第14話 「高すぎるから」
殴られた箇所を押さえながら、
背の低い高校生、決してその男は喧嘩が強いほうではなかった。これまでに指で数え切れないほどの人間を病院送りにしてきた自分にとって、この敗北は屈辱以外の何者でなかった。
こんな姿、アイツに見られたら……。
「ホンット、弱いね」
見られた。一番見られたくない人物に、見られてしまった。
「あ、うぅ……」
「なぁに? そんな声を挙げちゃって。そんなに見られたくなかった?」
「ヘッ、こんな程度の怪我、たいしたことない……」
「ふぅん」
彼女は心配する素振りなど微塵も見せることなく、ただひたすら彼を見下している。
冷たい目だった。まるでマネキンが睨みつけているような、怒気も哀れみもない、無味乾燥の目で睨みつけられた。
「次は、必ず……」
「もういい」
「えっ?」
「もういいよ。あんな背の低い人に簡単に負けるなんて幻滅しちゃった。バイバイ」
「ちょ、おい、それじゃあ俺たちの関係って……」
「アンタ誰? 私、アンタみたいな弱い人知らなーい」
よく言えば無邪気。だがどこか邪気を含んだ笑いを高城に向ける少女。
「ふ、ふざけんなよッ! そもそも、お前があのチビ野郎に酷い目に合わされたから、復讐してやろうって思ったんだろうが!」
「はぁ? アンタが勝手に復讐しようとしたんでしょ? それで、勝手にやり返されちゃって、バッカみたい」
「ぐッ……」
高城は息を詰まらせた。
あまりにも冷たい彼女の視線が痛い。だが、それ以上に彼女に対する腹立たしさが増してくる。
「てめぇ!」
「なぁに?」
臆面もなくとぼけた返事をされて、高城は更に怒りが込み上げてくる。
純粋に彼女のことが好きだった。だから彼女の悩みならなんでも相談に乗ってやる、彼女を悲しませる奴がいるのならば絶対に許さない。そう心に誓った。
だが――。
「ふざけんじゃねええええええぇぇッ!」
拳に力を込めて、思い切り彼女に振りかざした。
好きだった少女でももう知ったことではない。可愛らしい顔に青痣ができようと、もう彼女を癒すこともなぐさめることもするつもりは毛頭ない。
彼女の顔に拳が抉る、その瞬間――。
「おい、コラ」
突然低い男の声が聞こえたかと思うと、力を込めた右手首が捕まれた。
彼の拳から力が抜けると同時に、手首に強烈な痛みが伝わってくる。
高城はゆっくり顔を挙げた。そこにいたのは、背の高い端正な顔立ちの男がこちらをじっと睨みつけていた。
「お前か、俺の彼女に手を出した男ってのは……」
「いや、その……」
思わず高城はたじろいでしまう。
「そうなんですよ。ちょっと優しくしたら勝手に勘違いしたみたいで……」
「ふんッ!」
鼻息を荒げて男は勢いよく手首を振りほどいた。
「あ、アンタ……、一体何なんだよ?」
「俺か?」
氷のような目つきで高城を見ながら、
「コイツの彼氏、だが?」
ゴクリ、と高城は唾を飲み込む。
まだ高城の手には痛みが残るが、力が込められないほどではない。この男には何の恨みがあるわけではないが、今となっては誰でもいいから殴りたい気分であった。
「ああ、そうかい。だったら――」
高城が殴りかかろうとした刹那、内臓が破裂するのではないかと思うような痛みが腹部に奔る。
「ぐあッ!」
呼吸が止まったのかさえ気付かなかった。一瞬の強烈な痛みの次には既に世界が真っ白になっており、彼はその場に蹲って倒れこんだ。
「クソが……」
男は冷たい口調で倒れこんだ高城に言い放った。
「きゃあ、怖かった」
あからさまに猫被った声で、少女は男の右腕にしがみつく。
「大丈夫だったか? 怪我はしていないか?」
「なんともないですぅ」
「そうか……、それなら良かった」
静かにホッと胸を撫で下ろす男。
少女は彼に見られないようにニヤリと不敵な笑みを浮かべた。
「この人、私の同級生なんですけど、この間告られてからずっと付きまとわれて困っていたんです」
「なるほどな。ただのストーカーか」
「でもでもぉ、これでスッキリしましたぁ。
少女は拝と呼ばれた男に擦り寄って、ぎゅっと抱きついた。
「おいおい、恥ずかしいだろ」
「ホント怖かったんですぅ。でも、やっぱり拝さんは頼りになりますね」
「当たり前だろ、俺はお前の”彼氏“なんだからな」
そういって少女の髪を優しく撫でる男の顔は、どこか優しかった。先ほどまで冷たかった彼の表情に、春のような暖かさがこぼれるようにも見える。
「お前は、俺が守ってやる。『珠美』……」
日はすっかり傾いていた。
咆助は言葉を無くしたまま未亜とゆっくり歩いていく。正直彼女ともっと突っ込んだ話をしたいところではあったが、先ほどの喧嘩の痛みがまだ残っているせいで思うように言葉も出ない。
「クソッ、あの中学生、思いっきり殴りやがって――」
今思えば死ぬほど痛かったと思う。あれでよく堪えながら中学生たちを倒せたかと思うと、不思議で仕方がなかった。
痛む顔をゆっくり挙げて、未亜の顔を覗き込んだ。気付かなかったが、彼女はこちらを本当に心配そうに眺めている。言葉を発しないのは彼女が言葉に選び悩んでいるのか、それとも彼女なりの優しさなのだろうか。
「犬飼君」
ようやく未亜が言葉を放った。
「何だよ」
ちょっとぶっきらぼう気味に返事をする。
「今日は、その――ごめんね」
「何を謝ってんだ?」
「ちゃんとデートの説明をしなくて……。その、月音さんと――」
「ああ。何だ、そんなことか」
咆助の顔に少し笑みが戻った。
「私、一人で勝手に盛り上がっちゃって、犬飼君の気持ちをこれっぽちも考えていなかった。犬飼君が月音さんのこと嫌っているのに、犬飼君のためだと思って、それで結局そんな怪我までさせちゃって――」
「あのさぁ」
咆助は背伸びをして、思いっきり未亜の額にデコピンを放った。
「痛いよぉ」
「だからさ、俺をそこらのラノベの主人公と一緒にすんなって」
「でも、犬飼君は月音さんのことを――」
「嫌いじゃねぇって」
その返事に、未亜はぽかんと口を開ける。
「嫌い、じゃない?」
「寧ろ好きだぜ、アイツ。あそこまでまっすぐで、自分の気持ちに正直で。しかも俺のこと好きだとか言ってくれる女子を嫌いになんかなれねぇだろ」
「でも――」
「あっ、でも好きって言ってもラヴじゃなくてライクのほうな。俺のことを慕ってくれる友達ってカンジかな。俺の中で」
未亜は少々戸惑いながら、胸に手を当てる。
――トクン、と心臓の音が聞こえた。
「いい奴だと思うぜ。さっきだって、俺のことあんだけ必死で守ろうとしてくれてさ、あそこまで必死になってくれたら俺も守ってやんねぇと、って思うだろ。男が女に守られるのも格好悪いしな」
「そう、なんだ……」
ほっと胸を撫で下ろす未亜だったが、まだ少しモヤモヤが残っていた。
「そういえば――」
未亜が咆助のほうを見る。
「さっき犬飼君、『他に好きな女の子が出来た』って言ってたよね。あれって――」
「おおっと!」
咆助は顔を赤くしながら、未亜から目を逸らした。
「い、犬飼君?」
「あ、悪い。それは、ちょっと、な……」
お前だ、なんてはっきりと言える筈がない。
もういっそのこと告白しようかと思ったが、口を噤む。出来る限り先ほどまでのぶっきらぼうな顔を緩めて、もう一度未亜に目を合わせた。
「それは、今は言えない。けどさ、いつかは絶対話すから。絶対、約束な……」
強気に返す咆助。
少し戸惑った様子で未亜は「う、うん……」と返事をした後、再び沈黙が訪れた。傾いた夕日が目に痛い。
しばらくしてから沈黙を破ったのは未亜だった。
「もう一個質問していい?」
「あ、ああ……」
「やっぱり、月音さんとは付き合えないの?」
「それは、その――」
「背か高い、から?」
咆助は少し黙り込んだ。
「いや、背じゃないんだ……」
「それじゃあ――」
「アイツ、高すぎるんだよなぁ」
咆助はポリポリと頭を掻いた。
窓際に差し込む夕日が、部屋を鮮やかな赤に染め上げた。流れ込んでくる風を感じながら、月音はふと先ほどの出来事を思い出す。
やはり咆助のことは諦められない。いつだっただろうか、通学途中で非常に背の低い少年に出会った。彼が自転車のチェーンを嵌め直すのに四苦八苦しているのを見かねて手伝った記憶がある。その後、彼はぶっきらぼうそうに「ありがとう」と感謝を述べて、そのまますたこらさっさと去っていった。
今にして思えば、彼は「余計なことするんじゃねぇ。背の高い女の手なんか誰が借りるか」という気持ちだったのだろう。だがその際に見た彼の姿が、どうしてだか月音の心に熱情の種を植え付けたのだった。
最初は母性本能の延長線上だったのだろう。しかしそれ以降彼と何度か顔を合わせるたびに(話はろくにしていなかったが)本当の恋心になってしまった。
「ホンマ、なんであんなんに惚れてまったんやろ?」
テーブルに置かれた紅茶を飲みながら、もう一度窓の外を眺めた。
遠くから犬の鳴き声が聞こえてくる。多分、夕方の散歩でも催促しているのだろう。
「ウチにはきっと懐かへんか。あの子犬は――」
分かってはいる。彼はきっと「咆える子犬」なのだ、と。
好きな人には正直なほどに咆えて、襲い掛かってくる敵にも咆える。だが、咆える犬は噛まない、という言葉のとおりに彼はきっと無意味に牙を出すことはない。
彼が牙を出すのは、大事な人を守るときだけなのだろう。
「おもろいやないか」
不敵な笑みをこぼして、月音は紅茶の飲み干した。
「絶対、奪ったる。犬飼咆助――」
しばらくすると、部屋の扉がコンコンと音を立ててノックされた。
「失礼します、お嬢様」
清潔なメイド服に身を包んだ女性が、静かに月音の部屋に入ってきた。
「紅茶のお替りはよろしいでしょうか?」
「ああ。んー、せやな。ハーブティ頼んでもええか?」
「かしこまりました」
メイド服の女性は淡々と頭を下げた。
「あ、あとな――」
「何でしょうか?」
「オトンからお見合いのぎょうさん話あったやろ? あれ全部断っといてくれへんか?」
「はぁ……」
「ウチの結婚相手はウチが決めたい。いや、もう決まっとるんや」
「ですが旦那様に――」
「オトンの趣味にウチが付き合う気はさらさらないわ。大体、お見合い相手やて、趣味の悪いスーツのオッサンばっかやろ。弁護士だか社長だか知らんけど」
ティーカップを置いて、月音は窓の外を静かに眺めた。
子犬の声は、まだ響き渡っていた。
「絶対、手に入れたるからな。犬飼咆助――」
――アイツ、高すぎるんだよな。
敷居とか。
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