第3話 「臆病大兎」
どこをどうしたら遅刻がチャラになるのか理解できなかった。
咆助は目の前にいる人物をじっと見上げた。首が痛い。ただでさえ背の低い咆助にしてみればその人物は東京タワーと大差ないほど“大きかった”。
「よ、よろしくお願いします」
小刻みに震えながら、たどたどしく言葉を発する大男ならぬ大女。身長は咆助より頭ひとつか二つ大きい。ざっと一八〇センチといったところか。
やや癖のある淡い桃色の髪。大きく開いた目を泳がせながら、頬を染める少女。落ち着きなど微塵も見当たらず、間違いなく彼女は“怯えて”いた。
――こいつか。
同じクラスだから、彼女の存在は知っている。おそらく、咆助的にクラスで一番苦手なタイプである。だからこそ今日に至るまで話しかけるのはおろか、関係をできるだけ持たないようにすごして来た。
「
「あ、あの……」
――まさか、こいつと図書委員をやれと?
高校で背の順というシステムを採用していれば、間違いなく彼女は列の一番後ろに並ぶことになる。小学生の頃から一番前をキープしていた咆助にとってみればそこは未知の空間。余談だが名前順でも「いぬかい」なので大抵前に並ぶことが多い。
「よろしく、ね……」
たどたどしく挨拶をしてくる未亜。
咆助は試しに少し睨んでみる。
「ひっ!」
素っ頓狂な顔で驚いた未亜は、後ずさりして教卓の陰に隠れてしまった。
――やっぱやりづれぇ。
自分より背の高い女子は敵。咆助理論に基づけば、背の高い女子は大抵態度もでかいというのが筋なのだが、彼女は違う。身体の大きさに似合わず非常に小心者。咆助が今まで見たことのないタイプだ。
誰かが言っていた、彼女のあだ名をふと思い出した。
「臆病、
言い得て妙な表現に、思わず咆助は納得してしまった。
咆助はゆっくり近付いて、ため息を挟んで未亜をじっと見た。今度は極力優しい目をしたつもりだった。
「あ、あの……」
「何隠れてんだよ? 別にお前を食おうってわけじゃねぇんだからさ」
「ほ、ホント……?」
「マジで食うかと思ってたのかよ」
咆助は頭を掻いた。
未亜はゆっくり立ち上がり、咆助を見下げた。
「い、犬飼君」
「ん?」
ごくり、と彼女は唾を飲み込んだ。
「私ね、こんな大きい身体で、でも力もなくて、いつもビクビクしてるから……」
「何が言いたいんだよ?」
少し黙った後、彼女は俯いたまま黙り込んでしまった。
――悪かったかな、俺。
咆助もしばらく黙り込んだ。
もしかしたら、彼女も体格で悩んでいるのかも知れない。先ほどの一言からなんとなくそう読み取れる。そしてそれは自分も同じことで、彼女とは逆のベクトルだが身長によるコンプレックスを感じているという点については同じはずだ。
「ごめん」
「えっ?」
「いやさ、俺、お前のこと怖がらせたのかなって思ってさ」
「そ、そういうわけじゃないけど……」
「怖がんなくていいって。こんなチビを怖がっていたら何もできねぇって」
――あはは、自分で言っちまったよ。
内心、ものすごいほどのダメージを受けた。やはり目の前にいる少女は非常に扱い辛いなと感じた瞬間でもあった。
自虐をかました瞬間、未亜はクスリと笑った。
「あ、ありがとう。犬飼君」
彼女の微笑みに、咆助は少しだけ顔を赤らめた。
――こうして笑うと可愛いんだけどな。
長い薄紅色の髪は、まるで桜のよう。背は高いが意外に手は細身で、まるで白魚のようだ。まぁ随分大きな白魚だが。そして顔だけで見れば、彼女はクラスでも、いや学年でもトップに入るほどの美少女であることは間違いない。顔もさることながら、胸も大きい。胸だけはいくら大きくても構わないというのが咆助理論その二である。
――いかんいかん。俺には珠美ちゃんがいるだろうが。
首を横に振って、彼女をじっと見つめた。
「で、俺は何すればいいんだ?」
「えっと、学級文庫の本を図書室に戻すんだけど……」
未亜は傍らに置いてあるダンボール箱を見つめた。
中にぎっしりと本が詰まっているものの、はっきり言って大きさは大したこともなさそうだった。ミカン箱大といったところか、小柄な咆助でも両手で抱えることができそうだった。
「重いから二人で持って……」
「よっこいしょ、と」
咆助はダンボール箱を持った。見た目より重さはさほど感じられない。教室の机ほどを運ぶ要領で持てば楽勝だった。
「犬飼君……」
未亜は信じられないといった目で呆然と眺めている。咆助にしてみればこれを持てない彼女が信じられなかった。
「すごい、ね……」
「いや、そんなに重くないぞ」
「そうなの?」
「お前、本当に力ないのな」
しばらく彼女は俯いた。
「ごめん……」
「だから謝るなって。寧ろこっちが悪かった」
――何度も言うけど、やっぱ扱いづれぇ。
咆助はしぶしぶ箱を運び、図書室へと向かった。
室内に充満した本の薄香ばしい匂い。久しぶりに図書室に来ると妙に強く感じてしまう。静寂に包まれた空気と相まって、室内全体が独特の知的な雰囲気に包まれていた。
咆助はダンボール箱を適当な場所に置いて、未亜が来るのを待った。
少し待つと未亜がやってきた。咆助を追いかけるのに精一杯だったのか、少し息を荒げて図書室に入ってきた。
「ごめん、遅くなって……」
「別にいいよ。さっさと片付けようぜ」
ようやく彼女の扱いに慣れてきた気がした。
とにかくこの仕事さえ終われば彼女から解放される。すぐさま手近な踏み台を探して、本を戻そうと数冊手にした。
「さて、これは芥川龍之介……“あ”だから」
すぐに見つかった。その場所を咆助は見上げた。
足元に台を置き、最上部に上って手を伸ばした。
「ん、ぎぎ……。手が、とどか、ない……」
――根性だ。
腕の腱が切れるか、というほどに咆助は手を伸ばした。あと三センチ。いや、五、六……とにかくその目と鼻の先ほどの距離が届かず、つま先から手の先までひたすら伸ばした。
「犬飼君……。あの、良かったら、私代わろうか?」
「いい! 俺がやる!」
真下で心配そうに見つめる未亜に向かって、意固地に怒鳴る咆助。
つま先に精一杯力を込めるも、その力が不安定さを呼び起こし、そして――。
「うわっ!」
「きゃっ!」
――ドシン!
バランスを崩した咆助は、そのまま台ごと地面に転げ落ちた。
「いって……」
痛みを抑えながらゆっくり咆助は上体を起こす。その瞬間、
――むにっ。
左手に柔らかい感触が伝わる。スポンジにしては弾力があり、ゴムにしては柔らかすぎる、異様な感触。
咆助は目線を真下に落とした。
「い、犬飼、くん……」
そのとき咆助は気がついた。まるで魔法の絨毯に乗っかるように、宇崎未亜に馬乗りになっているということに。そして、自分の左手が掴んでいた柔らかいもの――紛れもなく彼女の胸だった。
「のわっ! すまん!」
おもむろに彼女から離れた。
咆助が離れると、未亜もゆっくりと立ち上がった。
「いたい……」
「わ、悪かった……」
「ううん、いいよ。気にしていな……」
未亜が立ち上がろうとした、その瞬間――。
「うっ!」
未亜が突然地面にへたり込んだ。目に力を入れながら、右足首を押さえている。咆助は一瞬で彼女の状況を察した。
「まさか、捻った?」
「た、大したこと、ないよ……」
そうは言うものの、足首を押さえる未亜の姿は本当に辛そうだった。
――俺の、せいだ。
先ほど意固地になってしまった自分自身を思い出し、咆助は舌打ちをした。
「ほらよ」
視線を合わせないようにしながら手を差し伸べる咆助。未亜は目を点にさせながら不思議そうな顔で挙動不審になる。
「え、っと……」
「病院」
「え?」
「一緒に行ってやるって言ってるんだよ」
「あ、ありがとう……」
咆助の手を支えにしながら、未亜はよろよろと立ち上がる。非力な彼女とはいえ、ダイレクトに体重が掛かるとやはり咆助にも重力が伝わる。
理想としては肩を貸して歩くべきだと思ったのだが、一生懸命手を伸ばしても彼女の肩は妙に高い位置にあるために届かず不自然な体勢になってしまう。
「あ、犬飼君……。やっぱりいい、よ……」
遠慮がちになる未亜を見て、咆助は
「ええい、メンドくせぇ!」
おもむろに彼女の前に立ち、後ろ手に持ち上げた。
当然のことながら驚きのあまり未亜はバランスを崩しそうになる。しかし咆助はそれをものともしないかのように支え、彼女を上手におんぶした。
「は、恥ずかしいよ……」
「るせぇ! 事情が事情だ!」
そうは言うものの、咆助もまた顔を赤くしている。
「こんなところ、誰かに見られたら……」
「うおおおおおおおお!」
戸惑う彼女を余所に、咆助は一気に図書室から走り出た。
そこからの道のりはあまり覚えていない。どうやって靴を履き替えたのか、途中誰にすれちがったのか、とにかく全てが無我夢中で頭が真っ白のまま二人とも病院に向かっていった。
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