第8話 「お昼ごはん」
翌日の昼休み。またもや屋上。
「あ、あのね。昨日言ってたお弁当なんだけど……」
――来ましたよ、奥さん。
「お、お弁当、ダ?」
鯨木が素っ頓狂な顔をして驚く。そりゃあ、一日でそんな関係になったのかと思えば無理もないが。
「そ、その……」
咆助は心の血潮が鰻のように上る。まさかこんなにも早く彼女の手料理が食べられるなんて思わなかった。
しかし彼女はずっと俯いていた。俯いたまま、口をもごもごと動かし続けていた。
「お、おう。もしかして……」
――展開的に忘れた?
というオチなのだと半分諦めモードの準備をしていた。寧ろ、ここまで漕ぎ着けた自分自身を褒めてあげたいと、何度も言い聞かせる。
「あのね、思ったより材料余らなくて……」
――だろうな。
咆助は泣いていた。諦めモードの準備をしていたとはいえ、泣かざるを得なかった。同時に、朝食を抜いた所為で腹の虫も鳴っていた。
「あー、咆助。こりゃダメだな」
――言うな、鮫島。
少し睨み付けて、咆助はもう一度未亜のほうを見た。一応、弁当箱は持ってきている。彼女の体躯に似合わず、小学生くらいが使うような小ささで、可愛らしく赤い兎のイラストが描かれていた。
「あのね、犬飼君」
「あー、仕方がないだろ。無理に頼んだわけじゃないけどさ、俺としては未亜の料理が食べられないのは残念だけど、でもな……」
日本語にならない日本語を羅列して、支離滅裂な文章を並べる咆助。
そんな彼を他所に、未亜はカパッと弁当箱の蓋を開けた。
「おにぎりしか、作れなかった……」
――あー、おにぎりね。おにぎりだけ、ね。
「……えっ?」
申し訳なさそうな未亜の表情が、逆に申し訳ないぐらい、申し訳ない。宇崎 未亜は約束を破るような女性なのかと一瞬でも思った自分が愚かだと咆助は思った。
弁当箱の中に、五色、七色、いやもっと多くの色が詰まったおにぎりがいくつも並べられていた。多分、彼女なりに様々な味を工夫したのだろう。形も普通の三角形から丸、星、そしてハートなんて難しそうな形のものまで入っていた。
「あの、よかったら……」
思わず咆助の涎が垂れそうになる。桃源郷だ。ただのおにぎりなんて絶対誰にも言わせない。
「遠慮なくいただきます!」
馬鹿丁寧に両手を合わせて、咆助は目の前のおにぎりに手を伸ばす。指先に、おにぎりの感触が伝わる。数時間前までこれを彼女が握っていたのだから、なんとなく今でも彼女の温もりが手に伝わってくるような気がする。
唾を飲み、息を大きく吸い込んでから手にしたおにぎりを口へとかぶりついた。
米の柔らかい感触が口内全体に広がる。硬すぎず柔らかすぎず、ほどよい加減で炊かれたご飯が海苔の香ばしい香りと共に咽の奥へと柔らかさを伝える。そこに、ほどよい塩味とおかかふりかけのコクが加わり、更なる未知のコラボレーションを生み出した。しばらく噛み続けていると、ピリッと酸味が舌先に伝わる。これはそう、梅干の味。おそらく自家製だろう。これまた柔らかく、種も抜かれて食べやすくなっている。日本人なら誰しもが喜ぶ味。素朴ではあるが、故郷の母親(咆助は実家暮らしだが)を思い出させる、優しい味わいだった。
「泣けるぜ」
咆助が最初にこぼした言葉はそれだった。
「そっか? 旨いけど結構普通のおにぎりじゃんよ」
空気を読めない鮫島は無視をして、咆助はガシッと未亜の両手を握った。
「お前、天才だろ?」
「て、天才? そんなこと初めて言われたんだけど……」
「いやいや、もっと自信を持てって! 俺が保証する、このおにぎりは芸術作品、マザー・オブ・ニギリメシである、と!」
未亜のおにぎりを高らかに掲げる咆助。もちろん、鮫島と鯨木はドン引きしたようにほけぇっと眺めている。
「未亜、やっぱりお前はすげぇ奴だよ」
「えっと、犬飼君?」
どぎまぎと困惑しながら未亜は咆助を見続ける。
なんとなく作っただけのおにぎり。彼女だって本当は時間と材料の余裕さえあればもっとちゃんとしたお弁当を作ることも可能だったはずだ。
咆助が別のおにぎりに手を伸ばす。今度は中身に昆布を入れたやつだ。
それもまた、咆助は口にした瞬間、未亜が驚くほどに驚いた。
「うめぇ! 最強のおにぎりというものを見た。これは究極というか、おにぎりというものを超越した米の塊以上のものだぜ!」
「それ、褒めているダ?」
当然の突っ込みを入れる鯨木。
未亜はまんざらでもないのか、照れくさそうに両手をさすっていた。
「あ、あのね……」
「未亜、ありがとう。俺、こんな旨いおにぎりを食ったという今日のことを一生忘れない!」
未亜は少し心を落ち着かせてから、
「今度は……、その……、もっとちゃんとしたお弁当作るから……」
「えっ?」
「あと、ありがとう……。こんなに誰かに褒めてもらったの、初めてだから……」
未亜が突然泣き出した。嬉し泣きなのだろうが、鮫島や鯨木から見たら、咆助が未亜をいじめているようにしか見えなかった。
「お、おい。泣かなくていいだろ……」
「ううん、泣かせて……。犬飼君」
咆助は慌てながらなんとか彼女を宥めようとする。
これほどまでに弱い少女を咆助は見たことがない。女の涙はダイヤモンドより高い、などとは言うが、咆助が今までに出会った女は大抵そのダイヤモンドを百円ぐらいで安売りしていた。
けど、未亜は違う。
今、彼女は本当に嬉しくて泣いている。おにぎりを褒めただけという他愛もない出来事でも、彼女にとっては宝石よりも貴重な時間だったに違いない。
咆助は、ふぅっと息をして彼女の涙を拭った。
少し暖かい涙だった。咆助の指先に伝わるその雫はダイヤモンドよりも硬く、淡雪よりも柔らかい、不思議なものだった。
咆助はじっと彼女を見つめていた。
――図体だけは大きい癖して、本当弱いんだから。
今思えば、こんな恋は初めてかも知れない。相手をただかわいいからとか、気が合いそうだから、とかではなく、彼女の強さも弱さも受け入れた恋。咆助はそれら全てを好きになれる自信があった。いや、好きになってしまいたかった。
だからこそ、自分自信がもっと強くならなければ――。
彼女に見えないように拳を握りしめ、心に強く決意するのであった。
「なるほど、お前らそういう関係だったのか」
突然、咆助の背後から声が聞こえた。
「ふぅん、なるほどなるほど」
腰に手を当て、不敵な笑みをしながら突っ立っているその人物は、担任教師の雷野 沙依果だった。
「おい……。今の、見てたのか?」
「ああ。見ていたとも」雷野は腕を組み直し、「私はな、別段不純でなければ、異性交遊を認めてもいいと思っている」
「あ、そう。だったら……」
「だがしかああああし!」
雷野は怒りを露わにして叫んだ。
「女を泣かすような男には、容赦などしない! 覚悟するのだな、犬飼 咆助!」
「見てねぇじゃねえああああああああ!」
咆助は見逃さなかった。雷野が『覚悟するのだな』と言った瞬間、唇を舌なめずりしたのを。
――こいつ、理由つけて俺に何かする気だ。
「あ、あの……、先生。犬飼君は……、何も……」
「おい、鮫島に鯨木! お前らも見てたよな?」
弁解を求めようと二人の姿を探すが、
「って、いねええええええええ!」
「さぁ、放課後を楽しみにするがいい! ファンクラブ会長……、じゃなかった、ショタコ……、でもなかった、担任教師である私が、みっちりと指導してやるぞ!」
今、一瞬聞き捨てならない単語が聞こえたような気がしたが、咆助は最早それどころではなかった。
顔をぴくぴくと痙攣させながら、咆助はある種の恐怖感を心底感じ取るしかなかった。
「ふ、ふざけるなあああああああ!」
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