第3話・私、音痴じゃありません

 朝霧に包まれた山を散策することが、杏子の日課の一つとなっていた。爺臭い趣味だと良平には鼻で笑われたが、所詮人間の価値観だからと、杏子は気にも留めていなかった。山々を一望できる場所を見つけた所で一旦足を止め。朝の冷たい森の空気を吸い込み、息を吐く。清々しい気分になれる一時だ。まるで息と一緒に古い自分も吐き出せるようで。同時に新しい自分を吸い込んでいるような気がして、杏子の顔に自然と笑みが浮かんだ。


「この気持ち良さが分からないなんて、良平さんもまだまだ子供ですね」

 独り呟き、周りに誰も居ないことを確認した後、そっと上着を脱ぐ。素肌で朝霧を感じ、朝の空気を吸い込んで。そして彼女は、”呼吸する”。本来杏の精霊である彼女は呼吸をする必要は無い。人間の形をしてはいるが、所詮は仮の姿に過ぎない。代謝機能も何も備わってはいなかった。だがそれでも。彼女は呼吸をしていた。


「生命の息吹が私の鼓動となる。天から地へと連なる螺旋の営みが、私の血となり肉となる……」

「所詮は妖の与太話よの」

「……あっ!?」

 生命というものそのものへの畏敬の念を込めた呟きに、風が応えた。いや、これは木霊(こだま)だ。木魂とも書くが、要するにこの一帯の山に根付く木々の意志の集合体のようなものだ。自分達精霊とは違い、意志はあるもののそれを判断する自我が無いものが多い。善悪の区別が付けられないのだ。だからこそ時に人を傷つけ、死に至らしめたりもする。だがそれは決して、彼らが悪いのではない。悪戯に彼らを刺激し、彼らの力を暴走させる人間が悪いのだ。障らぬ神に祟り無しと言うように、こちらから何もしなければ彼らが何かをすることは無い。基本的には。


 だから、こんな風に彼らの方からアプローチを仕掛けて来るのは珍しかった。杏子が彼らに近い存在だからか。彼女は驚き、慌てて居住まいを正した。森全体の意志に逆らえば、彼女とてただでは済まない。


「おうおう。妖風情が一人前に恥ずかしよるわ」

「私は妖じゃありません。私は杏の精霊です」

「精霊だろうが妖だろうが同じことじゃ。我らが魂を食い、今日明日を繋ぐ糧としておるのに変わりはない」

「……それは……」

「そのくせ、生命の賛歌を我らが面(おもて)で歌うとは。おんし、一体どこまでつけあがれば気が済むんじゃ? この音痴めが」

「貴方こそ、私にそんな問答を仕掛けて、ただ面白がってるだけじゃないんですか? 小娘だと思って侮らないで下さいね」

 とうとう、杏子の堪忍袋の尾が切れた。最初は黙って聞き流すつもりだったが、『音痴』とまで言われたのでは我慢できない。というか、その単語さえ無ければ、彼女が感情を爆発させることは無かったのだが。


(気にしていることをっ……!)

 この前良平に久し振りに子守唄を聞かせてやった時、彼は爆笑して「やめてくれ、そんな騒音聴かされたら泣く子も黙っちまうぜ」などと失礼なことを言ってくれたものだ。その時のことを思い出す度、杏子の胸に怒りが込み上がって来る。


「妖が我らに楯突くか? 生きて出られると思うなよ」

「望む所です。どこからでも掛かってらっしゃい」

 彼らは面白がっている。こちらが怒りに任せて我を忘れる様を見て、喜んでいるのだ。そのことを充分承知の上で、杏子はあえて挑発に乗ってみせた。彼らがこちらの力を過小評価しているのなら、都合が良い。存分に力を揮えるというものだ。逆に過大評価しているのならば、はったりも通用するだろう。どちらにせよ、こちらに勝機が全く無い訳ではない。


「……妖風情が……」

「所詮は木霊の与太話ですね」

「………っ!」

 彼女が返したその瞬間、空気が動いた。朝霧を掻き分け、何かがこちらに飛んで来る。かわして見やると、それは錐のように先端が尖った細長い木の枝だった。どんな呪いが込められているのか分からないが、見た目からしてかなり危険な障りのようだ。


(どうやら本気で私を取り殺すつもりのようですね。本気を出すということは、それだけ冷静ではなくなっているということ。つまりそれだけ、隙が生じ易いということです)

「挑発を返してみて正解でしたね」

 不敵な笑みを浮かべ、杏子は跳躍した。そのまま風に乗り、朝霧の中を疾駆する。わんわんと耳鳴りがする──木霊の攻撃だ──のに耐えながら、彼女は上空へと昇っていった。やがて木霊の声が届かない、雲の上まで辿り着き。杏子は着ていた服を全て脱ぎ捨てた。朝の太陽を、その全身に浴びる。力がみなぎっていくのを感じる。


(見せてあげましょう。日の光を浴びた精霊の力を)

「大蒸散!」

 気合と共に、下方向に向けて特大の空気弾を打ち込む。ぶわっと霧が一気に晴れ、ごうっと山が鳴いた。木霊が悲鳴を上げているように、杏子には思えた。


「む……無茶苦茶しおって……」

 服を元通りに着直して下に降りると。苦しそうにうめく風の声が聞こえて来た。先程までの物々しい感じはもうしない。どうやら懲りたようだ。


「貴方はご存知無かったようですがね。私達は何も、魂を食べて生きているだけではありません。日光を浴びることで、今のように魂を生み出すこともできるんですよ。その気になれば、霞から生命を創造することもできます」

「……なんと」

「ですからどうか、前言を撤回して頂きたいのです。そう、私は音痴なんかじゃありません」

「いや音痴であることに変わりはないが」

「蒸散!」

「ぐはっ!? い、いきなり何をする!?」

「私は音痴じゃありません」

「ぐ……ま、まぁいい。そういうことにしといてやる」

「ありがとうございます」

 にっこりと微笑む。


「今日は良い天気になりそうですね。雲も綺麗に晴れて……絶好の光合成日和ですわ」

 杏子が笑ってそう言った時には、木霊の気配は既に消えていた。

 朝霧の消滅と共に、森は本来の姿へと戻っていく。

 本来の、生命の活気あふれる姿へと。

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