第4話 「失恋、そして……」

「軽く捻ったみたいですが、大したことはありません。二日ほど安静にしていればすぐに治りますよ」

 包帯を巻いた足首を見据え、未亜は松葉杖を突きながら院長にお辞儀をした。

「ったく、冷や冷やしたぜ」

「ありがとう、犬飼くん……」

「ん? 何が?」

「病院まで、おぶってくれて……。重かったよね、私」

「いや、そんなん気にするなよ。それよりこっちこそ……」咆助は頬を掻きながら、「悪かったよ。そんな怪我させちまって」

 しばらく無言が続いた。

 咆助がこれほどまでに低姿勢になったのも久しぶりかもしれない。自分より大きな者に対してはいつも背伸びをするように相手の目を睨みつけていた。そうしなければ負けてしまうような気がしてならなかったからだ。

「犬飼君、本当にありがとう」

 未亜は静かに前進しながら微笑んだ。

 咆助は目を背けた。彼女をじっと見ていられなかった。

 そうして再びしばらくの沈黙が続いた後、

「あれ? 先輩」

 咆助の耳に届く、聞き覚えのある声。

「何々? 珠美ちゃんの知り合い?」

 同時に聞こえる、全く知らない声。

 咆助は驚きつつ、そっと彼女のほうを見た。正直今だけはその光景を見るのは怖かったのだが、勇気を懸命に振り絞った。

 猫沢珠美、彼女は男と一緒だった。しかも、いかにもな仲むつまじさを醸し出すように腕を組んでいた。

「あー、先輩。もしかしてデートですか?」

 悪意の欠片もなさそうに咆助をからかう珠美。

「おいおい、珠美ちゃん。先輩にそんな口の聞き方するなよ」

 透き通った太い声で、男は珠美を諭す。

 咆助は顔を見上げて男を見る。率直に言って咆助は負けを認めざるを得なかった。

 明るい茶髪に、咆助がいくら背伸びしても届かないほどの長身。顔だってはっきりと「イケてるメンズ」の部類に属している。多分、少女漫画の男子キャラを現実に出したらこんな風なのだろうと咆助は思った。

「すみません、せんぱーい」

「あ、あのさ、猫沢……」

「あ、はい」

「その人は、一体……?」

 しどろもどろに、咆助は尋ねた。

「あ、紹介しますね。この人、私の」珠美の言葉に、咆助は一瞬耳を閉じたくなった。「私の、彼氏なんですよ」

 にこやかに答える珠美。

 重い気持ちを押し殺しながら咆助は顔を引きつらせて笑うしかなかった。言葉にできないとはこのことを言うのだろうか。

「あ、いけない。もうこんな時間」

「邪魔して悪いね。それじゃ、俺たちはこれで」

 二人はそういって踵を返した。

 烏の鳴き声だけが咆助の耳に届く。あげた顔を俯かせながら、彼は軽い呼吸をすることもなく陰をつくった。

「犬飼、くん?」

 未亜が呼びかけるも、返事はない。

 二、三歩、ようやくといった感じで咆助は歩いた。その足取りはどこか重く、そして力がほとんどなかった。

「宇崎」

「はいっ!」

 ようやく呼びかけた咆助に、思わず未亜は精一杯返事をしてしまった。

「お前、一人で帰れるか?」

「えっ……? まぁ、なんとか……」

「悪いな。一人になりたいんだ」

 とぼとぼと、ゾンビのような足取りで咆助は歩いていく。もう、彼の力は全て抜けていた。彼が歩く先にいる人たちも彼のオーラから逃げるように遠ざかっていった。


「ふぅ」

 公園のベンチに腰掛ながら咆助は一息ついた。

 人はいない。乾いた寒風だけが地面の砂をひたすら掬っている。

 しばらくすると街灯が光を放ち始めた。同時に夕日も落ち、完全に夜を出迎える体制になってしまっていた。

 一旦落ち着いて、咆助は立ち上がった。ベンチの近くに自販機があったので、ゆっくりとそちらへ向かっていった。

 自販機を見上げた。普通ホットの商品は下段にあるものなのに、何故かここの自販機は一番上に設定されている。しかもコンクリートの段の上に自販機が乗っているため、他の自販機よりもボタンの位置が高い。

 お金を入れた後、咆助は深呼吸をしてボタンに手を伸ばした。

「うっ……、クソッ、が……」

 意固地になりながら、咆助はボタンを押そうとする。しかし、そこに手は届かない。

 ――いいよな、背が高い奴は。

 背伸びをしながら、咆助は先ほど珠美と一緒にいた男の顔を思い出した。

 やっぱり女子は背の高いイケメン男が好きなのか。珠美ちゃんみたいに小柄な女子は尚更そうなのか。どんなに頑張っても、チビは一生チビのままなのか。

 次第に咆助の顔に涙が滴った。泣きたくない。泣いたら、自分が弱いということを証明しているようなものだ。絶対に、背の高い奴には負けない。こんなボタンぐらい、押して見せる。

「背の、高い奴なんか、大嫌い、だ……」

 その時だった。

 ――ピッ。

 咆助の目的としていたお茶のボタンが押された。しかしそれは咆助の手によるものではない。

 がこん、と音を立てながら自販機からお茶が落ちる。その手はゆっくりとお茶を取って、咆助のほうへ向けた。

「はい」

 手渡されたお茶を受け取り、咆助は呆然とした。

「お、おう……」

「これ、欲しかったんだよね……」

それが誰かを識別するのに顔を挙げる必要はなかった。彼女の白魚みたいな指と、しなやかな細腕。そして足首に巻かれた包帯。

「う、宇崎?」

 二人はそのままベンチに戻り、隣同士で腰掛けた。

 しばらく会話はなかった。ただ咆助は買ったばかりのお茶を開けることもなく、ひたすら手の中で転がしていた。

 風は冷たい。春も終わろうとしているのに、夕方の冷え方が異常でならない。夏は当分先なのだということを嫌というほど思い知らされるようだ。

「あ、あの……」

「どうして帰らなかった?」

「それはその……、犬飼君が、心配だったから」

 再び沈黙が訪れた。大きなお世話だ、に代わる言葉が全く思いつかなかった。

 ようやくお茶のキャップを開け、一口啜った。もう言葉を出す気分でもなかった。

「あ、あのさ……。こんなこと聞くのは失礼だと思うんだけど」

 未亜はたどたどしく尋ねてきた。もう聞かれることは分かりきっている。咆助はお茶のキャップをゆっくりと閉じた。

「好き、だったんだよ」

「えっ?」

「さっき話していた子。中学時代の後輩だったんだけどさ、惚れてたんだよ」

 それを聞くと未亜は俯いた。どうやら彼女が聞きたいことの答えだったらしい。

 そして、一呼吸置いて彼女は口を開き、

「すごいね」

「えっ?」

「犬飼君でも、恋、するんだ」

 その台詞に咆助は少しカチンときた。

「おい、それ、どういう意味だ? ああ!?」

「あ、ううん。決してそういう意味じゃなくて」未亜はもう一度落ち着きを取り戻して、「あのね。正直言うと、犬飼君のこと誤解していた」

「誤解?」

「うん。ほら、犬飼君っていつもこう、ぶっきらぼうだから……。その、自分より背の高い女の子と話すときとか」

「ま、まぁ……」

 確かに、と咆助は思い浮かべた。別段男子と背の低い女子とかと話す際はそこまでではないのだが、背の高い女子と話すときはどうしても多少なりとも敵意を剥き出す。あまり話をしたことのない彼女がそこを見抜いていることに対しては、咆助も素直にすごいと感心した。

「でもね。さっきの犬飼君を見ていて、それは誤解だって思った。だって、あのときの顔……あの女の子が彼氏さんを紹介したとき、犬飼君本当に落ち込んでいたから。あれは本当にあの子のことを好きだったんだなって、そう思った」

「格好悪いところ見られたな」

「ううん。そんなことない。だって……」

 未亜は気恥ずかしそうに顔を赤く染めた。

「ま、なんていうか落ち込むのは性に合わないからさ、とにかく一人にして欲しいんだよ。まだ怪我したところが痛いんなら肩ぐらい貸すけど……」

 その台詞を咆助が吐いている間に、いつの間にか隣にいたはずの彼女は咆助の目の前に立っていた。そしてそのまましゃがみこんで、ゆっくりと前を向いた。

「やっと、目が合ったね」

 咆助の目の前に飛び込んできたのは、優しい少女の顔。どことなく暖かな彼女の顔つきは、下から見上げているだけでは気がつかなかった。天使、という言葉では足りない。初めて咆助と対等な目線に立ってくれた、優しげな少女の顔がそこにあった。

 ――トクン。

 一瞬、咆助の心臓が揺れ動いた。一定の音を奏でているはずの心が、その瞬間だけ妙に大きな音を鳴らしていた。

 咆助は目を見開いたまま、ずっと身体を硬直させ続けた。

「あ、ごめん。もう行かなくちゃ」そういって彼女はゆっくり立ち上がった。「犬飼君ならきっと他にいい人が見つかるよ。だって、犬飼君は、私を助けてくれたんだから」

 未亜はそれから手を振って公園を後にした。彼女の後姿が見えなくなるまでしばらく時間がかかったが、どういうわけか咆助はもっとその後姿を見ていたいと思ってしまった。

『犬飼君でも、恋、するんだ』

『やっと、目が合ったね』

『犬飼君ならきっと他にいい人が見つかるよ。だって、犬飼君は、私を助けてくれたんだから』

 ――ははっ、いい人か。

 咆助は思わず笑ってしまった。

「ホント、バカみてぇ」

 そのまま咆助はずっとベンチに腰掛けながら笑い続けた。彼の頭にはずっと彼女の姿が映し出されていた。


 ――俺、好きになっちまった。自分より、でけぇ女。


 公園内に、子犬の笑い声がいつまでも響いていた。

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