<5.末期>

 がしゃん、と重い鍵のかかる音。部屋の中は重厚な金属に囲われ、例えダイナマイトを使っても簡単には壊れないだろうことを、愛は理解していた。

 だが、ここに来るまでに落ち着いたかと言われたら、そうではない。

 独房のようなこの部屋の中、ベッドの上で膝を抱えてぶつぶつと呟く。

「ゼン、愛してる。愛してる。愛してる……」

 この一ヶ月で、愛の意識は反転した。

 母親の愛に嫌気が差し、己が進む道を拒み、子供のままを求め続けて、自分で子供になりきって大人への嫌悪を募らせ続けた。

 それが、あの日、全に出会って声を聞いた瞬間から、すとんと抜け落ちた。

 ずっと求めていたものを強請ると、子供の姿では駄目だと言われた。

 大人にならなければいけないのかと思った時、監視カメラが付けられ、すぐにその陰謀に気付いた。

 だから、全を自室の隅に招いて、大人になってみせた。

 驚く彼は、だがすぐに応えてくれた。二人で見た夢は、広い広い花畑で、どこまでも広がる青空で、ずっとずっと笑い合って愛を囁き合っていた。

 現実でもそれが欲しくて、疑似的に愛を囁き合いながら、肌と肌で触れ合った。痛みさえも、彼がくれるのなら、快楽へと変わった。

 声だけじゃない。彼は合間を縫って、ちゃんとやるべき事をやっていた。当事者である自分達を使って、立証をレポートにまとめていた。

 片方だけではなく双方が声によって恋愛感情に陥り、依存性を高め合い、共に同じ夢を見続ける。いつしか人としての本能さえも捨て、二人だけで夢の中の楽園に辿り着く事だけを考えた結果、最初の一組はほぼ餓死状態で発見されたのだと彼は言っていた。

 だから、自分達もそうなるのだと信じていた。

 でも、違った。この研究所は、邪魔者が多過ぎた。

 全の立場は知っている。自分の存在理由も分かっている。

 それが何だというのか。どうして引き離すのか。

 愛にとって、世界は全だけでいい。全にもう一度会う為に、ここを出なければ。

 だが、扉は開かれず、一日三回、下の小窓から差し出される、薬入りの食事だけ。そして冷たく暗く悲しい夢。

 時計も無い今、どのくらいの時間が経ったか分からない。

 食事は全部手を付けずに返して、ベッドに横たわるだけの日が続く。

 一日の大半が冷たい眠りに費やされつつある頃、久しぶりに他人の声が聞こえた。


『――娘を信じて預けたのに、どういうおつもり!?』

『ですから、娘さんは急激な成長により錯乱状態でして、一時的に……』

『どうでもいいから、早く出してちょうだい! もう任せておけないわ!』


 誰だっけ、とぼんやりした頭で思う。すると、鉄格子つきの扉窓から、記憶にある顔が見えた。

『愛!!』

「……おかあ、さん?」

 何となく思い出して呼ぶと、母親らしき人物はヒステリックに叫んだ。

『ああ、何て可哀想な姿に! ここの人間は、まともな食事すら出さないの!?』

『ち、違います。食事に手を付けず、返されてしまうんです!』

「薬、入ってるから……いや」

『何ですって!? 教えたはずですわ! この子は薬に敏感で、どう混ぜても気付くんです! うちの大事な娘を殺すおつもり!?』

 心配しているのか、怒っているのか分からないし、どうでもいい。ただ、少しうるさい。

 だが、ガチャガチャという音がして、扉が重い音を立てながら開かれた。

「愛! 帰りましょう!」

「……ゼンはどこ?」

「ゼン? さあ、分からないけれど、家に帰って、ちゃんとしたご飯を食べましょう? こんな所、一分一秒だって居させられないわ」

「…………ゼンと一緒じゃなきゃ、嫌」

 逃げられそうにないが、帰りたいわけでもない。

 ただ、全と一緒に居たいだけなのに。

 そう思っている愛に、母親がにこりと笑った。愛にとっては、気持ちの悪い笑み。

「そんな人より、もっと素敵な人を紹介するわ。もう連絡は取ってあるの。きっとあなたも気に入るわ」

「……誰、それ?」

「あなたに釣り合った、とても素敵な男性よ。頭も良くて、家柄も、性格も。もちろん顔も。だからとっても可愛い赤ちゃんを――きゃあ!?」

 皆まで言わせず、愛は母親の手を振り払った。伸びきった爪で引っかいたかもしれない。母の頬が赤い筋を走らせている。

「いや、きもち、わるい。ゼン以外のひとなんて、いらない」

 見知らぬ誰かなんて、嫌だ。この体はもう、全以外を受け入れない。

 だが、抗ったところで、結局は無理矢理力ずくで連れて行かれる。

 それなら、と愛は立ち上がった。よろよろと歩き、研究員に詰め寄る。

「ゼンに、会わせて。じゃなきゃ、死ぬ」

「む、無理ですよ! 禁止されてるんです!」

「愛! あなた、一体どうしてしまったの!?」

「うるさい。マナはゼンと楽園でずうっと過ごすの」

「ら、楽園……?」

 呆然とする母親を無視して、ふらつく体で歩き出す。

「ゼン……どこ? ゼン、ゼン……」

 ぺた、ぺた、と裸足で歩く愛を追いかけ、研究員が止める。

「戻って下さい! でないと、脱走者としてもっと悲惨な場所に閉じ込める事になりますから!」

「わあ……ゼンにこのまま会えないなら、死んでから会うから、いいの。でも、ゼンに会いたい」

「くそっ、これがあの症候群の末期症状か……!」

「ゼン、ゼン。愛してる。永遠に」

 愕然とする研究員を置いて、また歩き出す。寝ても覚めても全の事だけだ。

 ふらふらしながら、ただ長い廊下を歩く。途中で止める人間が居るが、構わずに。

 実際の所、止めに入る研究員達は愛の異様な様子に怯えて、躊躇しているだけだった。楽園症候群の事を知らない人間なら、なおの事。

 それでも止めようとした人間は、さっきの研究員のように狂気的な言動を聞いて手を止めてしまい、そのまま逃がしてしまう。


 ――だから、なのだろう。


「……る、まな……してる」

 求めた声が聞こえた瞬間、愛はもつれながらも駆け出した。


※ ※ ※


 彼女を失って、どれくらい経過しただろう。

 記憶も結局は奪われず、だが研究も何もかも取り上げられ、反逆者として独房に入れられ、食事も摂らずに衰弱しながらも、彼女を求める。

 だが、怖くはない。このまま永遠の眠りにつけば、彼女と再会出来るのだから。

 そんな日々に終止符が打たれた。

 ぺた、ぺた、とゆっくりした足音。そして鉄格子の窓からのぞいた顔は。


『ゼンっ!!』


「愛!!」


 ――全は、世界で一番大事な存在と再会を果たした。

 鍵は開かない。そして周りには誰も居ない。

「ごめん、そっちに行きたいけれど……」

 この扉は頑丈で、そうそう簡単には破壊出来ない。そして抜け穴もない。

 だが、愛は首を横に振って、下の小窓から手を差し出した。

 元々細かった手が、ほとんど痩せこけてしまっている。

「ああ……愛……ずっと、触れたかった」

 その冷たい指先に口付ける全は、だが片手できゅっと握って、ドアに背を預けて言った。

「ねえ、愛。そこに座って。一緒に、楽園に行こう」

「ほんと? 一緒に行こう、ゼン。マナ、つかれて、ねむくて……」

「うん。僕も、愛と出会えたからかな。何だか、眠いや……」

 世界で一番愛しい相手と再会した喜びからか、急速に全身から力が抜けていく。それでも、彼女の手だけは離さずに。

 そして眠りに落ちる最後の瞬間、二人は同時に告げる。


まな、愛してる」

「ゼン、愛してる」


 ――関係者たちが駆けつけて来た時、扉ごしの彼らの顔は、幸福に満ち足りた死に顔であった。

 研究員達は恐れ慄き、愛の母親は半狂乱になり、そして騒ぎを聞きつけた所長と時雨は――ただ愕然と、立ち尽くすだけだった。

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