第4話・私を、殺して下さい

 杏子は杏の精霊である。名字はまだ無い。師匠に言わせると「お前にゃまだ早ぇ」ということで、一級精霊としては珍しく氏を持ってはいなかった。同期の精霊達の中には「○○の命」などと崇められ、祠まで建てられている者まで居るというのに。師匠に何か考えがあるのだろうと信じてはいるが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。自分と同じく名字を持たない知り合いの桜の精霊は、大して気にもしていない様子だったが。


 名字だけではない。力の使い方に関しても、師匠は制限を強いてきた。精霊の「力」の根源は精力、すなわち生命の息吹そのものにあるが、その使用を控えるように言われたのだ。無駄に使わず、体内に蓄積しておけ、と。そのことに意味があるのかどうかは分からない。

 普通一級精霊ともなれば、近隣の精力を自在に操り、森羅万象に干渉することで秩序を維持するものだ。だが精力が使えないとなれば、秩序の維持は非常に難しくなる。生態系のバランスが微妙に崩れようとも、それを修正することができないのだ。そして微妙な歪みは連鎖的に広がり、やがては生態系そのものの崩壊に繋がってしまう。幸いなことに、そこまで至ることは無かったが。

 他の精霊達に協力してもらって、何とか被害を未然に防いできたのだ。そう、これまでは。


(でも、今日のはちょっと、厄介なことになりそうですね)

 杏子は母体である杏の樹を見上げた。枝の一つにぶらんとぶら下がる、大きな黒い物体。人間の背丈程もあるそれは、彼女に向かってあかんべーをしてみせた。何とも小憎らしい。衝動的に「蒸散」をぶつけようとも思ったが、この距離ではかわされる確率が高いし、仮に当たったとしてもさして効果は無さそうだったので止めておいた。今は動物の姿をしているとはいえ、相手の正体は典型的な『障(さわ)り』だ。障りに対し障りで抗することは、結果的にそれを増長させることにもなりかねない。それならば。


「貴方、誰ですか? 何でそんな所にぶら下がっているのです?」

 相手をよく識(し)ることが戦術の第一歩。とりあえず情報を聞き出そうと試みる。


「お前ぇの質問に答える義理ぃは無ぇ」

 奇妙な発音で、相手は応えてきた。耳がきんきん痛む。音程が乱れているのは、相手との距離が近過ぎるせいもあるだろう。物理的な距離ではなく、存在的な距離だ。どうやらこの障り、自分と一体化しようとしているようだ。というより、自分に寄生しようとしていると言うのが正しいか。


「答えて下さらないのでしたら、そこから降りて来て下さいな。この樹、私の本体ですから。そこに居られると迷惑なんですよ」

「うるせぇぇ。俺ぇがどこぉに居よぉぉと、俺ぇの勝手だぁぁ」

 ぺっ。唾を吐き掛けられ、杏子は飛び退いた。このふてぶてしい態度。宿主に対する敬意の欠片も無い。こんなのと一体化するかも知れないと思うと眩暈がしてくる。これはれっきとした自己喪失の危機だ。


(緊急事態につき、精力の強制使用権を発動します。……師匠もわかってくれますよね、きっと)

「忌み忌み申す、忌み忌み申す。杏神が老樹の恩名において、深く深く悼み申す。疾く疾く賜れ、疾く疾く賜れ。朝霧が丘の字名において、切つ切つ願い申す」

 杏子が呪法を唱えると、地面から無数の光の珠が飛び出して来た。手のひらに収まるくらいの大きさの光の珠は、円を描きながら杏子の周りを漂い始める。


「お前ぇ、何するぅ気だぁぁ」

「宿れ」

 障りを無視し、最後の文を紡ぐ。瞬間、全ての光の珠が一斉に身体の中に入って来た。熱い。身体中の水分が沸騰してしまいそうだ。これが、生命の輝き──生命炎というものなのか。


「やめろぉ、やめろぉぉぉぉ」

 白く、太陽のように輝き始めた杏子の姿を見て、障りは枝から飛び降りて来る。一体化を中断したか。賢明な判断だろう、もし寄生し続けていれば、内部から滅ぼされていた所だ。


「貴方の為にも、貴方は土に還るべきなのですよ。憎まれ、疎まれ、蔑まれて。それでも存在し続けなければならないなんて。そんなのは嫌でしょう? そんなのは、辛過ぎますよ」

「いやだぁぁぁぁぁ」

 飛び掛って来る。本能的な恐怖が、障りを衝き動かしたのだ。生存したい、死にたくない。生物ですらない障りがそんなことを思うのは変だが、何故か杏子にはそれを笑うことはできなかった。

 自分も、明日にはこうなってしまうかも知れないから。


「熱花万浄(ねっかばんじょう)」

 灼熱の花吹雪が全てを焼き尽くす。最大精力の行使が、忌み嫌われることでしか己を保つことのできない障りを、無に還した。一瞬の出来事だった。

 そして後には、何も残ってはいなかった。


「……ゴメンなさい」

 小さく呟き、杏子は疲れた身体を老木に預けた。いつまで自分は、こうして居られるのだろう。いつか自分に疲れ果てた時、自分もあの障りのように狂ってしまうのだろうか。自然の摂理に反した、忌むべき存在へと成り果ててしまうのだろうか……。


「おーい、あんずー」

 聞き慣れた、彼の声が聞こえる。だけど自分にはもう、それに応える気力は無い。久し振りに精力を使ったせいか、思ったより消耗が激しい。


(もし私が狂ってしまったら、その時には貴方が。良平さんが、私を殺して下さい)

 応える代わりに、弱々しく微笑んで。杏子は、彼がこちらに走って来るのを、じっと見つめていた。

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