第6話 「スーパー戦線異状アリ」
人が多すぎる。
ごった煮、とはこういうことをいうのだろう。そこはあまりにも過酷、そして残酷すぎる場所、まさに戦場と呼ぶにふさわしい場所だった。ただし、漂ってくるのは血生臭い匂いではなく、冷たい生鮮食品の匂いだったが。
「タマゴ一パック六十円! 消費税は含めないよ! 税率アップ? 知るか、んなもん! そこの奥さん、今がお買いだよ!」
「ちょっとそこのシャケ私が狙っていたのよ!」
「洗剤が売り切れ……馬鹿な、そんなことが、ある、はずが……」
「私、この買い物が終わったら、旦那にシチュー作ってあげるんだ……」
「お兄さんどいて! そいつ奪えない!」
あまりにも多すぎる人間たちは、皆どこかしら殺気を放っていた。冷房の効いた店内ですら客たちの熱気で全て溶かしてしまいそうなほどだ。
咆助は入り口に立って、ようやく察した。
――ここは、恐ろしい場所だ。
「えっと、挽肉と、小麦粉……あと、キッチンペーパーも切れていたんだよね」
そんな中で、未亜だけが至って冷静に買い物メモを眺めていた。
「おい、未亜」
「ん?」
「お前、こんな恐ろしい場所に……」
咆助は再び店内を見回す。どいつもこいつも、正気を保っていない。ひっきりなしに入る年配女性という名の野獣どもは、皆「安さ」と「安全さ」を求めて、その戦場を駆けまわっている。
「大袈裟だよ。ただのスーパーで……」
「馬鹿野郎! お前はここの本当の恐ろしさを知らないからそんなことが言えるんだ!」
「ここ、行きつけのスーパーなんだけど……」
さすがに未亜も呆れて引き笑いが出てしまった。
咆助は恐る恐るその激地へ足を踏み入れる。一瞬、人々の視線がこちらを釘刺すように感じ取れた。まるで、新たな敵が舞い込んで来たかのように。
「チッ、奴ら正気じゃねぇ」
「正気じゃないのは犬飼君のほうじゃ……」
彼に聞こえないようにこっそりつぶやく。
「で、目的のブツは一体どれだ……」
「あ、ええと。メモを見せるね」
買い物メモに書かれていた最初の商品は、醤油。そして卵、挽肉、玉葱。
まずは醤油の置いてある調味料コーナーへと向かう。籠を手に取り、カートの上に置いてから咆助は速攻で駆けていった。
「うぉおおおおおお!」
雑貨コーナーと菓子コーナーを横目に、彼はただひたすら調味料を求めて猛獣どもの合間を潜り抜ける。途中、彼を塞ごうとする者が数名いたが、そんなものをものともせず、咆助は躱していった。
そして、調味料コーナーに辿り着き、目的のお宝を見据えた。
「そんなところにいやがったのかよ……発酵食品風情が!」
ブツを手に、彼は勢いよく踵を返す。
次なる目的地は、卵コーナー。そういえば先ほど卵が安売りされていると言っていたはずだ。
そうと決まれば急ぐしかない。
彼が全霊を込めて駆け出そうとした、その瞬間――。
「ちょっと、ボク」
野太い男の声が耳に届く。しかし無視。
「あのね、店内で走り回られたら迷惑なんだけど」
「あん?」
咆助はその男を睨み付けた。
「カートはおもちゃじゃないんだからね。他のお客さんにぶつかったら迷惑でしょ」
エブロンをつけた大男が、仁王立ちしながら咆助を見下ろしていた。
――マズイ。こいつ、できる。
流石に咆助も萎縮してしまいそうになるが、すぅっと深呼吸をして冷静さを取り戻す。
よくよく考えたら、自分が悪い。店内をカートで走ったらそりゃあ怒られても仕方がないだろう。ついでに言えば、多分コイツは店員だ――。咆助は思考を一気に巡らせた。
冷や汗を垂らしながら、咆助は心を落ち着けて、
「すみません」
「分かればよろしい」
咆助の素直な謝罪に、店員も呆れ気味に許した。
さてと、と気を取り直し、咆助は未亜を探す。今思えば一人で突っ走った自分は本当に馬鹿だったと猛省した。
「い、犬飼君……。やっと見つけた」
未亜が息を荒げながら、咆助の元にやってきた。
「あ……、宇崎。悪かったな、一人で突っ走って」
「ううん……いいの。それよりも、ありがとう」
「え?」
突然感謝され、咆助は唖然としてしまう。
「……タマゴ」
「はい?」
「タイムセールの、最後の一個取ってきてくれて」
咆助はカートの中身を見る。いつの間にか、タマゴのパックがひとつ、籠の中にぽつんと置かれていた。
――さっきの店員か。
周囲を見渡して咆助はあの店員を探す。彼は乾物コーナーの商品を並べていた。咆助の視線に気づいたのか、店員は咆助を一瞬だけ見て、にこりと微笑んだ。
「クソッ、格好いいな。あの店員」
咆助はただ苦笑いをするしかなかった。
「あ、そういえば、メモに書き忘れたけどお豆腐も買わないと……」
未亜がそういうと、咆助は大豆製品コーナーのほうを向く。
「任せとけ」
――今度こそ。
咆助が睨み付けた先にある、豆腐の山。積み上げられたパックたちが、ひとつ、またひとつと買い物客の手に渡っていく。
「えっと、犬飼、くん?」
未亜があからさまな引きつった表情を浮かべる。
「未亜、お前はここで待ってろ」
「はい?」
「ここから先の戦いは、今までにないほど過酷になると思う。そんな中にお前を連れて行けるわけがないだろ」
「ご、ごめん……意味がよく……」
分からない、といいかけたところで
「ケッ、久々に震えやがるぜ! 俺の、野獣の血がよぉ!」
「え、えっと……」
「待ってろ! 未亜! うおおおおおおぉ!」
咆助は怒涛の勢いで豆腐のほうへと向かっていく。その姿はまるで獲物を見つけた野犬の如く……などということにはならず、他の客からしてみれば完全に傍迷惑な客としか見えなかった。
ひとつ、そしてまたひとつと豆腐がコーナーから消えていく。今日は何ゆえ豆腐が売れるのだろうか。日本人の豆腐消費量を侮っていたのかもしれない。とにかく、今は目の前の豆腐を手に取ることで精一杯になっている咆助であった。
そして、最後のひとつ――。
「うがああああああぁぁぁ!」
猛獣の右手が、豆腐のほうへと伸びた。
ゆっくり、その手が近づいていく。コンマ数秒間、でも咆助にとっては何度生死を繰り返したか分からないほど長い時間だった。
そして――。
その右手に、目的の豆腐が掴まれるのだった。
「やった――」
豆腐を持っていないほうの左手でガッツポーズを取る咆助。冷静に考えたらただ売り場から商品を取ったに過ぎないのに、勝利の喜びがここに極まるばかりの表情を浮かべた。
「未亜! みああぁ! 俺やったよ! 最後の豆腐、ゲットしたよ!」
大声で未亜を呼ぶ咆助。当然だが、周囲の客たちが一斉に咆助のほうへ視線を向けた。
「未亜! 俺、ついに、ついにやったよ」
「ホンマか?」
「ああ、ホンマだ! ホンマにホントの本能寺だ!」
「ようやった! さすがウチの見込んだ男や!」
「へっ! 照れるじゃねぇか!」
二人はハイタッチを交わした。パチン、という心地のよい音が響き渡る。
「ところで……」店員はその鋭い目尻の鎌首を挙げる。「未亜って誰や?」
そこにきて、ようやく咆助は店員の顔を眺める。
「って……」
正直、今日この時この瞬間、一番会いたくなかった人物。いつもとは全く違う格好、というかいつもの服装のインパクトが強烈すぎて気づかなかった。咆助のよく知っているそいつは白のワイシャツに赤茶色のサロンなど身に着けることはなかったからだ。
いつもの、スケバンを意識したのかよく分からない姿はどこにいったのだろうか。スーパーの店員として、彼女――碇月音が咆助の顔をじっと覗き込んでいた。
「あ……なんで、てめぇが?」
「見てのとおりのアルバイトや。しかしまさか、こんなところで咆助に出会えるなんてな。やっぱりウチらは運命の赤い糸っちゅうもんで結ばれとるんやな」
「るせぇ!」
咆助が威嚇して吠える。もちろん、怖くない。
「そんでな、さっきの話。誰や、未亜って?」
「ぐっ……」
咆助は喉の奥を噛み締めて彼女を睨み付ける。
「あ、犬飼君……」
咆助が硬直していると、背後から未亜がやってきた。
――マズい。
ここにいるのは、ただでさえ暴力的で面倒臭い、ストーカー紛いの女。しかも、未亜は知ってのとおり臆病大兎と呼ばれるほどの人見知りだ。下手に月音が威嚇してしまったら、未亜にフラれるどころかこんな女と友人かと思われて二度と話しかけてもらえないかも知れない。
「じゃ、俺は急ぐんで」
「待ちぃな。まだ話は終わっとらへんで」
「ヘッ、てめぇと話すだけ酸素の無駄遣いだ」
「ふん、ならその酸素ごとアンタの口から吐かせたろか?」
「いいのか? お前、バイト中なんだろ? こんなところで客に手を出したらどうなるかぐらい、分かっているよな?」
「くっ……」
――勝った。
月音が意外と口喧嘩に弱いことは咆助も知っている。しかも相手はアルバイトという立場である以上、手出しなどできるわけがない。楽勝にもほどがある――咆助がそう思った、次の瞬間。
「なるほどな、その女が未亜っちゅうわけか」
「へ?」
咆助が横を振り向く。
「あ、ごめん。犬飼君……」
時すでに遅し。未亜が横でどきまぎしながらいつの間にか立っていた。
「なるほど。なるほどな、なるほど……」
「あの、えっと、なんかごめん……」
何を思ったのか、彼女はしどろもどろに謝る。
咆助はといえば、顎が地面に着くのではないかというほど、あんぐりと開けてしまった。
「なるほどな。なかなか可愛い子やないかい」
「可愛い……」
「おい、行くぞ。未亜」
咆助が踵を返して、なんとか月音から目を背ける。未亜もそれに釣られるかのように背後を振り返った。
「ちょい待ちいな」月音が呼びかける。「ひとつだけ聞かせてもらおうやないか」
「なんだよ?」
咆助は一旦立ち止まった。しかし、月音に目を合わせる気はさらさらなかった。
「なんで、ウチはダメなんや……」
少し悲しそうに月音が尋ねる。流石に咆助も舌打ち以外は口を噤むしかなかった。
「犬飼、君?」
未亜が尋ねても咆助は全く答えようとしなかった。碇 月音は、いつも無駄に強気で咆助にアタックしているような少女だ。今まで自分がどれほど拒んでも、しつこく、まるで負ける気などこれっぽちもないかのように意固地に攻め続けた。
「俺は……」
「なんでや? 他に好きな女がいるからか?」
彼女にしては弱々しい声だった。女特有の泣き落としや弱みを見せるなんて手を使うような女だとは思えない。寅田先輩頼りだが、とにかく攻めるかもっと堂々とした策を重ねる、そんな姿しか思い浮かばなかった。
「高いから、だよ」
散々迷った挙句、咆助の口から出たのはその一言だけだった。
「高い、やて?」
「ああ……」
咆助はそれだけ呟くと、とぼとぼと歩いて立ち去ってしまった。未亜もそれに続いて行こうとするが、ふと月音が気になってしまい後ろを振り返った。
彼女は何も言おうとしなかった。怒っているとも泣いているともとれない、ただ眉を顰めてどうすることもできない顔つきになっていた。
「なるほど、な……」
どうすることもできない。今ここで何もいえない自分が悔しい。でも、下手に何かを言うのが怖い。臆病大兎は困惑しながら、何も言わずに咆助と共に去っていった。
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