絵具セットが無くなった

田藻茂(たもしげる)

第1章 母の教え-六野すばる(6歳)-

「今日はお天気が悪くてお散歩に行けないので、折り紙で遊びましょう」

 咲先生が少し残念そうに言った。どうして咲先生は残念そうなのだろう?僕は雨の日も好きだけどなあ。咲先生は、晴れた日にするお散歩の方が好きなのかな。気になったけど口にはしなかった。

「はーい!」

 声を合わせてみんなが返事をする。各々好きな色の紙を取って、折り始める。

 僕は青と黄色の紙を取る。この前の日曜日、お母さんにぬいぐるみを買ってもらった。そのときのお店の色だ。どこか外国の国旗の色だと教えてもらったけど、忘れてしまった。

 ぬいぐるみを買ってくれたお礼に、お母さんへ折り紙をプレゼントしようと決めた。お母さんは動物が好きだから動物を折ろう。

 お母さん、喜んでくれるといいな。僕はお母さんの笑った顔が大好きだ。喜んでもらえるように、慎重に丁寧に気持ちを込めて折っていく。

「あっ、大地くん。ハサミを使うときは手を切らないように気をつけてね」

僕の向かい側に座っている大地くんに咲先生が声を掛けた。

「わかってる」

大地くんはハサミを使って何を作るのだろう。興味が湧いてしばらく彼を見ていた。チョキチョキチョキチョキ。折り紙がどんどんと小さくなっていく。チョキチョキチョキチョキ。もう切れないくらいまで小さくなった折り紙を見て、彼は笑った。そして新しい紙を取り、また切り始める。

 つい、声をかけてしまった。

「大地くん、何を作っているの?」

彼はこちらを見ることなく、紙を切り続けながら言った。

「別に、何も。俺、折り紙が嫌いだから。でも切るのは得意だぜ」

そう言う割には全然綺麗に切れていない。大きさや太さがみんなバラバラだ。言葉を間違えているんだ。彼は、切るのが得意なんじゃなくて切るのが好きなんだ。

「そっか」

僕は間違いを指摘せず、自分の作業に戻った。

 ゆっくりと時間をかけ折っていく。僕は彼のように折り紙が嫌いなわけではないけど、得意でもない。

 隣に座っている勇気くんは、慣れた手つきで鶴を折っている。もう三羽目だ。

 やっとのことで犬ができた。次は猫を折ろうかな。黄色い紙を手に取り、折り始めようとしたそのとき。

「すばるは?」

相変わらず紙を切り続けている大地くんが僕に話しかけてきた。

「何が?」

「折り紙で何を作ってるんだ?」

「ああ、動物だよ」

「動物?」

初めて彼がこちらを見た。

「うん。これは犬。上手くはできなかったけど頑張って折ったんだ」

完成したばかりの青い犬を彼に見せた。

「嘘だろ?これが犬かよ。貸せよ、俺がもっとかっこよくしてやる」

「いやいいよ。あっちょっと…」

彼は僕から無理矢理に青い犬を奪い取った。

「ねえ返してよ」

聞いてくれない。いや聞いているけど返してくれない。

「返してってば!」

取り返そうと身を乗り出す。が、簡単に避けられてしまう。僕は運動が少し苦手だ。

「大丈夫だって。上手く作りたいなら得意な奴に任せた方がいいだろ?」

彼は笑いながら、僕が丁寧に折った青い犬にハサミを入れた。チョキチョキチョキ。あっという間に小さくなって、紙吹雪のように僕の前で散った。青い犬がバラバラになる様は、残酷だけれど美しくもあった。でも、もっともっと大きな感情が僕の心を飲み込む。

「ほら、かっこよくなっただろう?おい、泣くなよ」

泣いている?たしかに顔が熱くなっている気がする。視界が滲んで、ぼやけている。でも涙は溢れていない。

 ああ、お母さんに喜んで欲しかっただけだったのに。丁寧に時間をかけて折ったのに。一瞬で散り散りになった。お母さんの顔と、お母さんからの言いつけが頭によぎる。

「咲先生!」

少し声が裏返ってしまった。

「おい、チクるのかよ」

違う。彼にやられたことを咲先生に今言ったって意味がない。

「僕もハサミを使いたいので取ってきます」

上手く言えただろうか。異変には気づかれていないだろうか。

「はーい。席に着くまではケースに入れたままにするのよ。まあすばるくんなら大丈夫だよね」

咲先生はそう言い残して、他の子の様子を見に行った。

「おっ、ハサミのかっこよさに気づいたか?」

大地くんは、ハサミを閉じたり開いたりしながらニヤニヤしている。

 僕はハサミが置いてある棚へ真っ直ぐ向かう。棚からハサミの入ったケースを手に取り、その場でハサミをケースから取り出す。

 自分の席には戻らず、みんなのカバンやリュックサックが置いてある玄関へと向かった。目的のものを見つけ、僕は「それ」にハサミを入れた。なんの躊躇いもなかった。チョキチョキチョキ。

 雨が窓を叩く音がよく聞こえた。



          *

 


 ハサミを元の場所に戻し、自分の席に着いた。

「大地くん」

僕は少し震えた声で彼の名を呼んだ。少し汗ばんだ左手に力を込めて。

「僕もかっこいいものを作ったよ」

まだ彼は紙を切り続けていた。彼の目の前は紙屑の山になっている。その山の下の方に僕が折った青い犬が埋まっているはずだ。

「どれ、見せてみろよ」

彼は大して興味なさそうにこちらを見る。その目に罪の意識や後悔の様子は無かった。それでいい。そうじゃないと。

 僕は紙屑の山の上で、力を込め握っていた左手を開く。白と黒のフェルトが紙屑の山に落ちた。ぽさっ、と小さな音が鳴る。

 彼は目を見開いた。

「それって…」

僕は努めて笑顔を作る。

「大地くんが大切にしていた名札だよ。かっこよくなったでしょ?」

今の僕の顔、お母さんが見たら悲しむんだろうな。そんなことわかってるけど、仕方がない。

 彼の名前が書いてあるフェルトでできたサッカーボールの名札がバラバラになって、中に入っていた綿が飛び散っている。

「うわぁぁぁぁぁ」

彼は耳障りな声を上げて泣き出した。その声を聞きつけて咲先生が走ってくる。

「どうしたの?何があったの?」

彼はしゃくり上げながら言った。

「す、すばるが俺の、俺の、名札をバラバラにした」

彼が指差す方を見て、咲先生がやや怒り気味の口調で僕に尋ねる。

「ねえすばるくん、どうしてそんなことをしたの?」

「大地くんが先にやったんだ。僕が頑張って折った犬を切ったから」

僕はもうどうでもよくなっていた。ただ訊かれたら答える。感情の無いロボットのように。

「どうして犬を切られちゃったとき、すぐに先生を呼ばなかったの?」

「それは、一緒じゃないから」

「一緒?」

「僕は大事なものを壊されて、大地くんは悪い人になる。でも僕は悪い人になっていないし、大地くんは大事にしているものを壊されていない」

「どうして一緒じゃないといけないの?」

「だって、それはずるいと思ったから。大地くんが謝ったら僕は許さなくちゃいけない。大事なものはもう元に戻らなのに」

ひと呼吸置いて、僕は続ける。

「それに、やられたらやり返せってお母さんに言われているから。大事なものを壊されたから、壊し返した。大事なものを壊し合って、お互いに悪い人になった。だから、大地くんは謝らなくていいよ。僕も謝らないから」

彼が顔を真っ赤にして叫ぶ。

「お、折り紙なんかより、名札の方が大事に決まってるだろ!」

僕は首を傾げた。

「どうして?」

彼の言っていることがわからなかったのだ。本当に。

「だ、だって、折り紙の犬なんて、また折ればいいだろ」

「名札だってまた名前を書けばいい」

「あれはな!おばあちゃんが縫ってくれたんだ!だから、折り紙なんかよりずっと大事なんだ!」

ゆっくりと、確認するように僕は彼に言う。

「大地くんのおばあちゃんが、大地くんのために、気持ちを込めて縫ってくれたものなんだね」

「そうだよ!それをお前がバラバラにしたんだ」

「僕が折った犬だってそうだよ。気持ちを込めて折ったんだ。お母さんにプレゼントするつもりだったんだ。それを大地くんがバラバラにした」

何か言い返そうとしている大地くんを遮り、咲先生が言った。

「もういいわ、二人とも今日は離れていなさい」

「すばる!絶対にお前を許さないからな!」

まだ泣き喚き続ける彼を咲先生が抱きかかえて、僕がいる場所から離れている所へ連れて行った。

 僕だって許さないよ、と心の中で呟いた。



          *



 外の雨は止み、夕陽が差し込んでいた。保育園の中に暗い所と明るい所ができていて、僕は明るい所にいた。

 新しく犬を折ろうとしたけれど集中できなかった。何度も何度も折り直すけれど、最初のようにはいかない。心の中がなんだかモヤモヤしていた。

 暗い所にいる大地くんの表情はよく見えなかったけれど、膝を抱えて震えていた。きっとまだ泣いているのだろう。

 しばらくして、お迎えの時間がやってきた。先に大地くんのお母さんが来たらどうしようとビクビクしていた。彼のお母さんには謝らなければいけないからだ。でも先に来たのは僕のお母さんだった。

「すばるくん、お母さん来たけど少しだけ待っててね」

咲先生はそう言って、僕のお母さんの元へ向かった。きっと今日の出来事をお母さんに話すのだろう。

 ここからお母さんの顔がよく見えた。少し困った顔をして、ペコペコと頭を下げている。ああ、怒られるんだろうな。お母さんは職場でよく頭を下げさせられていてうんざりしている、と言っていた。お母さんに嫌なことをさせてしまった。だから、怒られる。そう思った。

「すばるくん、お待たせ。また明日ね。さようなら」

「さようなら」

咲先生に挨拶をして、お母さんの方へ歩いていく。お母さんは、難しい表情をして僕の手をとった。僕とお母さんはお互いに何も言わず保育園の外へ出た。階段を降りて、駐車場へ向かう。

 道にできた水たまりが夕陽に照らされキラキラしている。やっぱり雨は好きだ。水たまりのキラキラや虹は、雨のおかげで綺麗に見える。

 何か言われる前に僕から話した方がいいのだろうと思い、口を開く。

「ねえ、お母さん。今日ね、大地く…」

お母さんは突然立ち止まり、僕を抱き寄せた。

「ありがとう。すばる」

僕は混乱していた。お礼を言われるようなことをした覚えは無い。それにお母さんは地面に膝をついていて服が汚れないか心配だった。

「お母さんのために折り紙を折ってくれたんだって?」

「え?あ、うん。でもね」

「良いのよ。咲先生に聞いたから。すばるが大地くんにしたことも知ってる」

「怒らないの?」

「どうして怒るの?」

「悪いことをしたから」

さらにぎゅっと強く抱きしめられた。

「そうね。でも大地くんが先にやったのでしょう?」

「うん」

「先にやった方が悪いのよ。いつもやられたらやり返せとお母さんが言ってるからやり返したのでしょう?」

「うん…」

「どうだった?」

「どうだったって?」

「大地くんにやり返して、スッキリした?」

「ううん。ずっとモヤモヤしてた」

僕を離して、お母さんは笑った。

「それをね、お母さんは教えたかったの。だから、やられたらやり返せって、すばるに言い続けてたんだ。そのモヤモヤには名前があるのよ」

「どんな名前?」

聞いたことのない難しい言葉が返ってきた。

「ザイアクカン。すばるは別に悪いことがしたかったわけじゃないでしょう?ただやられたからやり返した。でもそのやり返したことは悪いことで、本当だったらすばるは絶対にしないこと。だからモヤモヤする。それを罪悪感というのよ」

お母さんは僕の目を真っ直ぐ見ていった。

「じゃあ次のステップね。今度誰かに何かをされたら、落ち着いて一度考えること。どうして相手はそんなことをしたのか。そして、やり返しちゃダメ。すばるは誰かにされた同じことを他の人にはしないと心に誓いなさい。もしどうしてもやり返したくなったら、そうね…」

お母さんは少し考え込み、また難しい言葉を口にした。

「人を呪わば穴二つ」

「どういうこと?」

「覚悟を持ってやり返しなさいということ。やり返す人にまたやられるかもしれない。その人のお友達も協力してあなたを傷つけるかもしれない。そのことをちゃんと考えた上で、やり返しなさい」

「今日大地くんにすぐやり返しちゃった」

「そうね。それは良くないことね。明日ちゃんと謝りなさい」

「許してくれるかな?」

「どうかしら。でも…」

お母さんがまた僕を抱き寄せる。そしてよくわからないことをお母さんは言った。

「大地くんが許さなくても、お母さんが許してあげる。あなたが大人になるまで、あなたの罪を食べて魂を浄化する。それが親の義務よ」

こんな風によくお母さんは難しいことを僕に言う。でも、子供扱いされていないんだという気がして嬉しい。

「ちなみに、良いことをされたらすぐに良いことをし返してあげるのよ。すぐにが難しかったら、心からありがとうと言いなさい」

これは僕にもよく理解できることだった。

「わかった」

「よしっ」

お母さんは立ち上がって、膝を手で払った。やはり服が少し汚れてしまっている。

 僕はあることが気になって声を掛ける。

「ねぇお母さん」

「ん?」

「青と黄色の国旗の国ってどこだったっけ?」

いつの間にか心のモヤモヤはどこかへ消えていた。

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