って、どれくらい?お兄さんの一生は、お兄さんのものよ。わたしに“お兄さんの生涯”を、金額で示して』


 命の危険すらある状態で、目下に広がる赤い双眸は、らんらんと輝いて見えた。まるで鬼気迫る形相には、冷静な言葉とは裏腹に激情が滲んでいる錯覚がする。

 何かを赦さない、目だった。

 だからだろうか。


『っ…い、一億だ。一億用意できたら、大人しく買われてやる』


 つい、そう口をついて出ていた。

 こんな頭のイカれた子供が用意出来るはずもない金額を提示すれば、子供は不思議そうに首を傾げて見せる。そして満面の笑みを見せると、くるりと回ってこちらから距離を取った。


『あなた、良い人ね。一億ならすぐに用意出来るわ!』

『……は?』


 なんてことはない金額だと。むしろ良心的な金額だとでも言うように、子供は両手を胸の前で合わせる。冗談だろと顔を合わせれば、湖畔のような瞳に、自分の間抜けヅラが映り込んでいた。

 灼熱そのものを思わせる赤の双眸は、その言葉に嘘偽りもないことを、物語っているような気さえした。


『おい、待て、何を──』

「スワロイヤ様!このようなところに……!」


 馬鹿なことを。続けようとした声は、大通りの方角から駆け寄ってくる男達の声によって、掻き消された。見れば、屈強な体躯を軍服に収めた男が二人、顔面蒼白で子供とこちらの間に分け入る。見下ろす双眸は、敵意と困惑を混ぜ、しかし何処か安堵を滲ませていた。

 落ち着いたバーガンディに、金の縁取りの軍服は、見たことがある。この国、──タイリッカの隣国、リースギン国のものだ。男達が発している言葉もスギン語である。

 硬直するこちらを他所に、子供はやや面倒そうに溜め息をついて、両手を顔の横に掲げて、降参の格好をして見せた。


「はいはい、逃げないわよ」

「勘弁してください。ケイト様に何かあったら、オレたち首が飛ぶんスからマジで……!」

「おいベルギス、馴れ馴れしい口を聞くな。スワロイヤ様、お召し物が汚れています、着替えを用意しましょう」


 軍服姿の男の一人が、清潔なタオルを子供に差し出す。それで無造作に顔の泥を落とした子供の肩へ、上質なコートが羽織らされた。

 フードを外せば、短く切り揃えた髪の下、日焼けをしていない透明な素肌の女が姿を現す。さながら、生意気な子供の面影はサナギで、凛とした佇まいの少女に羽化したような、そんな印象を受けた。

 年端も行かぬ子供なのは確かだ。だが端的に、美しい。改めて対峙すると思わず目を奪われる、そんな美しい容姿だった。

 しかし少女は、すぐに悪戯な笑みを浮かべると、片手を胸に当てつつ口を開いた。


『改めて初めましてね。わたしは、リースギン国スワロイヤ女侯爵ドォンネ、ケイト・デル・スワロイヤよ』


 名乗り上げた少女にハッとして、男達と交互に見返す。

 聞いてしまえば、路上生活をしている自分でも知っている。この少女が軍人を引き連れている理由も納得がいった。だからこそ本来なら、こんな裏通りにいるはずがない存在だった。

 何せこの得体の知れない少女は、元王族なのだから。

 リースギン国内でも屈指の渓谷である、スワロイヤ領を収める女侯爵。リースギン国王の第一王女にして、王位継承権のある弟が生まれたことにより、臣籍降下し爵位を受けた奇異な女。

 彼女はニヤリと笑い、いっそ優雅にも見える仕草で、片手を差し出した。


『ねぇ、あなたは?なんて名前なの?』


 まるで悪人のような顔で、少女は問いかける。

 それは路地裏に似つかわしくない女の、極めて非常識な微笑みだった。

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