ムーンライトダンシングヒーロー

上海公司

第1話 ムーンライトダンシングヒーロー

 マイケルジャクソンが死んだのは2009年6月25日の事だ。


 当時ぼくは小学生だった。

 当時のぼくは目まぐるしく変わる世間の流れに疎かったので、マイケルジャクソンが死んだ事がどれだけ重要な意味を持つのかなんて、さっぱり分かっていなかった。


 急性プロポフォール中毒、それがマイケルジャクソンが亡くなった理由らしかった。

それがなんなのか、もちろん当時のぼくには理解できるはずもなかったが、その怪しげな響きだけはやたらに耳に長く残っている。


 クラスメイトのクールガイを気取った連中は、その時はマイケルの話をやたらにしていた。


 彼らはマイケルが死んだ事への持論をあれやこれやと妄想を膨らませながら喋っていた。そして休み時間にはムーンウォークの真似事をして、上手い奴がいたら盛り上がっていた。


 僕はその輪の中に積極的に入る事はしなかったが、彼らの話をなんと無しに聞いていたので、その急性プロポフォール中毒というのが薬に関係する何かであるという事は分かった。


 1ヶ月も経つと、ぼくのクラスメイトはほとんどマイケルの話をしなくなった。

それよりかは、流行りのゲームの話だとかお笑い芸人の話とかを盛んにしていた。

それでもぼくの頭にはマイケルの事が陽炎のようにぼんやりと曖昧に残っていた。


 そんな事があったからだろうか。

 あの日の夜は僕の人生を根底から変えてしまった。

その日、その夜、ぼくは月の光の元でマイケルジャクソンに出会ったのだ。


 夏休みも終わりに差し掛かった頃だった。

ぼくは家族と共に夏祭りに出掛けていた。父は大学時代、名古屋の大学に通い、父の代から今でも続いている、歴史の長いよさこいサークルに所属していた。父の後輩(後輩と言ってもかなり歳が離れている)が夏祭りで踊りを披露するという事で、僕たちは夏祭りへ出掛けていたのだ。


「ヒロ、お前まだよさこい見た事ないやろ?」


 父は夏祭りのチラシをぼくに見せながら嬉しそうに言った。その時のぼくは「よさこい」というものが何なのかも分かっていなかった。


そんなぼくを見て父は自慢気に言った。


「よさこいってのはな、高知県の伝統的な踊りなんよ。おれが大学ん時高知出身の友達に誘われて一緒にやりおったんよ。今ではすごい人数おるんやけどな」


ぼくは黙って父の話を聞いていた。


「そんな昔の話どおでもいいでしょ。」

母は呆れたような顔で言った。それからチラシを覗き込んで顔をしかめる。


「演技開始が21:00って遅くない?」


「へーきへーき、それぐらいの方が人も多くて盛り上がるんよ。」


父は不満顔の母に向かって言った。


「ところでレンは?あいつにも一言言っとかんと」


レンとはぼくの2つ下の弟の事だ。


「どーせまた部屋にこもってゲームでもしてるんでしょ。」


夏祭りの時、ぼくはいつも胸を高鳴らせていた。いつもなら暗い時間に外を歩き回っていたら母にしかられる。だけどその日は好きなだけ夜の涼しい風を吸い込みながら名古屋の街を歩く事ができた。


 その日の風にはいろんな匂いがした。カステラの匂い、焼きそばの匂い、ビールの匂い。


「レン、あっち行ってみようよ!」


だるそうに歩く弟に向かってぼくは言った。


「いい。」


レンはむっつりと言う。昨日も徹夜でゲームをしていたのか、目の下にクマが出来ている。


「ちぇっ、つまんねーの。いいよ。オレ一人で行くから。」


ぼくはそう言って人混みを掻き分けて進んだ。


「ちょっとヒロ?あんまり離れないでよ。迷子になっちゃうわよ。」


背中で母の声を聞いていたが、ぼくは気にせずに進んだ。まるで何かに導かれているかのように、ぼくは必死に人混みを掻き分けて前へと進んだ。


どこかにたどり着きたかったのか、それとも 何かから脱そうとしていたのか、今になっては分からない。もしかしたら、月の光を求めていたのかもしれない。月の光で発狂して、オオカミにでもなりたかったのかも。


気がついたらぼくは人混みを抜けて、名古屋の街に独りポツンと立っていた。

 祭りとは不思議なもので、具体的な線引きがあるわけではないのに、まるでそこに境内でもあるみたいにはっきりと内と外が分かれているような気がする。


 夏であるのに、風がずいぶん冷たいように感じる。

 不安に駆られて、あたりを見回す。父の姿も、母の姿も、弟のレンの姿もそこにはない。


 カンカン。不意に後ろから聞こえた空き缶の音にぼくは心臓が握られるような思いがした。

 そこには祭りで酔っ払った二人のサラリーマンが、肩を組みながら千鳥足で歩いていた。ぼくはフラフラと歩く2人からそっと距離を置いた。


 それからぼくはとぼとぼと歩いた。遠くには白く光る栄のテレビ塔が見える。その時のぼくには魔物が住む城のように見えた。

時折酸っぱい匂いが漂ってきて、匂いの元に目を向けるとホームレスが横になって眠っていた。


 当時のぼくは世の中にそんな人達がいる事を全く知らなかった。だから、そうした人達を見て、ただ恐怖を感じた。


急性プロポフォール中毒


なぜか分からないけど、その言葉が頭をよぎった。


 その時だった。ぼくの耳はかすかな音楽を捉えた。

 その微かな音だけで、ぼくはすぐに何の曲かが分かった。報道番組や音楽番組で何度も耳にしていた曲だったからだ。


Cause this is thriller, thriller night


 それは紛れもなく、マイケル・ジャクソンのthrillerだった。ぼくは迷う事なく音楽がする方へと歩を進めた。月の光がぼくを導くように、強く輝いていた。そこはガラス張りの建物が並んだ通りだった。


 ガラス窓には綺麗に自分の姿が映った。

通りにはたった一つ人影が見えた。

ガラス窓と対面し、キレのあるダンスを踊っていた。その男は褐色の肌に、黒い長髪、全身真っ赤な衣装に身を包んでいた。

まさにそれはテレビの画面の中で何度もその姿を目にした、マイケル・ジャクソンそのものだった。


 マイケルの近くには黒色のスピーカーがあり、thrillerはそこから流れていた。

マイケルはこちらに気づく様子もなく、ただ懸命にガラスの中の自分を見ながら踊り続けていた。


 それはテレビの中で見たクールなマイケルとはどこか違っていた。ただ懸命に、狂ったように自分の姿と向き合って踊るマイケル。

月の光が鮮明に彼の姿を映し出し、光る汗の一粒一粒までも目を凝らせば見えるような気がした。


 その姿にぼくの胸は熱くなる。すごい!かっこいい!


 マイケルが踊り終えた時、ぼくは知らぬ間に拍手をしていた。マイケルが振り向く。

ぼくはそこでマイケルジャクソンが既にこの世にいないという事を思い出した。その途端、急に怖くなる。今、目の前にいる彼は誰なんだろう?もしかして、thrillerの中の世界のように本当に墓場から蘇ってきたのだろうか?


 どうしていいか分からずにぼくはその場に立ち尽くした。多分泣きそうな顔をしていたと思う。

 そんなぼくを見て、マイケルは微笑んだ。

月の光のような優しい微笑みだった。


「Hey, What's wrong boy?」


 マイケルはそう尋ねてから、親指を立ててぼくを読んだ。


「Come on here.」


 ぼくはそう言われて、戸惑いつつも言われるがままにマイケルの側まで歩いて行った。

そばまで来てまじまじとマイケルの顔つきを見ると、彼はとても同じ人間とは思えなかった。


彫りの深い、作り物のような顔、長いまつ毛、大きく、キラキラとした瞳。自分ではとても着こなせないだろうと思う真っ赤な衣装。


「Boy? Do you like dancing?」


ぼくはそう聞かれて戸惑う。すると、マイケルはもう一度、


「Do you like dancing?」


とぼくに尋ねながら、腰や手を動かして見せた。ぼくは首を横に振る。


「出来ないよ。」


するとマイケルは人差し指を立てて、それを左右に動かしてみせる。


「You and I were never separate. It’s just an illusion wrought by the magical lens of perception.」


 ぼくはマイケルがなんと言ったかは分からなかった。だけどその時不思議と、今ならぼくもマイケルみたいに踊れるんじゃないかと思えてきた。


この月の光の下でならきっと。


 それからぼくは、マイケルと一緒に踊った。マイケルが動かした手を、脚を、腰を、ぼくは見様見真似で動かしてみた。やっぱりマイケルみたいに綺麗じゃなかった。不恰好だった。身体が思うように動かない事が悔しかった。ガラスに映る自分をダサいと思った。

それでも僕たちは懸命に踊ってそれから2人して笑った。


 それからどうやって家に帰ったのかはあんまり覚えていない。ほんとにヘトヘトになるまで踊っていたからだ思う。


 母は死ぬほどぼくの事を心配していて、普段は怒らない父がこの日だけはぼくを叱った。だけどもぼくはそんな事これっぽっちも気にしていなかった。それよりももっと大事な事が、ぼくの心には渦を巻いていた。あの月の光が綺麗な夜に、ぼくは根本的に何かを変えられてしまったのだ。

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