第2話 「恋する小犬」
咆助は揺れる電車の中で、ゆっくりと呼吸を整えて彼女を見つめた。
咆助よりも頭一つ分低い、比較的小柄な身長。ツインテール状になった淡い銀色の髪。ぷにぷにしたいほどの柔らかい頬っぺたに笑窪を作りながら挨拶を交わす少女は、咆助にとって理想そのものだった。
「おはようございます、先輩」
「あ、ああ。おはよう。
「いつも朝早いんですね。先輩の高校、もっと始業遅いんでしょ?」
「あ、それはその……」
咆助は口篭った。
君に会いに来ました、なんてとてもじゃないけど言えるわけがない。それだと先ほどのストーカー狐女と同じだ。
「まぁ、その……あれだ。このところ早く目が覚めちゃってさ。家にいても何もすることないしな」
「ふぅん」
もちろん嘘だ。きちんと目覚まし時計をセットしてこの電車に間に合うように家を出た。彼女に会いに行く目的でもなければ、あと三十分は家で寝ていただろう。
「そういえばさ、話変わるけど」
「何ですか?」
「猫沢は、その……もう三年生なわけじゃん」
「はい」
「その、マネージャーはまだ続けているのか?」
咆助が尋ねると、珠美は首を横に振って、
「いえ。もう春に引退しました。しばらくは受験に専念したいので」
「そう、か……。随分早くから受験勉強始めるんだな」
「早いに越したことはありません。先輩だって去年の今頃から始めていたじゃありませんか」
――まぁ、な。
彼女の言うとおり、咆助は大した志望校でもないに関わらず誰よりも早く受験勉強の態勢になっていた。率直に理由を言ってしまえば遅れを取るのがなによりも嫌なだけだったからであるが。
「今迷っているんですよね。志望校がふたつあって、どちらに行こうか」
「ふたつ?」
「蔵沼女子か、先輩の通っている千山東か」
「蔵沼女子って……」
ふと、先ほどの碇 月音のビジョンが咆助の脳裏に過ぎる。
彼女が通っているのが
「ダメだって、あんなところ」
「そう、ですか?」
珠美が不思議そうに見つめた。
「そうだって! 一見ものすごいお嬢様ばっかりが通っているみたいだけど、その中にはものすごい変な生徒もいるんだよ。なんていうか名前のとおり『女狐』って感じの、スゲー柄悪い奴」
嘘ではない。もちろん、その変な生徒というのは月音のことだ。
「じゃあやっぱり先輩と一緒の千山東にしたほうがいいのかな……?」
「あ、ああ。是非来いよ」
挙動不審気味に咆助が返事をすると、珠美は微笑みながら、
「分かりました。じゃあ私、頑張って千山東に合格しますね」
「お、おう……」
「来年からはまた同じ学校に通えるかも知れませんね。そのときはよろしくお願いします、ね。“先輩”」
――か、かわええ!
咆助は心の中でひたすら悶えていた。
――やっぱ女子はこうでなくっちゃな。背が低くて、微笑むと可愛くて、それで俺のことを慕ってくれる。こういう子を本当の女子って言うんだよ。それに引き換え、さっきのあの月音とかいう女、俺のことを見下したような態度を取りやがって。いっぺんマジで噛み砕いてやらないと気が済まないな。大体、何でスケバン気取ってんの? 時代遅れとかもうそういう次元の話じゃないっての。何かそういうドラマでも流行ってんの? てかバカなの? 俺、絶対あの女とは付き合いたくないな。うん。あと同じ高校の女子もないよな、全体的に。みんな軽く俺の身長を抜いていくしな。中には一六〇に満たない小柄な女子もいるよ。でもさ、そういうのって大抵彼氏いるし、正直そこまで可愛くないし、可愛くても性格悪いし、うん、やっぱないな。あいつらさ、マジで珠美ちゃんの爪の垢煎じて飲んでくれないかな? 多分親指から小指まで全部の垢飲んでようやくちょうど良くなるくらいじゃね? いっそのこと『珠美の爪の垢』って商品化して販売してもいいんじゃないか? コンビニのサプリメントコーナーあたりに置いてさ。これで世の中の女子どもが小柄で可愛らしくなってくれれば俺含む世の男どもは大喜び……。
「先輩……」
珠美が恐る恐る咆助に呼びかけた。
――いや、待て。珠美ちゃんの爪の垢だったら俺も飲んでみたいかも? そもそも珠美ちゃんに爪の垢などというものが存在するのか? こんな可愛らしい子に……。
「先輩!」
「あっ、ごめん」
電車内に響く声で珠美が呼びかけて、咆助はようやく我に返った。
「先輩、ずっと一人で何考えていたんですか?」
「あ、いや。別に……」
「それよりも、先輩。駅、とっくに乗り過ごしていますよ」
「えっ?」
『間もなく、
車内のアナウンスは、咆助にはあまり聞き覚えのない駅名を告げていた。
「な、何駅ぐらい?」
「多分、五駅ぐらいじゃないですか?」
その言葉を聴いた瞬間、
「ごめん、珠美ちゃん! すみません、俺降ります!」
咆助はアメフト選手さながらのタックルで電車を滑り降りていった。
反対方面の電車に飛び乗って、急いで学校へ向かったものの、結局学校に到着したのは一限目を半分以上過ぎてからだった。
もちろん、咆助にとってその時間は授業にすらならなかった。口から内臓を吐く思いで走ってきたせいか、呼吸を整えるのに精一杯で話など聞く余裕はない。残りの時間は終始机に突っ伏して過ごすしかなかった。
「犬飼、私の授業で遅刻するとはいい度胸だな」
担任教師の
「すんませーん」
わざと視線を逸らしながら、咆助は空返事をした。
「なんだ、その態度は!」
「あ!?」
咆助は睨み返す。
基本的に咆助にとって、自分より背の高い女性は敵も同然だ。教師とて例外ではない。たとえ相手が校内で一、二を争う人気美女教師だとしても、敵認定をしてしまえばその時点でアウト。
「全く、私はな、これでも貴様のことを買っているのだぞ! 不良っぽい態度を取っているかと思えば、遅刻はしたこともない、成績も上々。こないだなんか迷子の子どもを保護して家まで送り届けたそうじゃないか」
「別に俺不良じゃねぇし。ナメられるの嫌だから多少こういう風にしているだけですよ」
迷子の子どもに関しては、自分より弱い者は助ける主義だからなのだが。自慢げになるのも嫌なのでそこは伏せておいた。
「貴様……」
雷野はしばらくじっと見つめて、
「ちょっと可愛いじゃないか……」
「あ? 今、何か言いましたか?」
「私を萌え殺す気か?」
「もえ……なんだって?」
聞き覚えのない単語に、咆助は眉を潜めた。
「言っておくけどな、貴様は学園内でもそれなりに人気があるのだぞ。もっとその辺の自覚を持て!」
「に、人気ッスか……」
咆助は少し顔を赤くした。
「そうだ。飛び抜けて、というほどではないが比較的模範生として人気が高い。今のところ悪い噂も聞かないしな。私も担任として鼻が高いぞ」
「ま、まぁそういわれると悪い気はしないけど……」
「だからくれぐれも行動には気をつけるようにな。お前に信頼を寄せている先生や、お前のファンクラブのメンバーを失望させないように」
「ああ。わかったよ。大丈夫だって、先生や……」そこまで言って顔を真顔に戻し、「ちょっと待てや」
「ん?」
「『ん?』じゃねぇよ。俺のファンクラブって何だよ? そんなものの存在、初耳だぞ!」
「ああ、それか。まぁ貴様が知らないのも無理はない。非公認のファンクラブだからな」
「無理あるだろ! 本人、てか俺に許可取れよ! 非公認って言えばそれっぽくなると思ったら大間違いだぞ!」
「何を言う!? 我が『ホー君を思いっきり可愛がりたいの会』なんて名前、言ったところで貴様が認めるわけないだろう?」
「当たり前だ! てか何だよそのネーミング!? もっと他にいい名前があるだろ!? 誰だよそんなの付けた奴!?」
「もちろん名誉会長である私だ!」
「お前が会長かい!」
突っ込みの連発に、咆助は息を荒げた。
いつの間にか自分の知らないところでファンクラブが設立されていた。しかもそのネーミングが奇抜。更に担任教師がまさかの会長。まとめるとそういうことである。
冷静になって考えてみれば、ファンクラブの会長を務めている以上、この教師も咆助のファンなのである。そういえば先ほど彼女の口から「可愛い」だの「萌え殺す」だの聞こえてきたのだが、あれは決して空耳ではなかった。
――こいつは普段、教卓からどういう感情で俺を見ているんだ?
それ以上は深く考えないことにした。
とにかく、咆助は一旦深呼吸をはさんで、踵を返した。
「もう突っ込み疲れたんで教室戻っていいか……」
「ちょっと待て、犬飼」
まだあるのか、と咆助は溜め息混じりに振り返った。
「放課後、少し手伝ってほしいことがある」
「手伝い?」
「そうだ。図書委員の仕事なのだが、できれば男手が必要なのでな。貴様に協力を求む」
「協力っつっても」咆助は少し考えて、「うちのクラス、図書委員いませんでしたっけ?」
「うむ……。それが、その……」
雷野は奥歯にものが挟まったかのように言いよどんだ。
「まぁ、いっか。別に暇なんでいいッスよ」
とりあえず咆助は肯定的に返事をした。本心を言えば、一刻も早くこの場を去りたかったからなのだが。
「そうか。よし、これで遅刻の件はチャラだな」
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