咆える小犬と臆病大兎

和泉公也

1章

第1話 「小犬、咆える」

 時刻は午前七時四十分。

 脚に掛かる摩擦をものともしないかのように、犬飼咆助は家を飛び出した。

「うおおおおおおお!」

 ご近所の迷惑にならない程度に雄叫びを挙げながら、玄関の扉をバタンと勢いよく閉めた。そのまま『ケルベロス』と名付けられた自転車のスタンドを上げ、速度を最大にして漕ぎ出す。

「あと十分……。まだ間に合う!」

 駅までの道のりは、ざっと自転車で八分程度。七時五十分の電車に乗るには少々ギリギリすぎる時間だ。

 道中、赤信号を二回ほど無視。そして、小学生に一回、乳母車を引いた老人に一回、小猫に二回ほどぶつかりそうになったが、いずれも五ミリ程度の僅差で避けきった。

 七時四十五分――。

 おそらく自己最大記録であろう速度で千山東ちやまひがし駅のロータリーに辿り着いた。自転車置き場にケルベロスを停めると、急いで駅の入り口に向かおうとした。

「おっと、朝早うから息を切らしてどないしたんや?」

 突然合っているか分からない関西弁が彼の耳に届いた。

 もちろん、そんなものは無視。一瞬立ち止まりはしたが、形振り構う様子もなく駆け出そうとする。

「なんや、あんたは。せっかく人が挨拶をしとんのに無視かいな」

 声の主が、おもむろに彼の前に立ちはだかった。

 しなやかな長いブロンドの髪。やや釣り目だが、丹精に整った顔立ちの美少女である。しかし彼女が纏っているセーラー服は何故か踝くらいまで丈が長い。更には彼女の左手は竹刀を携えており、間違いなく普通の格好とはいえない。

 そんな彼女に驚くこともなく、咆助ほうすけはため息を漏らした。

「おはようございます。僕は急ぎますのでそれじゃ」

「待ちいな。そない急ぐ必要もないんやろ? ウチとちょい遊んでいこうや」

「ざけんな。どけ」

「嫌や」

 両者睨み合って、歯を食いしばる。

「いつもいつも邪魔しやがって。いかり月音つきね

「言ったはずや。ウチはあんたのことが気に入っているんや」少女は竹刀を咆助に向けた。「今日こそウチと付き合ってもらうで!」

「へっ!」

 咆助は鼻の頭を掻きながら、

「一応聞いておくぜ。てめぇの身長は何センチだ?」

「身長? 一六八センチやけど、それが何なん?」

「じゃあダメだ! どけぇ!」

 二人がおもむろにぶつかりあおうとした、その瞬間だった。

「咆助、そこまでだ」

 男の声が突然後ろから聞こえた。

「お前は先に行くダ」

「てめぇは男としてやんなきゃいけないことがあんだろ。こいつは俺らに任せろ」

 振り返ると、大柄なスキンヘッドの男と長身のリーゼントヘアの男が拳を握り締めながら立ち尽くしていた。

「けど……」

「迷ってんじゃネェ!」リーゼントが怒鳴った。「てめぇの愛はその程度か!? てめぇは、惚れた女に会いに行くこともできねぇちっこい男だったのかよ!?」

「もう時間がないダ。お前の男気、俺たちに見せるダ!」

鯨木くじらぎ鮫島さめじま……。恩に着るぜ!」

「逃がさないよ!」

 月音は咆助を塞き止めようと彼の前に立ちはだかるが、彼は小柄な身体を駆使してすかさず彼女の右脇の間をすり抜ける。すかさずリーゼントの男、鮫島が彼女の前に腕を組みながら立ち尽くした。

 そのまま咆助はホームまで駆け抜ける。通勤ラッシュの人混みに動じることもなく、改札に鮮やかな手つきで定期を差込み、体内のアドレナリンをフルに活用しながら誰かとぶつかることもなく構内を突き進んでいく。

「発車します。閉まるドアにご注意ください――」

「うおおおおおおお!」

 既に閉じかかろうとする電車の扉に、咆助は勢いよく滑り込んだ。瀬戸際のところで扉は閉じ、電車は揺れ動く。

 ゆっくりと深呼吸をした後、咆助は吊り革に掴まった。

「先輩、おはようございます」

 どきり!

 背後から聞こえるあどけない少女の声。それを聞いた瞬間、咆助は思わず肩を震わせてしまった。


「あんたら、いつもいつもウチの邪魔をしよってからに」

 千山東駅のロータリーでは、スケバン風の女子高生と柄の悪い男子生徒二名が睨みあっていた。その様はまるで一昔前の不良ドラマそのものだ。

「すんませんねぇ、碇の姉さん。アイツを今ここで立ち止まらせるわけにはいかないンスよ」

「男にはやる時と、やらなきゃいけない時があるダ」

「やる時しかないやないかい! しゃーないな、こうなったら腹いせや!」

「おっと、俺らとやるンスか? 言っておくけど喧嘩には自信あるッスよ」

「男二人相手じゃ分が悪いダ。謝るなら今のうちダ」

「ふん」月音は鼻を鳴らした。「ウチが一人やと思うたら大間違いやで」

 堅い風が三人の間を吹き抜ける。周囲の木々も撓った枝をその風に揺らされる。緊張のあまり鮫島と鯨木は唾を強く飲み込んだ。

「やっちゃってください、寅田とらだ先輩!」

 ドシン!

 月音の背後から、まるで工事現場の鉄骨が地面に叩き落されたかのような、鈍重な音が聞こえる。それが足音だと気づくのに時間は掛からなかった。

 のっしり、どっしりと背後から人影が現れる。しかしそれは人影というにはあまりにも巨大なものだった。いや、それは間違いなく人影だ。巨大だが確かにそこに人間がいる――混乱の正体はすぐに明らかになった。

「化け物ダ!」

 そいつは女だった。ただし、判別できるのは首から下がセーラー服ということだけ。

 野性味溢れる咆哮を挙げながら、その巨大女は現れた。月音より首三つ分ほど大きな身体に筋肉質な体系。厳つすぎる顔に睨みを利かせて、ゆっくりと上体を起こした。

「あ~ん~た~た~ちいいいいいぃぃぃ!」

 化け物が声を唸らせる度、鮫島と鯨木は拳を握り締める。奴は強い。そう察した二人は一層気を引き締めて、臨戦態勢を静かに整える。

「さぁて、おしおきの時間や……」

 彼女が言いかけた瞬間、巨大女は月音の頭を掌で押さえ込み、

「この大馬鹿もんがあああああああ!」

 ――ぐいっ!

「ぐえっ!」

 どごん!

 バスケットボールをドリブルするかのように、月音の頭を思いっきり地面に叩き付けた。

「ほえ?」

 てっきり戦闘に突入するかと思った男二人組は、呆気に取られたままこの様子をじっと眺めていた。

「すまないね、あんたたち。この子が面倒を掛けて」

 野太い声で丁寧に謝る巨大女、寅田。

「あ、別にいいんダ」

「と、寅田、先輩……どうして……」

 月音が押し付けられた顔をゆっくりと上げた。

「全く、朝っぱらから呼び出されたと思ったら、こういうことだったとはね。ストーカー紛いのことに付き合わされるこっちの身にもなりなよ」

「ストーカー紛いっつーか、ストーカーそのものなんスけどね」

「ストーカーやない! うちは正々堂々、咆助のことを正面から追い回しているんや!」

「屁理屈こねてんじゃないよ!」

 ドゴン!

 もう一度、月音の頭が地面にめり込む。

「この子もねぇ、決して悪い子じゃないんだよ。根はいい子なんだけど、どういうわけか好きな男には、こう見境がなくなるっていうか……」

 必死で弁解する寅田の姿は、まるで月音の母親さながらだった。

 鮫島はしゃがんで、月音とできるだけ目線を近づけた。

「なぁ、碇の姉さん。あんたが咆助のこと好きなのは分かるんスけど、もう勘弁してやってくんねぇッスかね? 毎日こんなことしてたら、惚れるもんも惚れられなくなるッスよ」

「だって好きなんやもん……」

 鯨木は首を傾げながら、

「碇の姉さんはどうしてそんなに咆助のことを気に入っているんダ?」

「かわええんやもん」

「かわええ、ねぇ……」

「あのクリっとした目でされる流し目とか」

「睨みつけてるんスよ、それ」

 本人曰く、だが。

「たまにこぼれる八重歯とか」

「それ、キバなんダ」

 言うまでもなく本人曰く、だが。

「何より、ちっこいところがメチャかわええねん!」

「本人聞いたらすっげー怒るッスよ!」

 ドスの利いた睨みを向けながら怒りを露にする咆助の姿が想像される。全くもって怖くないが。

「何でや!? 咆助のそういうところがウチの好みド直球やねん!」

「咆助のコンプレックスにド直球ダ!」

 咆助のコンプレックスであり、弱点。それが身長。ちなみに一五八センチという、早ければ小学校高学年くらいにも抜かされているレベルだ。もちろんそのことに下手に触れれば、彼の逆鱗に触れること請け合いだ。

「月音。もう諦めな」

「先輩までそんなこと言わんといて……」

「あんた、見ただろ? さっきのあの男の眼……」

 寅田はゆっくりと駅のホームを見つめた。

「ありゃ、本気で惚れている男の眼だよ」

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