第2話・あの頃は可愛かったんです
水無月良平(みなづき・りょうへい)との馴れ初めを語る時、杏子は遠くを見つめ、何かを懐かしむような口調で言う。
「あの頃の良平さんは可愛らしかったんですよ」
と、『あの頃の』の部分を強調するように。それから、現在の彼について、愚痴混じりに語り始めるのだ……万事この調子だった。幼い良平との思い出話から始まり、最終的には彼の悪口に行き着く。あまりにいつも、この調子だったから。
「あんな、ウチ、そろそろ帰らんとあかんのよー」
「あら残念。そうなんですか?」
「うん。ほなけんまたな、杏子ちゃん」
「ええ、ごきげんよう」
愚痴に付き合わされてはたまらないと、逃げ帰るようにして立ち去る桜の精霊の後姿を眺め。杏子は深い息を吐いた。
「ホント、あの頃は可愛らしかったですのに……」
それは雨の降る、ある春の日のことだった。母体である杏の老木の下で、杏子が雨宿りをしていると。丘を登って来る、黒い塊が目に入った。
「………?」
奇怪なその姿を杏子は不思議そうに見つめる。彼岸の方の客人かと思ったが、それにしては生命力に満ちている。だが、此方(こなた)の生物にしてはあまりに異様な姿だった。
「ぶううううん」
無数の羽音が近付いて来る。黒い塊が虫の大群だと気付いた時には、それは杏子のすぐ近くまで接近していた。
「毒虫さん、私に何かご用ですか? ただ雨宿りがしたいっていう訳ではなさそうですね」
殺気を感じ、杏子は右手を掲げた。特に力を込めた訳ではない。ただ警告の意味で手をかざしただけだ。だがそれだけのことでも効果はあったのか、黒い塊はそれ以上彼女に近付いては来なかった。
「去りなさい、大人しく去れば、命は取らないでおいてあげます」
「………」
「それとも。自殺願望でもあるんですか?」
「……ロ……シテ」
「え?」
声が聞こえた。虫が言語を解するという話は聞かない。虫以外の別の声が、黒い塊の中から聞こえて来たのだ。
「コ、ロ、シ、テ」
今度ははっきりと聞こえた。自分に向かって、「殺して」と相手は言っている。それは若い人間の声だった。そう言えばどことなく、黒い塊が人型に見える気がする。
(もしかして)
ある可能性が頭をよぎる。杏子はかざした右手に軽く力を込めた。
「蒸散」
彼女が呟いた瞬間。手のひらから凄まじい勢いで打ち出された空気の弾丸が、黒い塊を直撃していた。文字通り蜘蛛の子を散らすように吹き飛ばされていく毒虫達。彼らが覆っていたものが、少しずつ見えて来る。
「殺して。苦しいよ」
「……貴方は……?」
「苦しいよ。お姉ちゃん……」
そこに居たのは、一人の少年だった。年齢は十歳を過ぎた頃か。幼い顔を苦痛に歪めて、少年はこちらに歩み寄って来る。彼が歩く度、ボロボロと虫達が剥がれ落ちていく。まるで少年が脱皮しているように、杏子には思えた。
(毒虫に憑かれて、生気を吸い取られ続けている。このままではこの子は、数時間後には命を落としてしまうだろう)
「助けて」
(でも私に、この子を助ける義務は無い。食物連鎖──生命の輪廻を断ち切る資格は私には無い。毒虫の居る場所に寄って行った、この子が悪いんだ)
「助けて」
(……だけど)
「雨宿り、していきませんか?」
にっこりと微笑み、杏子は少年を招き入れた。自分には直接的にこの子を助けることはできない、だが。もしこの子が生きようとしているのなら、後押しをしてやるくらいのことはできる。
(殺してと言える程の覚悟があるのなら。死ぬ気で生きることも不可能ではないはず。たとえそれが、地獄の苦しみを伴うものであったとしても)
「私が、貴方に付き合ってあげます」
苦痛にうめく少年の身体を抱き寄せ、頭を撫でてやる。それで彼の苦しみが和らぐ訳ではない。だが、全く意味の無いことでもなかった。
体力を使い果たし、眠りに落ちる少年の身体を支えてやって。杏子は初めて、子を持つ人間の母親の気持ちがわかった気がしていた。
「ねんねー、ころりーよ。おころりーよー」
子守唄を口ずさむのも初めてだ。人里からたまに聞こえて来る、あらぶる魂を鎮める効果のあるその歌を、まさか自分が歌うことになろうとは。しかし嫌な気はしない。微笑みを浮かべて、杏子は少年の髪を撫で続けていた。
それが、水無月良平との出逢いだった。
「……それが、今ではこの様です……」
「あんずー、俺と結婚してくれー」
「嫌です。私にも選ぶ権利はあります」
「じゃあ、俺とえっちしてくれー」
「あーもー、しつこいですねっ」
言い寄って来る良平を前に、杏子はため息をつく。いつの間にこんなに大きくなってしまったのか。外見年齢は自分を越えてしまっている。もはや可愛らしさの欠片も無い。一抹の寂しさと、大いなる苛立ちを胸に、彼女は力一杯叫ぶ。
「蒸散!」
「ぐはぁっ!?」
あの時毒虫を退散させたのとは比べ物にならない程の空気弾が、良平をはるか彼方に吹っ飛ばす。それを見送り、杏子はほんの少し、気分が楽になるのを感じていた。
(やっぱり、人生においてストレス発散は大切なことですよね)
しみじみとそう思いながら。彼女は、良平への第二撃目を拳に込めるのだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます